マオ 誰も知らなかった毛沢東 (上) (下)

     今まで中国の近代史には興味がなかったのですが、書評サイトHONZ を主催する成毛 眞さんが「毛沢東の大飢饉」( 著者/フランク・ディケーター) という本を推薦していたので気になっていて、その「。。大飢饉」を読む事前知識をインプットしようと思って本書を読んだのですが、いやぁ。。中国の近代史の凄さを実感することができました。本書の著者はユン・チアンさんとジャン・ハリデイさん。ユン・チアンさんは、中華人民共和国出身で、学生時代にイギリスへ留学。ヨーク大学で言語学を専攻し、博士号を取得。その後テレビの仕事を介して知り合ったイギリス人歴史学者、ジョン・ハリデイ氏と結婚し執筆活動に入ります。1991年、自分の祖母、母、自分自身の生涯を描いた『ワイルド・スワン』を発表し、一躍ベストセラー作家に。その作家としての充実期に次の題材として選んだのが中華人民共和国建国の父、毛沢東です。

  おそらく本書の際立っているのは、毛沢東という存命中、海外にあまり知られることのなかった中国の指導者を終始「自己中心的な暴君」という視点で語っていることです。本書上巻の第1部「信念のあやふやな男」の中で、毛 が24歳の時にドイツ人哲学者フリードリヒ・パウンゼンの著書「倫理学大系」に注釈を加え書き上げた論文を引用しているところがあります。「毛沢東の倫理観の核心はただ一つ、『我』があらゆるものに優先する、という概念だ。『道徳の価値は他人の利害を行為の動機と為すことにあると考える人もいるが、吾(われ)はそのようには思わない。。吾人(われら)はそれらは。。心ゆくまで満足を得たいと欲し、そうすることでおのずから最も有益な道徳律を持つに至る。もちろんこの世界には人間がおり物事があるが、それらはすべて我のために存在するのである。』 毛沢東は責任や義務といった束縛をことごとく斥けて、『吾人は自己に対してのみ義務を負うのであって、他人に対する義務はない』、『吾は吾の知る現実に対してのみ責任を負う』、『そしてそれ以外に対してはいっさい責任を負わぬ。過去は吾の関せざるところであり、未来も吾の関せざるところである。それらは吾の一身には何ら関係がない』と書いている。また将来の世代に対しても責任を明確に否定して、『人間は歴史に対して責任を負う、という人もいる。吾はそうは思わない。吾はただ自己の陶冶(とうや)にのみ関心を抱き。。自己の追求を抱き、それに則って行動する。吾は誰に対しても責任を負うものではない』とも書いている。」そして、「毛沢東の倫理観は、絶対的な自己中心性と無責任さが中核をなしていた。」と語っています。(以上、上巻P35)この批判視点において毛沢東の人生が語られているのですが、Wikipediaによれば、著者は本書の取材執筆に10年以上の歳月をかけ、ロシアやアルバニア所蔵の公文書、生前の毛沢東に接触した数百人もの中国内外の人々へのインタビューや毛沢東の関係する場所へ赴き綿密な調査を行ってるようなので、かなりの信憑性はあると考えていいでしょう。この全編を貫く批判精神が全くの空論ではなく、しっかり調査を行い、根拠を持って描き切っていることに本書の価値があると思います。また、毛沢東の写真が豊富なのも貴重です。

  毛沢東は1893年12月26日、中国中央部湖南省の小村の小作農の息子として生まれます。以降清国の滅亡、辛亥革命、中華民国の誕生、国民党の躍進、日本軍の満州建国など中国の近代の動乱の時代を体験する中で、共産党に入党し、徐々に党内での地位を確保していきます。1934年、国民党軍の度重なる攻撃により、共産党の紅軍は本拠地である瑞金を追われ、そこから陝西省の延安まで大移動(長征)し、そこを新たな拠点として活動を開始します。やがて日中戦争が始まり、毛沢東率いる共産党は、蒋介石率いる国民党と共に日本軍と対峙します。このあたりの状況は、もっと関連本を読まないとわからないのですが、本書が面白いのは、この日本軍の敗戦後、共産党軍が蒋介石率いる国民党軍を台湾へ敗走させたあたりからです。1949年、中国大陸内での支配体制をほぼ手中に収めた共産党の毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言します。

  この辺から毛沢東は、関係強化のためたびたびソ連を訪問しスターリンからの援助を引き出すことに成功します。この時点では、まだまだ支配体制が脆弱な毛はスターリンに対し頭が上がりません。しかし、スターリン死後、次期ソ連指導者に選ばれたフルシチョフに対しては態度豹変。ソ連や東欧諸国から核開発のための技術、機械類を輸入し、中国を超大国にする野心を描き、重工業化を目指します(大躍進政策)。その海外から購入した兵器、機械類の代金として中国は農産品で決済を行うことにします。そのため、農産物の生産向上のため生産計画を作成。農村部に農産物生産拡大を指示します。この農作物増産のため、灌漑事業、農村部の開発を各地で行うのですが、開発計画がずさんで、またその達成を急ぎすぎたあまり、土地開発は思うようには進まず、その計画の多くは途中で頓挫、破棄されます。その結果、農村部での生産性は上がらず増産も思うようには行きませんでした。一方、大躍進政策の元で作成された計画は、当然ながら共産党指導部では必達が求められていた状況で当初の計画変更はありえず、その結果、中国農村部の指導者は中央の指導者に、当初の計画以上の生産を達成した、と実際によりも数字を多めにして嘘の報告をします。また、全国的に穀物の不作が続くようになると、農民たちは、自分達が貯える分まで、国の計画の為に無理やり穀物を拠出することになります。また、大飢饉にも見舞われ、農民たちは痩せ衰え、ついには雑草や、泥なども食するようになり、中には空腹の為、人肉食に及んだ農民も少なくなかったのです。そして、1960年には2200万人もの餓死者を出すに至ります。この農民の苦しみを見かねた共産党指導部の主要メンバーの中には、毛沢東批判を行う者もでてきます。(劉小奇、周恩来等) 党大会での公然の自身への批判に憤慨した毛沢東は、党大会での批判が党の主要メンバーの一部から、大都市や地方への党員や人民へ波及するのを恐れ、後年、反毛沢東派の指導部メンバーや、批判勢力に傾きそうな予備軍メンバーを一斉に、かつ、徹底的に撲滅する粛清運動を行います(「文化大革命」)。

  毛沢東は、また、中国人民を中国が超大国になるのに必要な犠牲(消耗品)として考えていたフシもあります。例えば、本書の中に次のような記述があります。「(1950年10月)中国の朝鮮戦争参戦時において)毛沢東には、自分がアメリカに負けるはずがない。という確信があった。中国には何百万人もの兵士を使い捨てにできるという基本的な強みがあるからだ。(中略)兵士の使い捨て競争になればアメリカがとても太刀打ちできないことを、毛沢東は知っていた。そして、これにすべてをかけるつもりだった。」(下巻 P62) 当時の第一次産業主体の技術後進国、中国が、先進国と伍していくために、中国は他の先進諸国と比べ何が秀でているのか。と考えた時に、やはりそれは人口の多さしかなかったのでしょう。ですので、この朝鮮戦争においても、大躍進政策にしても、人民の犠牲は中国発展のための捨て石として考えていたのでしょう。実際、毛沢東には、普通の人間が持つ、他者への思いやりとか共感といった感情が欠落していたような記述が毛沢東を扱った他の本でも見られます。(*)

  恥ずかしながら今まで興味を持ったことのなかった中国の近代史を、とても興味深く読めました。毛沢東は、端的に言えば、中華人民共和国の建国者として、自分の生きている間に、手段はどうあれ、中国を世界一の超大国にしたかったのだと思います。そして、中国が世界一になる瞬間を自分の目で見て死にたかったのでしょう。「失意が毛沢東の身を焦がしていた。何十年も熱望していた超大国の座は、ついに手にすることができなかった。(中略)その年の10月、毛沢東はキッシンジャーに対して、中国は大国の仲間入りはできなかった、と、残念そうに話した。毛沢東は、『世界には超大国が二つしかありません。。。我が国は遅れています。。』と発言し、指を折って数えながら、『わが国は最後です。アメリカ、ソ連、ヨーロッパ、日本、中国 ー ほら、そうでしょう』と述べた。」(下巻、P503)と、フォード大統領が訪中する数週間前に語ったのです。

  実は毛沢東は晩年、筋萎縮性側索硬化症(俗にいうルー・ゲーリック病)という不治の病にかかっていました。この病にかかると、腕、足、舌と咽頭などの筋肉が麻痺し、言葉が喋れなくなり、食べ物が飲み込めなくなり、最後には呼吸が出来なくなるのです。「最後から二番目に毛沢東と会談した人物、シンガポールのリー・クアン・ユー首相の描写によれば、毛沢東はうめき声を発するだけでほとんど意味のわかる言葉を話せず、肘掛け椅子の背に頭をもたせかけたままだったという。実際、最期が近づいたこの時期の写真では、毛沢東はどう見ても世界の指導者という態(てい)ではない。よだれをたらし、生気のない表情で、口をぽかんと開けた顔は、老醜そのものだった。」(下巻P505)

  うーん、、海を隔てたお隣の国の指導者が、国の近代化のために7000万人とも言われる国民を死に追いやった人物であり、その国の近代史がこんなに国民に筆舌を尽くせぬ苦労と犠牲を強いたものだったとは知りませんでした。

(*)毛の専任医師、李志綏氏が書いた「毛沢東の私生活(上、下)」(文春文庫)にもそのような記述があります。