電力と政治 日本の原子力政策全史(上)No1
みなさんは、「原子力村(ムラ)」という言葉を御存知でしょうか? ちなみに、核燃料再処理施設がある茨城県の東海村ではありません。
「原子力村」というのは、原子力開発を国策としてきた日本において、その開発の過程で得た膨大な予算を背景にその原子力政策を強力に推進してきた、原子力発電業界(産・官・学にわたる)において特にその分け前に与(あずか)ってきた関係者ことを指します。 おそらくこの言葉がわからなかった方は、今回紹介する書籍を読んだ方が良い人です。(とはいっても、かく言う私も原発関連の東海村かその近辺の村のことだと思っていた一人です。)
本書「電力と政治」(上・下)は、タイトルから、日本の政治と電力政策がどのように関わってきたのか、をテーマにした本かと思う方もいるかもしれません。しかし、副題にあるように内容は、原子力発電を中心とした電力・エネルギー政策と政治との関わりを主題としています。特に原子力開発に焦点を当てた理由は、(「はしがき」に書いていますが、)上川さんは、原発をめぐる政治を分析せずには、戦後日本の政治と電力体制の関係は理解しえない、と考えているからです。(著者、上川 龍之進さんは、現在、大阪大学大学院法学研究科の教授で、政治過程論、政治経済学、現代日本政治論、行政学の研究を専門としている政治学者です。)
うーん。。実は、私も正直、本書を読むまでは、日本の電力政策に原子力開発がこんなにも深く、密接に関わっていたことは知りませんでした。また、原子力開発に、「原子力村」を中心とした利権のネットワークがこれほどまでに構築されていたこと、それに、原子力政策についていかに我々、国民が知らされていなかったのか(言い換えれば、原子力村が原子力開発の過程で世論をコントロールし、「原発の安全神話」を巧妙に創り上げてきたこと)が(本書を読んで)よくわかりました。
日本の原子力政策の始まりは、1953年、アメリカが原子力開発における原子力政策を原子力貿易の解禁、原子力開発利用の民間企業への開放など、国際協力促進へシフトした時に遡ります。 翌年の1954年、アメリカの政策転換に同調するように日本で原子力予算が成立します。当初は、被爆国として原子力開発に反対する科学者もいたのですが、当時の若手政治家、中曽根康弘氏等の長期的な国策としての原子力研究への強い思いから「原子力三原則」が制定されます。そして、「原子力の研究、開発及び利用は、平和の目的に限り、民主的な運営の下に、自主的にこれを行いその成果を公開し、進んで国際協力に資するものとする」とし原子力開発が始まったのです。
原子力発電とは、原子核分裂時に発生する熱エネルギーで高圧の水蒸気を作り、蒸気タービンおよびこれと同軸接続された発電機を回転させて発電する発電方式です。御存知の通り日本は資源のない国で、戦後「エネルギー政策」と言うのは国の根幹をなす喫緊の課題でした。歴史を振り返れば、日本が第二次世界大戦で大陸を目指した理由の一つは「石油の獲得」でしたし、1970年代の国の成長期に発生したオイル・ショックでは、中東に石油を政治の道具に使われ、原油が値上がり、国内ではトイレット・ペーパーの買い占めが起こったりと、日本は、エネルギー政策に関しては常に苦汁をなめてきた経緯があります。 そういった、資源のない日本が技術立国を目指す上で、「核分裂」を管理・発電技術を確立し、他国へのエネルギー依存から完全に脱却できる原子力開発と言うのは、積年の夢であったのかも知れません。このようなわけで紆余曲折もありながらも日本の原子力開発は推進されて行きます。ちなみに、日本アニメで有名な「鉄腕アトム」の主人公アトムや妹ウランなどの名前も原子力から来ています。このアニメも日本の当時の原子力政策からの思わぬ副産物と言ってもいいと思います。
現在の電力体制において原子力発電などの電力を供給する電力会社は、民間会社10社あり、日本全国をそれぞれのエリア(北海道、東北、東京、北陸、中部、関西、中国、四国、九州、沖縄)に分け、地域独占で発送配電一貫の電力供給を行っています。もともとこの電力体制は1951年、九電力体制(当時、沖縄は含まれなかった)で、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の意向などを受けて発足しました。
前述した「発送配電一貫経営」についてですが、まず、発電所では数千~二万ボルト電圧の電気をつくります(「発電」)。この電気は、変電所で送電効率の良い超高圧電源(二七万五千~五十万ボルト)に変電され、送電線で各地へ送電されます。この電気は、さらに各地の超高圧変電所、一次変電所で電圧を下げられ(送電の途中の変電所で電圧を下げるのは、発熱による送電ロスを少なくするため)、その後中間変電所、配電用変電所などを通って、鉄道、工場、ビル、住宅へ配電されます。業界では、この発電所から配電用変電所まで電気を送ることを「送電」、そこから先を「配電」と呼んでいます(下図 「電気の送られ方」)。 つまり日本では、この電力会社10社が地域独占で発電・送電・配電までを一手に支配する供給体制を維持してきたのです。この10社による売上げの規模は福島原発事故前でなんと15兆円。日本の電力市場がいかに大きいものかよくわかると思います。
この電力市場の大きさを背景に、「原子力村」を核とした産・官・学のネットワークで日本の原子力開発は進められていきますが、1990年代半ば、電力需要の停滞、それに欧米諸国での電力自由化・発送電分離が進められ電力自由化の議論が起こります。また、1979年のアメリカのスリーマイル島原発事故、1986年には、ソ連、チェルノブイリ原発事故、一方、日本国内では余剰プルトニウム問題、核燃料サイクルの問題、高速増力炉もんじゅのナトリウム漏れ事故、JOCウラン加工工場臨界事故などで原子力産業は冬の時代に入ります。
ところが、2000年代に入ると、状況は一転、新興諸国の急激な経済成長でエネルギーの需要増大が見込まれるようになり、また、地球温暖化問題において二酸化炭素の排出が少ない原発が見直され、再び原発に脚光が当たるようになります。
この世界的な追い風を背景に、日本では2005年、内閣府で「原子力政策大綱」がまとめあげられます。この中で「原子力発電が、2030年以後も総発電電力量の30~40%程度か、それ以上の供給割合を担うこと、使用済み核燃料の処理方法は再処理を基本とすること、高速増殖炉については2050年頃から商業ベースでの導入を目指すこと」などが明記され、また、原子力産業の国際展開として原発輸出にも積極的に推進する方向が打ち出されます。 更に、2006年には、経産省の原子力部会で「原子力立国計画」という上記政策を更に推し進める内容の報告書をまとめます。このような流れの中で、原発輸出は国策となっていきました。
上記のような流れを受け「原子力村」は活気づきます。マスメディアに対する影響力が絶大だった電力業界は、資金にモノを言わせ、「原発の安全性」をアピールしていきます。まず電力会社10社が使う広告宣伝費がまず凄い。その額866億円です(2011年度)。このうち東電の支出が269億円(内訳はテレビ・ラジオ放送70億円。広告・広報掲載46億円。) 実は電力会社とテレビ局の経営層の結びつきは強く、電力会社は日本の民放大手放送局、放送番組審議会などへ社外監査役や元役員レベルのスタッフを送り込んでいます。こうした関係を通し、電力会社は原発を批判的に取上げたテレビ番組に対して圧力をかけて行きました。同じような構図はメディア界にも見られます。電力業界は記者個人をターゲットに過剰接待を行なったり、原子力関連の団体に天下り先まで用意することで、メディア関係者を厚遇し、原子力に対する世間の懐柔対策として彼らとの協力関係を利用したのです。電力業界から広告料を多く受け取る雑誌社では、原発に反対する記事など掲載するはずはなく、逆に原子力事故や不祥事が起きるたびに、電力会社を擁護する記事を掲載しました。電力会社は、 原発推進のPRを行う市民団体やNPOに対しても資金を提供。更には教育現場にも介入して「原発に対する安全面で『不安』『疑問』との言葉を使っている教科書に対して『表現が不適切』である」としたり、また、「自然エネルギーへの期待が過大である。」 として代替エネルギーには課題があることを示唆する表現に直すような提言を行ったのです。 こうしたメディアへの影響力は電力会社10社中、東京電力が圧倒的でした。なぜなら福島原発事故の前の10社全体の売上合計約15兆円のうちの1/3にあたる5兆円が東電の売上だったからです。ある西日本の電力会社社員は「中部、関西も発言力はあるが、東電は別格。東電の意志が電力の意志だ。」と語っています。(No2へ続く)
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