十字軍物語 二

  塩野七生さんによる十字軍物語の第二弾。第一巻では、ヨーロッパのキリスト教国で編成された第一次十字軍遠征の成功の様子が描かれました。第一次十字軍遠征が成功した理由は主に二つ。ヨーロッパから攻めてきた十字軍勢に対し、不意を突かれた形になったイスラム勢側に戦闘する準備が整っていなかったこと。もう一つは、中近東地域におけるイスラム勢力の国々の指導者達の不和により戦力にまとまりがなく、組織的な戦いができなかったことです。


  しかし、第一次十字軍遠征による十字国家群の成立後、キリスト教勢力は徐々に守勢に立たされます。イスラム教勢力の中からゼンギ、ヌラディン、サラディンといった指導者が台頭する一方、シリア・パレスティナにつくられた十字軍国家では、キリスト教徒兵力不足が慢性的な問題になってくるからです。そのため、この二巻以降はシリア・パレスチナ地方で樹立された十字軍国家の要請により、西ヨーロッパ諸国で幾度となく十字軍が編成され中近東へ遠征、そして、中近東地域においては、遠征してきた十字軍と十字軍国家の連合軍 対 周辺国のイスラム勢力の争いが繰り広げられる様子、またその一方で、共存を模索するキリスト教国とイスラム教国の指導者達の様子が描かれていきます。


  1096年~1099年に行われた第一次十字軍遠征の後、この中近東の地では、十字軍国家のキリスト教徒と、その周りを取り囲むように位置している中小都市に住むイスラム教徒との間で平穏な日々が続いています。とはいっても周りは全てイスラム教徒勢力に囲まれている地理的状況。兵力増強は十字軍国家にとっては喫緊の課題でした。そのような、中近東にあってキリスト教勢力の防衛を目的とした軍事組織が2つ設立されます。「聖堂(テンプル)騎士団」と「聖ヨハネ騎士団」という二つの宗教騎士団です。この二つの騎士団はキリスト教徒の「聖地」である中近東を本拠地とし、団員は神に一生を捧げた修道士と、神のために戦う騎士を兼ねた質の高い戦闘集団です。ただし、どちらも常時、数百人程度の騎士とその従者から成る少規模の「異教徒撲滅」目的の戦闘集団で、現代ならちょうど少数精鋭で構成されるアメリカの特殊部隊/ネイビー・シールドのような感じになると思います。


  まず、「聖堂(テンプル)騎士団」ですが、この騎士団の結成は言い伝えによれば、フランスから訪れた騎士二人(ユーグ・ド・パイヤン、ゴドフロア・ド・サンメール)が、1118年に新エルサレム王•ボードワン二世の許を訪れ、「一緒に来ている他の七人の騎士と宗教騎士団を結成し、聖地巡礼者の保護にあたりたい」、と申し出たことが始まりです。この申し出に新エルサレム王は、昔のエルサレム神殿跡を彼らの活動本部として提供。これによりこの騎士団の活動が始まり、「テンプル(聖堂)騎士団」と呼ばれるようになります。


  もう一つの宗教騎士団、「聖ヨハネ騎士団」の発祥は1023年頃、イタリアの海洋都市国家・アマルフィの商人たちによりヨハネ修道院の跡に建設された、病院兼巡礼者宿泊所がその始まりです。そして、聖堂騎士団が設立された1118年頃、この医療目的の修道士集団も、異教徒に対する防衛を目的とする騎士集団(戦闘集団)に変わっていきます。

(下絵、左が聖堂騎士団のユニフォーム、右側が聖ヨハネ騎士団のユニフォーム)

       第一次十字軍遠征から40年の時が過ぎ、十字軍国家を打ち立てた世代が徐々に歴史の表舞台から立ち去るのと反対に、イスラム勢力は徐々に十字軍国家にとって脅威となっていきます。イスラム勢力の中で、その先頭に立ったのは、ゼンギです。彼は、1144年、エデッサ伯国を治めていたジョラスン二世とその軍をエデッサ伯国の外へおびき出すことに成功し、彼らがいない隙を狙ってエデッサを攻めます。四週間に及ぶ攻防戦の末、エデッサは遂に陥落。キリスト教徒要人は殺され、2万人におよぶ捕虜は奴隷として売られてします。


  このエデッサ陥落に危機感を強めた、エルサレムの女王メリゼンダは、ローマ法王エウゲニウス3世に新たなる十字軍の派遣を求めます。エウゲニウスは、この対処を当時キリスト教徒に影響力の強かった修道士ベルナールに一任します。


  1146年3月、フランス東部ブルゴーニュ地方の小町、ヴェズレーの教会に集まった群衆の前でベルナールは説教を始めます。「異教徒を追放し聖なる地を彼らの手から解放することこそ、おまえたちが行おうとしている贖罪に対する、神からの報酬である。」あらかじめ彼から十字軍参加要請を受けていた二十六歳のフランス王ルイ七世もこの説教に感動、思わずベルナールの前へ進み出て跪きます。ベルナールはこの時の為に用意した十字架を若きフランス王に授与。ルイ七世は、跪いたままこの十字架を両手で受けることで第二次十字軍の参加を誓います。第一次十字軍の参加メンバーが諸侯中心だったのに対し、ベルナールは今回の十字軍では、最初に皇帝や王に十字軍遠征を誓わせ、諸侯たちがそれに続くという状況をつくろうとしていました。このため次に選んだのが神聖ローマ帝国皇帝コンラッドです。ベルナールの説得により、彼も十字軍参加の要請を引き受けます。こうして、皇帝と王が諸侯を率いていく十字軍というベルナールの当初の思惑は実現。さらに第二次十字軍の成功は疑いなし、とヨーロッパ中のキリスト教徒は信じたのです。


  1147年5月、コンラッドの軍勢が聖地エルサレムに向け行軍を開始。更に一ヶ月後にルイ七世の軍勢が続きます。両軍とも第一次十字軍の成功にあやかるためか、第一次軍の道程を消化し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のコンスタンティノープルヘ到着します。


  しかし、小アジア(トルコ)へ入ってから両軍は、待ち受けていたセルジューク・トルコ軍からの手痛い反撃を受けます。特にひどかったのはコンラッド軍。前回の十字軍との戦いでは鉄鋼製の甲冑の重武装に手も足もでなかったトルコ軍ですが、今回はコンラッド軍の包囲に成功。コンラッド軍は完敗を喫します。生き残った勢力はコンラッドを含むわずか十分の1程度。同様にルイ七世軍もトルコ軍からの攻撃を受けますが、この二人の率いる生残り軍勢はなんとか、エルサレムへ到着。1148年、彼等とエルサレム軍勢、聖堂騎士団、聖ヨハネ騎士団を含めた連合軍・第二次十字軍は、今回の遠征の直接の原因となったエデッサの奪回。。ではなく、エルサレム王国と友好関係を築きつつあったダマスカスへ攻撃を行うこと決めます。理由としては、1,ダマスカスを攻略すれば、地理的にエルサレムの防御地点となる、2,イスラム勢力指導者の分断、3,西欧でのダマスカスの知名度の高さです。しかし、このダマスカス攻撃は、イスラム勢力の新指導者ヌラディンらの援軍、イスラム勢得意のゲリラ戦、それに十字軍側の戦力の少なさなどで、わずか4日間の戦闘であえなく敗戦を喫します。


  第二次十字軍のドイツ側指導者のコンラッドは、この敗戦後誰よりも先にパレスチナを離れ、迎える冬をビザンツ帝国の客人として過ごしその春先にドイツへ帰国。もう一人のリーダー・ルイ七世は、ダマスカスからの撤退後すぐの帰国は恥、とでも思ったのか翌年の春にシチリアへ立ち寄りその秋フランスへ帰国します。(この時、このシチリア王ルッジェロとの間で初めて、ビザンツ帝国を攻める話が出たと伝えられています。*)


  この第二次十字軍遠征の失敗は、十字軍国家に、より深い絶望感を与えることになりました。そもそも今回の十字軍を率いてきた指導者はキリスト教大国の神聖ローマ帝国皇帝とフランス王。この神から祝福されているはずの二大指導者の率いる軍がわずか4日間で大敗する、という事実はどう受け止めたらよいのかわからなかったのではないか、とつい同情してしまいます。反対にイスラム勢では、この結果を受け活性化します。そのせいかイスラム側ではヌラディンから新指導者サラディンへと組織系統の一本化に成功。そして第二次十字軍の失敗から四十年後、1187年遂にエルサレムはイスラム勢力に奪還されるのです。


  コンラッドとルイ七世の帰国後、この十字軍遠征の失敗責任は、当然修道士ベルナールへも波及しそうですが、彼は、「神が良しとされない者たちが行ったのだから、失敗に終わるのもしかたがなかった。。」と語り自らの責任を回避。しかし、生前中はよほどイスラム教徒憎しだったのでしょう。聖堂騎士団を称賛した書き物で次のように書いています。「イスラム教徒は、諸悪が詰められた壺である。(中略)この者たちに対しては対策は一つ。根絶、がそれである。殺せ。殺せ。そしてもしも必要になったときには彼らの刃にかかって死ぬのだ。なぜならそれこそが、キリストのために生きることになるのである。」(P153)


  このように「異教徒憎し」、を一生通した彼ですが、しかし(?、だからこそ?)彼は死後から21年経った1174年、「聖人」に列せられます(死後の呼び名は「聖ベルナール」)。農民たちの守護聖人となり、8月21日が彼を祝す祝日になりました。。


(*)第四次十字軍では、十字軍の攻撃目標は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)になります。