キッシンジャー[最高機密]会話録

  キッシンジャー外交の成果により、1972年2月21日に行われた「ニクソン訪中会談」。この会談によりそれまでの米中関係が、対立から和解を模索する方向へ劇的変化を遂げました(「ニクソン訪中機密会談録」で紹介)。

  本書「キッシンジャー[最高機密]会話録」は、そのニクソン訪中の前年からニクソン訪中、そして、その後の、キッシンジャーがアメリカ政府から去るまでの1971年から1976年までに行った中国やソ連との重要会談の極秘記録が公開されたものを、編集し一冊の書籍にまとまたものです。編者は当時の国家安全保障公文書館(NSA)の上級アナリスト、ウィリアム・バー氏。「ニクソン訪中機密会談録」の紹介ページでは、当時のアメリカと中国が和解に向けた協議を始める背景を簡単に紹介しましたが、この時期、アメリカとソ連も和解に向けた交渉を模索していました。それがいわゆる「米ソデタント」という政治対話です。その理由としては、アメリカはベトナム戦争の泥沼化で、軍事費が相当の負担になり、またアメリカ市民からもこの戦争の支持が得られなかったため、アメリカは、自らのプライドを維持した形の戦勝終結を模索したいてこと。一方のソ連は、東側諸国の農業政策の失敗などで食料自給が不可能になり、早急にアメリカとの関係回復を迫られるという事情がありました。 アメリカは「ニクソン訪中」を成功させたことにより、中国に接近することに成功し、ベトナム戦争終結に向けた有利なカードを手にすることができ(当時中国は北ベトナムと対話チャンネルを持っていた)、また、中国との良好な関係をソ連に見せつけることでデタント交渉を有利に持っていき、(二国の接近を良しとしない)ソ連と核兵器制限交渉を有利に、継続的に行うことが可能になったのです。

  本書は、外交を勉強していないとわからないところもありますが、要するに「当時のソ連の拡張主義的外交や、量にものをいわせる核兵器開発などでソ連の封じ込めをするため中国に接近(懐柔)し、一方では、その二国間の蜜月関係を利用し、ソ連との核兵器制限交渉を継有利に進めソ連の脅威を排除しようとするアメリカの「三角外交」(語弊があるかのしれませんが、男女でいうなら「三角関係」のようで)にフォーカスして読むとけっこう面白いと思います。また、こういった実際の公文書を読むと実際の交渉を行った政治家のナマの事に触れることが出来、興味をそそります。

  キッシンジャーの外交姿勢は、秘密主義、冒険主義、国人の盲従を要求するエリート主義、策略主義等、アメリカの政治界からはいろいろ揶揄されましたが、1971年の中国の国連復帰(アルバニア決議)、1972年の日中国交正常化、1972年の第一次戦略兵器制限交渉(SALT I)締結、1979年の米中国交正常化、第二次戦略兵器制限交渉(SALT Ⅱ)調印、、、これらは、全てキッシンジャーの直接的、間接的な外交成果です。

  少し前に、立花隆さんの「田中角栄研究」を紹介しましたが、その中で田中氏の政治家としての能力に関し記述しているところがあります。田中氏が大蔵大臣就任後の国会答弁の時、(答弁を心配し、田中宅を訪れた大蔵官僚に)「『自分は小学校出だが、一晩寝ないで(官僚がつくった)書類を読んだよ。』というような言葉で、大蔵省の官僚たちの同情をうまく買い、彼らを味方につけた。」という記述がありました。この「自分が小学校出だ。」という台詞は国民や官僚の同情を誘い、味方にするための一種の方便のとして意図的に使っていたようですが、この辺の記述からは、政治判断や政策を官僚に頼る政治家と、(政治家が頼りないから)自分達の判断で国の政策をつくり、その主旨に沿って国会で政治家に答弁させようとする官僚のもたれあいの関係、その結果として後年、問題となる官僚肥大化の原型のようなものが当時すでに出来上がっていたように感じられます。 

  ヒトラーの人種主義により親戚の半分を殺され、アメリカへ渡り、勉強の虫になりハーバード大学で頭角をあらわし、実力で政治界へ進出したキッシンジャーと、貧しい農家の出自で、土建業から金権人脈で政治のトップに上り詰めた政治家を容認する日本の政治。。よく日本の政治の質についてマスコミが新聞などで書きますが、その指摘は、こういったキッシンジャーさんや田中氏の書籍を読むと、実感として理解できます。。グローバリゼーションが進み、常に物事をベストプラクティス基準で行うようになりつつある現代において、長老政治、肥大化した官僚主義、金権政治、、といったこれまでの日本の政治のやり方を変えていく必要があると感じます。