銀行王 安田善次郎 陰徳を積む
安田善次郎という人は、安田銀行(後の富士銀行。現在のみずほフィナンシャルグループ)の創業者で、国立銀行の設立にも尽力しました。銀行の他、生保(今の明治安田生命保険)、不動産会社(東京建物)などの幾多の企業の創業にも関わった安田財閥の設立者です。生まれは富山の貧しい一下級武士の出身ですが、たった一代で巨万の富を築いた実業家で、彼の死亡した時の遺産は当時の日本円で、二億円を超えていたと言われています。当時の日本の国家予算は約16億円弱。つまり当時の国家予算の実に8分の1に相当する富を一代で築いたのです。近年の日本の国家予算は約300兆円なので、今なら37兆円相当にあたる財産を築いたわけです。本書はその安田 善次郎の評伝です。著者は「白洲次郎 占領を背負った男」の北康利さん。
善次郎(幼名は、岩次郎)は、1838年11月25日、富山藩下級武士(足軽)、安田善悦の三男として生まれます。武士とは言っても、善悦の代に士分の株を買った半農半士で、善次郎は、1858年(安政5年)、奉公人として江戸に出、最初は玩具屋に、ついで鰹節屋兼両替商に勤めます。この本の副題にもなっている「陰徳」というのは、父、善悦がよく口にしていた言葉で、「人に褒められようとして善行を施すのではなく、誰にも知られずとも人の為になることを黙々と行ってこそ人格は磨かれていく。」という意味で、善次郎は終生この教えを心に留め、実践していきます。例えば、子供の頃、野菜や花を売ったお金や写本で得たお金はすべて父に渡し、その一割だけを小遣いとしてもらう、という律儀な習慣を続けました。
また、若い頃、務めていた両替店では、たいていの場合、土間にはいつも多くのお客さんの履物が乱雑に脱ぎ擦れられたままになり、店員たちも自らの忙しいことにかまけ、それらを直そうとはしないのですが、善次郎は誰に言われなくとも仕事の合間にそれらを揃えていました。また、紙や布の切れ端などが落ちていたら、そっと拾って屑籠に入れていたそうです。彼はこのようなことを誰も見ていないところでも自然にできる人でした。子供の頃から「千両分限者」(今で言う億万長者)を目指していた彼は、25歳で独立を果し、乾物と両替を商う安田商店を開業します。やがて、安田銀行を設立、その後には損保会社(現在の損害保険ジャパン)、生保会社、不動産会社を次々と設立。1876年(明治9年)第三国立銀行初代頭取に就任。1878年(明治11年)には東京府会議員に選出されます。1921年(大正10年)には、釧路地方開発の功績で釧路区(現、釧路市)から表彰されます。その他、東京市に慈善事業費として300万円を、東京帝国大学に講堂建築費として100万円を寄附(今の安田講堂)します。このように幼い頃から、目立つような挫折もなく順調に自らの事業を拡大し、夢を実現していった善次郎ですが、彼の不幸は晩年に訪れます。
1921年(大正10年)9月27日、神奈川県中郡大磯町にある別邸に「弁護士・風間力衛(かざまりきえ)」と名乗る男(実名、朝日平吾)が現れます。当日忙しかった善次郎は翌日、朝日の面会に応じます。朝日は、労働向けホテル建設の寄付を善治郎に依頼します。善次郎は、財布から数枚の紙幣を出し、そのお金で彼を帰らせようとしたのですが、朝日は突然、隠し持っていた短刀で襲い掛かり善次郎は切り付けられ死亡します(享年82歳)。
当時は、米騒動、普通選挙実施、治安警察法の廃止を求めたデモ活動など、社会運動(大正デモクラシー)が盛り上がりを見せ、社会の矛盾をに対し不満を持つ人々が多く、資産家に対する反感もピークに達していた時期だったことや、また、(前述しましたが)善次郎は「徳と云うものは全て仏教の教えである陰徳として表に出さず、知られないように行うものである」という父の陰徳の教えに従い、彼は大小多くの寄付を行ったにもかかわらず(彼の名前は表に出なかったため)、一般の人々からは「安田は守銭奴、ケチ」という誤解を受けていたのがこの悲劇の引き金となったのです。
活躍した時期が同じ頃だったせいか、よく渋沢栄一と比較されますが、渋沢は、多くの企業の創業に関わったのに対し、善次郎は、巨大な工場の建設、鉄道の敷設、築港、湾岸の埋め立て工事など、社会の発展に必要な巨大なインフラ整備に資金を提供することで、近代日本に貢献しました。今から見れば、日本の成長過程で、今と違って資金回収は比較的容易なようにも思いますが、善次郎は、どんなにしっかりしているように見える事業でも、最後はその首脳になる人物如何である。「事業は人なり」と言って憚らず、お金を貸す最終判断は、いつも事業者の事業に懸ける情熱であった、と言います。余談ですが、善次郎の二女てる(1875年生)と婿の安田善三郎の間に生まれた四女磯子の娘が、ビートルズのジョン・レノンの奥さん/オノ・ヨーコです。
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