木のいのち 木のこころ

       法隆寺の宮大工、西岡常一さんとその弟子たち3世代に、宮大工の「技と魂」についてインタビューしたもので、法隆寺他の日本の国宝級の堂塔の改修、修理を行ってきた先人の宮大工の教え、宮大工の棟梁に伝わる「口伝」、弟子の育て方、神社仏閣の建材である「木材」の素晴らしい特性など、宮大工という職業を通して培った経験や考えが語られています。その言葉の中には、千年も前から神社仏閣の美しい姿をとどめ置くため、大自然の悠久の時を重ね育つ木材をどのように使い、加工し、配置していけば良いのか、という哲学や、木材を育む大自然から学ぶ宮大工の人材育成に対する姿勢、、などなど最近よく言われる「サステナビリティ」「SDGs」といった考え方にも通じる哲学があります。


  ところで西岡常一さんについてですが、西岡さんは、1908 (明治41) 年 奈良県生まれの法隆寺専属の宮大工で、法隆寺金堂、法輪寺三重塔、薬師寺金堂、同西塔など、檜(ヒノキ)の巨木を使って堂塔の復興を果たした最後の宮大工棟梁。文化財保存技術保持者、文化功労者です。(1995[平成7]年死去)(Wikipedia)


  本書の構成ですが、まず、最初のインタビューは、祖父の教えを守り、終戦後の法隆寺や他の国宝級の神社仏閣の修理を行ってきた、西岡さんへのインタビュー(天)、次に、その西岡さんの愛弟子である小川三夫へのインタビュー(地)、そして、小川さんが主宰する「鵤(いかるが)工舎の宮大工たちへのインタビュー(人)という三部構成でなっていますが、その中でもやはり特筆すべきは、西岡さんへ行ったインタビューです。


  インタビューの最初の方で、西岡さんは昔から宮大工の棟梁に語り継がれる口伝「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」「木は生育の方位のまま使え」という教えを紹介します。今の一般的な木造建築において、木材は、材木屋さんから購入し、それを大工さんが組み立てるのが普通ですが、昔の宮大工の棟梁たちは自らが山に入って建築に使う木を選定したのだと言います。「山の南側の木は細いが強い、北側の木は太いけれども柔らかい、陰で育った木は弱い、というように生育の場所によって木にも性質があるんですな。山で木を見ながらこれはこういう木やからあそこに使おう、これは右に捻じれているから左捻じれのあの木と組み合わせたらいい、というようなことを見分けるんですな。」(P20)

  

  ところが今の製材技術は、木の性格が出ないよう合板にしてしまい、木の癖を消す、つまり、木の持つ特性、個性を消してしまう方法になっています。しかし、西岡さんの考えは違います。「[癖]というものは悪いもんやない、使い方なんです。癖のあるものを使うのはやっかいですけど、うまく使ったらその方がいいこともありますのや。人間と同じですわ。[癖]の強い奴ほど命も強いという感じですな。癖のない素直な木は弱い。力も弱いし、耐用年数も短いですな。」 うーん。。この言葉って含蓄ありますね。この人の言葉の重みというのは、古代から地球の生命を育んできた大自然の素材である「木材」を扱って永年苦労してきた経験からくる重みなのだと思います。


  「本来、木材は、その個性を見抜いて使ってやる方が強いし長持ちするんですが、個性を大事にするより平均化してしまった方が、仕事はずっと早くなるし、その木材の性格を見抜く力もいらない、そんな訓練を大工に施す訓練も不要になる。。。」 そうやって建てられたものは、画一的で無個性、長い月日には耐えられないものになるでしょうし、またそこに住むのは、もしかすると、建物と同様、なんとなく画一的で、個性の薄い人々、、ということになるのでしょうか。。。 西岡さんの言葉は、なにか軽薄短小、短期間で成果を求める現代人のライフスタイルに警鐘を鳴らすようなものすら感じさせ、ちょっと怖い感じがします。

  

  でもこれは、木材建築のことだけでなく、個性を伸ばさずに、効率性、均一性、協調性を優先してきた現代の子供の教育にも当てはまると思います。我々社会のライフサイクルの回転が早くなっていくのと同期し、我々は知らず知らずのうちに、何事につけ、手間暇を避け、短時間で成果を求め、効率性を重視する傾向にあるように思いますが、西岡さんのように物が持つ癖を大切な個性と考え、それを育てるのに敢えて手間暇と時間をかけ、より大きく、丈夫なものを創り上げていく。。。我々現代人がいつの間にか排除してきた、そういった考えを今、改めて再考することは大きな意義があるかも知れません。。。「徒弟制度は封建的で古くさく、無駄が多いといいますが、無駄にもいずれいいものが出てきますのや。あまり目先のことだけを考えていたんではあきませんわ。結論だけ教えても仕事はできません。無駄と思うて捨てたり、見過ごしてきたことに、ずいぶん大事なものが含まれているんと違いますかな。」(P97)


  また、残念なのですが、神社仏閣の修理に使う木材では檜(ヒノキ)が重宝されていますが、国宝級の堂塔の用材として使える樹齢年数のものは日本にはもうありません。「大きな伽藍を造るには大きな檜がいるんです。たとえば薬師寺の、現在再建している伽藍やったら、どうしても樹齢二千年前後の檜が必要なんです。原木の直系が二メートル前後、長さが十五メートルから二十メートルの檜が必要なんですな。そうすると、どうしても樹齢が二千年前後になりますな。今から二千年、二千五百年前といいましたら神代の時代でっせ。こんな樹齢の檜は、現在では地球上には台湾にしかありませんのや。実際に台湾の樹齢二千年以上という檜の原生林に入ってみましたら、それは驚きまっせ。それほどの木が立ち並ぶ姿を目にしますと、檜ではなく神々の立ち並ぶ姿そのものという感じがして、思わず頭を下げてしまいますな。これは私だけやなしに檜の尊さを知っている人はみんなそうだろうと思います。」(P28)


  神聖な仏閣の建立や修理に使う木材はもう日本になく、また海外を見渡しても台湾にしかありません。(もちろん木材の性質において多少見劣りする材質のものは海外にもあるようですが、、)西岡さんはじめ、宮大工さんは、このような、これから先々の国宝級の仏閣の建立、修理のための材料調達の心配もしていますが、そういった中で、古材の活用も大切だと言います。「昔の人は古材をよく使っております。知らん人はこれを資源がのうなって使ったんやろとか、財政的に困ったんじゃないかと考えまっしゃろけど、違いますのや。ヒノキは材になっても生きてますのや。木は長いことかかって収縮するんです。」と、古材は収縮がおわった素直な素材として活用できる利点が多いと強調します。モノにおいても、ヒトにおいても、それぞれがもっている「癖」を大切にする、という考え方は、翻って見れば、それぞれが育った環境を大切にするということで、また、、(違うもの)多様なものを肯定する、ということです。また古材を良しとする考え方は、流用可能なものを使い切り、無駄を排除する、という考え方に通じます。こういった大自然から学んだ西岡さんの哲学は、「ダイバーシティ」とか「サステナブル」というような現在的な考えにも通じるものだと強く感じました。