政治と電力 日本の原子力政策全史(下)No3
皆さんご存知の通り、2011年3月11日の東日本大震災の巨大津波により福島第一原発は全電源喪失、炉心損傷を起こします。その結果、原発は水素爆発を起こし大量の放射性物質が外へ放出されるという大事故になりました。時の政権を担っていたのは民主党。実はこの事故以前は自民党と同様、原子力政策には前向きでしたが、この事故後「脱原発」に方針を転換。しかし、紆余曲折を経てその方針は後退し、その後自民党が政権を奪取。少しずつですが原子力政策(原発再稼働)を前に進めているような状況で現在に至っています。
ただし「前に進める」と言っても福島原発の大事故以来、国民の世論もあり原発政策に関しては以前のように原子力村だけで推し進められる状況ではなくなっています。その理由の一つが、福島原発事故後の「原子力規制委員会」の設置(*1)です。この委員会は高い独自性を保ちつつ、原発の(再)稼働に対し、厳しい規制基準を課している委員会です。「反原発派から見れば新規制基準も不十分であり、また極めて例外的であった40年超の原発の運転延長を次々容認するなど、同規制委員会の政府からの独自性は疑問符がつけられるのかも知れない。しかしながら、福島第一原発以前の原子力規制期間と比べればその審査の厳しさは顕著であり、原発の再稼働が容易に進まない最大の原因になっている。」この委員会の設立を推進したのは、実は時の野党自民党でした。当時の自民党は、原発の「安全神話」を広めて、原発を推進拡大してきた責任を追及される立場にあり、その批判をかわすために自民党は菅さんの原発事故対応を攻撃する材料として、この委員会設置を検討しました。しかし、この委員会がその独立性の高さから逆に自民党の「足枷」となってしまったのです。また、当時の原発事故で義憤を高めた行政裁判所の裁判官達の原子力政策に対する批判判決(*2)も状況を複雑にしている要因になっています。
そのような国民を含めた利害団体が綱引きをしている複雑な状況下で、比較的に順調に進んでいるのが「電力自由化・発送電分離」です。まず、「電力自由化」についてです。電力の自由化って何のことでしょう。電力の自由化とは、これには先に説明した日本の10電力会社の「発送配電による地域独占」や「総括原価方式」と関係がありますが、「従来独占されてきた電気事業において市場規制を緩和し、市場競争を導入すること」(Wikipedia)です。また、「発送電分離」とは「発電所と送電システムを一体運営とせず、それぞれを独立運営するよう業務分離を行うこと」を意味します。
この二つを推進することで、新規電力会社の参入を促し、電力会社間の競争力を高め、その結果、消費者が低コストで安定した電力を得られることにつながります。本書にはこの「電力自由化・発送電分離」について、以下のような説明があります。「福島原発事故後、東電管内で電力が不足。地域独占により電力会社間での送電網や、周波数変換設備の整備が進んでいなかったため、電力会社間で十分な量の電気を融通することができず計画停電実施に追い込まれたり、原発停止で燃料費が高騰していた火力発電の比率が高まったことで電気料金の値上げが相次ぎ、利用者の間では、電力会社を選べないのに値上げを強制されることへの不満が広がり、さらに経営・財務調査委員会の調査によって地域独占と総括原価方式に守られた電力会社のコスト意識の乏しさも明らかになった。このため、地域独占の弊害をなくすと共に、電力会社間での競争により電気料金を抑えるべきとの声が高まります。この世論の声を受け電力政策の改革派が推進しようとしたのが『電力自由化』である。」(下巻P31)
この「電力自由化・発送電分離」は、現在の硬直化した規制がらみの日本の電力政策の中で、不思議と順調に進んでいる政策です。では、この一見不可能とも思える規制改革が進んだのはどうしてでしょうか。。
まず、「電力自由化」(電力システム改革論議)が進んでいる原因で一番大きいのは、福島原発事故当時の政権を担っていたのが民主党であったことが挙げられます。(しかし、これは民主党が当時の政権を担当していたから事を単純に進められた、ということではありません。)以下、民主党下で電力システム改革論議が急速に進んだ理由です。第一に、世論からの非難回避が挙げられます。これは、福島第一原発事故後、東電に対する世論の批判が高まりますが、民主党は結果的には、東電救済に動きます。これは、事故収束、金融市場の安定化、電力の安定需給といったつぶすにつぶせないという(Too big to fail)理由によるものです。この東電救済に対する世論の反発を抑えることから電力システム改革が実施されることになったのです。この改革は、これまで、地域独占・総括原価方式で暴利を貪ってきた電力会社を懲らしめるという意味合いで世論から支持を受けます。(下巻P68)
また、民主党には、自民党議員に比べれば市民運動や反ビジネス感情を持つ議員も多かったこともあります。例えば菅直人さんは、市民運動出身で反官僚の政治志向を持つとともに、議員に初当選したときから自然エネルギーに関心を持ち、原子力を過渡的エネルギーとみなしていましたし、当時の経産大臣/枝野幸男さんは、どちらかというと、反ビジネス政策志向を持つ政治家で当初はこの枝野さんが電力システム改革を進めたのです。
そして、上記した、東電救済・支援スキームの策定を通じて、電力の安定供給のためには、「電力自由化・発送電分離」が必要だと考えられるようになったことも挙げられます。「東電は原発が停止したため、電力の安定供給のため火力発電を増強しなければならなくなった。だが、電発事故後、東電は資金が乏しいため、IPP(独立系発電事業者)入札や火力電源開発への外部資本導入、さらに他の電力会社からの電気融通など、発電部門の自由化拡大が必須とされ、発送電分離が必要と認識されるようになった」のです。その他、東電の政治的影響が低下したことも要因の一つです。「原発事故により、東電は経産省に経営権を握られてしまうことになった。そこで他の電力会社が政治家に働きかけを行ったものの、東電に比べれば力不足で、電力システム改革を止めることができなかったのである。」 最後ですが、民主党政権では、自民党に比べ、首相官邸や関係閣僚、政務三役など一部の政治家に政策方針決定権が集中していました。「このため電力システム改革でも、仙谷や枝野のリーダーシップのもと、電力総連の支援を受ける議員たちの意向を汲むことなく、経産省内で大きな方向性は決定されたのである。」(下巻P68)
ところが、電力システム改革の方針が打ち出された直後に政権交代が起き、民主党は下野することになります。この民主党から自民党への政権移行のタイミングの妙も「電力自由化」に幸いしました。なぜなら「民主党は、政策決定の一元化により改革の方針を打ち出す力はあったものの、党内ガバナンスを欠いていたため、それを決定し、実施する力に乏しかった。このため民主党政権が継続していた場合、電力総連の支援を受ける議員たちの反対を抑え込んで、電力システム改革を迅速に決定できたかどうかは疑わしかった。」と上川さんは語ります。
もちろん、この論議に対し、原子力村派の利害関係者は抵抗を試みます。しかし、その後政権に復帰する自民党の中でも原発再稼働させる以上、何もしないわけにはいかない、という考えがありました。つまり、「原発再稼働」と「電力自由化」はある面、電力業界にとっては「アメとムチ」のような意味合いでセットになって進められて行ったのです。2013年1月末、経産相茂木氏と電力会社首脳との懇親会で「国民の理解を得ながらいかに電力改革を進めるかがきわめて重要だ。前政権の出した政策をしっかりと進めたい」と宣言。一方、電事連が求める原発再稼働については「安全が確認できた原発は動かす」と話します。 当時2013年の夏に参議院選挙が控えている、ということもあり、自民党には「(前政権の)脱原発を180°方向転換し、更にそれまで進められてきた電力改革まで転換すれば世論の支持を集められない」、という思惑も働いたようです。
自民党の安倍さんは、当時参議院選挙を控え「アベノミクス」三本目の矢である成長戦略で目玉となる政策を打ち出したいと考えており、その一つとして「発送電分離など電力システム改革」を掲げる考えを周囲に示し、電力システム改革に年限を明記することにこだわります。そして「18~20年を目処」と明記した方針を4月2日に閣議決定。6月5日には安倍首相が「民間活力の爆発」をキーワードとした成長戦略第三弾を発表。発送電分離など電力システム改革を進めることを宣言します。6月14日に閣議決定された成長戦略「日本再興戦略-JAPAN is BACK-」にも、「電力供給の効率化による電力コストの低減化を図るため、電気事業法改正法案の早期成立を図りつつ、電力システム改革(①広域系統運用の拡大、②電力自由化の推進、送配電部門の中立性の一層の確保)を着実に進め、遅くとも2020年を目処に改革を完了する」と明記されまし、電力システム改革を成長戦略として積極的に推進することに決定します。「安倍内閣は、民主党の原発ゼロ政策を撤回する一方で、電力システム改革は継続させる。世論の反応を考えると、また電力システム改革が東電改革と一体不可分のものとなっていたこともあり、これを撤回することは困難となっていたからである。そして安倍内閣では、官邸主導で政策が決定されるようになっている。このため、安倍が電力システム改革の断行を決断すると、電力業界と関係の深い議員らが中心となって反対したにもかかわらず、それが進められることになったのである。」(下巻P292)
このように自民党から民主党へ政権が移行後に福島原発事故が発生。民主党が福島原発事故の対応をした後、政権が再び自民党へ移行するという、時の采配の妙とでも言うのでしょうか。そういった偶然のタイミングが重なった結果、この「電力自由化」は比較的順調に進んでいるのです。実際、本書の著者/川上さんは、この「電力自由化」が具現化している最大の要因に「タイミング」を挙げています。 上川さんは「もし自民党政権のときに原発事故が発生し、その後民主党に政権が交代していたならば、どうであったか。電力会社と密接な関係を築いていた自民党政権内では、電力システム改革の方針が打ち出されることはなかったかもしれない。また、その後、民主党政権で電力システム改革が打ち出されたとしても、党内の抵抗により、改革が迅速に決定され実施されることは難しかったかもしれない。」(下巻P292)と指摘します。
(*1)下巻P83~100に「原子力規制委員会」設置の過程が詳細に記述されています。 (*2)2014年、福井地裁は関電大飯原発三、四号機の運転差し止めの仮処分(樋口英明裁判長)を決定。原発の運転を直ちに差し止める司法判断は初めてであった。
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