ギリシア人の物語Ⅲ 新しき力

      塩野七生さんのギリシア人の物語・三部作の最終章は、マケドニアのアレクサンドロス大王です。

   アレクサンドロスは、マケドニア王、フィリッポス2世を父に持ち、ギリシアの哲学者アリストテレスのもとで、学友と共に教育を受け成長します。アレクサンドロスは「フィリッポス2世から生を受けたが、高貴に生きることはアリストテレスから学んだ」という言葉を残すほどに、アリストテレスを最高の師として尊敬するようになる。(Wikipedia) (この青年期にアリストテレスを師としてアレクサンドロスと共に学んだ学友は、後年のアジア東征の際、将軍などに昇進、アレクサンドロスを補佐する役目を担います。) アレクサンドロスは、父の暗殺を受け、若干20歳で王位を継承します。そして、アレクサンドロスは徐々に部下の信頼を獲得しながら、父、フィリッポス2世の夢であったペルシア、インド方面の東方遠征に着手するようになります。

 

   紀元前334年、アケメネス朝ペルシャ帝国に侵攻し、10年に及ぶ大遠征を開始。アナトリアの征服後、イッソスの戦いやガウガメラの戦いといった決定的な戦いによって強大なペルシャを打ち破った。そして、ペルシャ帝国の王であるダレイオス3世を破りペルシャ帝国全土を制圧した。その時点で彼の帝国はアドリア海からインダス川にまで及ぶものであった。(Wipipedia)

  彼は、現代で言うトルコ、中東、中央アジアを次々と征服し、ついにはインドに至るまでの大帝国を築きあげます。その東方遠征の過程でで4つの大きな戦争を行い、全てに勝利します。最初の闘いは、マケドニアとギリシアのコリントス同盟との連合軍対ペルシア戦である「グラスニコの会戦」「イッソスの会戦」「ガウガメラの会戦」、最後がインドの反アレクサンドロス軍と闘った「ヒダスペスの会戦」です。すべてが不慣れな敵地(アウエィ)での戦いで、中には、対戦兵士数が自軍兵士数より圧倒的に多く不利な状況もあった(例えば、ガウガメラでは、25万の敵兵相手に5万の自軍で戦った)のですがその全てに勝利したのです。


  このアレクサンドロスの凄いところは、全ての会戦において、向かい合う敵陣へ攻撃をする時に、自分が「いの一番」で敵陣へ突っ込むことです。マケドニアの騎馬軍団は、縦長の菱形の陣形になって突撃するのが常ですが、その先端はいつもアレクサンドロスが担っていました。戦いが始まると、アレクサンドロスが先陣を切って突進しますが、それを見た家臣たちはアレクサンドロスを護ろうと慌てて馬を走らせるのでした。もちろん、敵陣へ一番最初に突進していくということは、相手からもろに矢や弓などで攻撃を受けることになるので、とても危険なのですが、アレクサンドロスは味方の兵士を鼓舞するため、常に自軍の先端にあって戦場を駆け抜けたのです。このアレクサンドロスを塩野さんは「ダイヤの切っ先」と表現しています。この「ダイヤの切っ先」というのは、研磨道具の先端に付けるダイヤモンドのことで、この最も固い鉱石であるダイヤを先端に取り付けることで、容易に研磨できないものでも、磨くことができるようになります。このダイヤをアレクサンドロスの比喩として表現しているのです。


  塩野さんによると、アレクサンドロスの後に現れた、古代の三大名将は「カルタゴのハンニバル」「ローマのスキピオ・アフリカヌス」、そして「ローマの武将、ユリウス・カエサル」で、そのいずれの武将もナンバーワンの武将として挙げたのは、アレクサンドロスなのです。にもかかわらずこの三人はこのアレクサンドロスのやり方を踏襲できなかったのです。なぜなら、当時の会戦において、先頭に立って突っ込む「切っ先」が最も多大なリスクを負うことは当然で、軍の最高司令官の身に何かあれば、中央や左翼がいかに優勢に戦いを進めていても総崩れは必至で、一転して敗北してしまうのが現実だったからです。このため、上記の3名将もしばしば自軍の最前線にまで出向き指揮を執ることはありましたが、「ダイヤの切っ先」となって戦ったことはなかったのです。


  このダイヤの切っ先となって攻撃の先陣を切る、ということがいかに大変なことか。。。本書で語っています。以前、塩野さんがイギリスBBC放送のアレクサンドロス大王のドキュメンタリーを見ていました。その番組では、アレクサンドロスが戦場で戦ったことを書いた文献を丁寧に調べ、アレクサンドロスが戦場でどのくらい傷を負ったのかを説明していたのですが、本人の体の至る所にさまざまな傷があったことがわかったのです。「以前にテレビでBBC制作の番組を見た時を思い出す。それは、東征の十年間でアレクサンドロスが受けた傷のすべてを、いかにもイギリス人らしい冷徹さで、人体の模型を使いながら具体的に指摘し解説した番組だった。それを見ながら、満身創痍とはこのことだ、と思った。」(P426)

   

  アレクサンドロスは紀元前326年、インドに侵攻。「ヒダスペスの会戦」でパウラヴァ族に勝利。しかし、多くの部下の要求により結局引き返すことになります。紀元前323年、バビロンにおいて、蚊に刺された高熱がもとでで崩御します。享年32という若さでした。。。彼の死の間際には、彼のベットが味方兵士の元へ運ばれ、彼は自軍の兵士一人一人に別れの挨拶をしたのです。。常に「ダイヤの切っ先」として先陣を切ったアレクサンドロス。「己の死は戦場で」、という彼自身思っていたかと想像しますが、彼の死の原因が、戦場における敵の軍勢ではなくたった一匹の蚊だった、というのは、無念だったのではないでしょうか。。。


  最後に塩野さんは次のように読者に問いかけます。 「考えてほしい。なぜ、彼だけが後の人々から、「大王」(The Great)と呼ばれるようになったのか。なぜ、キリスト教の聖人の名でもないのに、今でもキリスト教徒の親は子に、アレクサンドロス(英語ならばアレクサンダー、イタリア語ならばアレッサンドロ、略称ならばアレックス)という名をつける人が絶えないのか。その理由はただ単に、広大な地域の征服者であったからか。それとも、他にも、愛する息子にこの名を与えるに充分な、理由があるのか。なぜアレクサンドロスは、二千三百年が過ぎた今でも、こうも人々から愛されつづけているのか、と。。」この後、塩野さんは回答を書いていませんが、おそらくは、弱冠20才で王になったのにもかかわらず、年上の(百戦錬磨の)部下からの信頼も厚く、常に部下思いで、また戦場にあっては「ダイヤの切っ先」となり、戦場を駆け抜け、部下を鼓舞する姿勢を崩さなかったアレクサンドロスのことをリーダーとして称賛しているのだと感じます。