一万年の旅路 ネイティブアメリカンの口承史

  北米大陸の先住民族(ネイティブアメリカン)の一部族、イロコイ族の末裔にあたる著者/ポーラ・アンダーウッドさんがイロコイ族に伝わる口承史(*1)を書籍にしたのがこの「一万年の旅路」です。この口承史は、10万年にも及ぶ彼女の祖先の歴史で、イロコイ族の祖先がアフリカ大陸からユーラシア大陸の北部へ到達し、なんとそこからベーリング海峡(*2)をわたり 北米大陸北部へ到達。太平洋側のロッキー山脈を通って南下し、そこから東部の〈草の大海〉(今では ”プレーリ” あるいは “大平原”と呼ばれる草原地帯)を横断し、五大湖の一つ、オンタリオ湖周辺へ落ち着くまで、想像を超えた信じられないようなエピソードが語られています。


  この口承史の最初は〈大いなる寒さ〉が支配する時代「最終氷期の後期」から始まります。この頃は最終氷期も終わりに近づき、地球の気候は徐々に温かくなっています。このアメリカ先住民族の祖先の部族は、「山を背にし左右にはゆるやかな曲線が続く、切り立った崖のある南の東に面した山裾の砂浜」に定住していました。それまで寒波が支配的であった気候から、徐々に変化の兆しが訪れていることを感じ取った彼らは、地域周辺に〈物見〉(*3)の一隊を送り、まわりの世界の変化を探ろうとします。そんなある日、大地震が起こります。山から落ちてくる大小無数の岩々。そして、大きな大地の揺れの後、海の水が引き始め、その直後、大津波が彼らを襲います。多くの仲間と居住地を失った彼らは、命からがら生き残った仲間達たち。彼らは、水の被害を避けるため〈大いなる渇き (内陸地)〉に向かって歩き出します。これからどこへ向かうか決めるモンゴロイド一族。ここで部族の意見は分かれ、この物語の先祖である〈歩く民〉(イロコイ族の先祖のモンゴロイド)は、口承で伝えられる〈北の東の北〉を目指すことに決めます。なぜなら、その方角には〈かなたに広がる大いなる島〉へ連なる〈海辺の渡り〉がある、と信じられていたからです。この〈海辺の渡り〉というのが、今で言う「ベーリング海峡」です。


  当時、この海峡は、ユーラシア大陸と北米大陸北部をつなぐ陸続きの、いわゆる「陸橋」だったのです。このベーリング陸橋を彼等〈歩く民〉は目指します。これは全く想像するしかないのですが、この〈海辺の渡り〉の口承部分は、「水位が低い時にはこの道をたくさんの獣の群れが通るが、水位が高い時は二本足(ヒト)が通る」と語られています。これを読む感じでは、彼らは「陸橋」を覆っているゴツゴツした岩や石が海面より高くなっている平らな部分を歩いて行ったようです。しかし当時、年々進んでいた温暖化で、この陸橋の水位も上昇傾向にあったことが伺えます。いくら陸橋と言っても所々、広く急な流れの河がいくつか横たわっていたようです。このようなところでは、集団の先頭と後部を守っていた男性リーダー達が、携帯していた動物の皮や腱で作った長い綱を使い、岩や部族の一人一人を結び付け、子供でも歩けるようにして河の上を横断して行ったのです。無事に〈海辺の渡り〉を終えたこの時の一族のメンバー数は、三人の乳幼児を含めわずか52人。「一族は一心同体で、一つであることを理解し、だれ一人置き去りにしないことの大切さをかみしめていた。そのような一族が滑りやすい道をたどり、互いを抱きかかえたり助け合い、打ち寄せる大海を渡ったのだ。すでに〈海辺の渡り〉は心に留められるべき歌となり、困難な横断は過去のものとなっていた。というのも、そこと〈かなたに広がる大島〉との間には、もう開けた海がなかったから ー。」(P55)

(下図:〈歩く民〉の移動の軌跡)

  この〈海辺の渡り〉をわたったのが、今から1万年前、そして最終定住地となるアメリカ五大湖の周辺へ到着したのが今から3000~2500年前、つまり北米大陸に来てからも、7000年~7500年にわたり、気の遠くなるような世代間の命のリレーをしながら、この〈歩く民〉は先祖からの言い伝えや、物見の得た知見を頼りに、彼らは、湿地帯、山岳地帯、乾燥地帯、草の大海(と呼ばれる大平原)、など様々な自然環境や地形の異なる土地を歩き続けます。そして、気候が比較的温暖で、植生が豊かな土地に到着すると、水や食料になるような植物や動物を探し、空腹を満たし旅の疲れを癒します。仮の住まいをつくり、しばらく落ち着くことが決まると、旅で携帯していた保存用の豆の種子を取り出し、食用や保存用としてその土地に撒き育てます。そしてその後、皆で集まりその土地に定住するか、または時期をみて旅を再開するか、を決めるのですが、最後は、自分達の子孫にとって最適だと信じる場所、つまり、かつて、祖先が長年住み続けていた、とで口承で伝えられている〈大いなる海の岸辺〉〈海と山が出会うことろ〉(とよく似た地形を持つ定住地)を探す旅を続けるのです。


  彼らにとって、このように様々な気候や地形の異なる土地を旅したこと、そこでしばらくの間でも定住し、そこで食べられるものを採取した経験は、果てしない旅を続ける部族仲間や子孫にとっては、この上ない貴重な「知恵」「学び」です。文字を持たない彼らにとって、このような貴重な情報を部族間で共有し、子孫に残す手段が「口承」だったのです。「食料がじゅうぶん貯えられ、冬の準備がすむと、一族の多くの者が一族全体のために完全な記憶を組み立てる仕事に打ち込んだ。彼らはゆっくりと、はじまりから現代まで世代ごとの歌を組み立てていった。それを互いに歌い合い、だれもが歌い方に満足すると、一族全体に歌って聞かせるのだ。(そして)歌が歌われるうちに、一人また一人、ほとんど忘れかけられたことを思い出し、前に進み出ると、それも歌に含めるよう求めるのであった。」(P124)


  〈歩く民〉にとって口承により伝えていく「学び」は、彼らの生きるための知恵です。ですから彼らは「学び」(それは、一人一人が旅をして行く中で、経験から学び取った成功や失敗も含めます)を何よりも一族の財産と考えていたのです。


  本書を読んでいて感心したのは、「学び」をなにより大切にする〈歩く民〉が、自分たちが知らない道具や生活様式を持っている部族に出会った時、彼らからそうした技術や様式を学ぶ方法でした。今の我々にしても、自分達が苦労して獲得した技術、知見などは、他人には教えたくないものです。当時においても〈歩く民〉が、いきなりカヌーの作り方を教えてくれと頼んでも、タダで教えることはありません。逆に彼らから警戒されてしまうでしょう。このような時、もし皆さんが〈歩く民〉ならどうやって彼らからカヌーの作り方を教えてもらうでしょうか。。


  〈歩く民〉は、このような時、部族間の友情の印として、まず気のいい若い連中を彼らのもとに送りこみ、住み込みで彼らの労働の手伝いをさせるのです。もちろん、当初は、警戒しますが、毎日一緒に生活しながら、人手の欲しい時に重いものを運んでくれたり、手間のかかる作業を手伝ってくれたりすると徐々に警戒心も薄れ、仲間意識が芽生えてきます。これが〈歩く民〉の作戦でした。ある日、カヌーをつくる技術者の横で、わざとその若者が昼寝をしています。その技術者にしたら、自分のそばでヒマそうに昼寝をしている人がいれば、重いものを運んでもらったり、細かい作業を手伝ってもらいたくなるのが人情。ついこの若者を起こし、作業の手伝いをするよう声をかけるのです。しかし若者が「そうは言っても自分は何もしらないから、、」と手伝うのを躊躇しているふりをすると、「こんなこともわからないのか、、」と、つい親身になって手取り足取り、カヌーづくりのノウハウを教えようになるのです。このようにして、〈歩く民〉は、相手の警戒心を解きほぐして、仲間になってから徒弟制度のような関係を利用しながらカヌーづくりの技術を獲得し、頃合いを見計らってそっと仲間の元へ帰るのです。


  このようにこの何万年にもわたり幾世代を超えて、口承で伝えられる目的地に向かって歩むことをやめなかった〈歩く民〉の物語を読んで、まず私が感じたことは、彼らに対する畏敬の気持ちです。海を越え、幾たびにもおよぶ過酷な自然の試練に耐えながら〈子どもの子どものために〉と子孫の幸せを最優先に考える姿勢にとても崇高な精神を感じました。時代的には、ホモサピエンス(現生人類)という先祖に属する彼らですが、この口承史で伝えられる彼らは、苦しい時にも個人の利益を優先せず、常に部族の皆を思い、苦しい旅の道のりでは冗談を言い合い、互いに助け励まし合い、解決すべき問題が持ち上がった時には決して暴力に訴えず常に話合い、そして、経験から得た学びを仲間に伝え、それを部族が生きる知恵として伝承していく。。。まったく尊敬に値する、素晴らしい人たちであったと思います。


(*1) 口承:歌いついだり、語りついだりして、口から口へ伝えること。

(*2) ベーリング海峡:今から、1万年ぐらい前の最終氷期の終わり頃、ユーラシア大陸と北米大陸の北部を隔てるベーリング海峡は、ユーラシア大陸と北米大陸をつなぐ陸地であったと考えられ伝える。(ベーリング陸橋、ベーリング地峡とも呼ばれる。)

(*3)物見:部族本体のために周辺の土地や気候の状況を調べる先遣隊。