十字軍物語 三
第二次十字軍遠征から四十年後の1187年、聖地エルサレムは遂にイスラム勢力に奪還されます。この「十字軍物語三」では、聖地エルサレムが奪還された後の、十字軍の遠征(第三次十字軍~第五次十字軍)の様子が描かれていますが、その中で塩野さんが特に力を入れて描いているのは、第三次十字軍の遠征についてです。
第三次十字軍というのは、1182年~1192年に行われたヨーロッパ諸王が中心となった遠征です。聖地エルサレムをイスラム勢力から奪われたショックが大きい西ヨーロッパ。キリスト教諸国の中で誰よりも早く第三次十字軍参加を表明したのは、イギリス王ヘンリー二世でした。しかし、息子リチャードが父王ヘンリー二世に反旗を翻します。1189年7月の戦闘によりヘンリー二世は敗北、この二か月後、息子リチャードの戴冠式がロンドンで行われ、彼は英国王となります(リチャード一世)。戴冠式を終えるやいなやリチャードも父同様、第三次十字軍への参加を表明します。
フランスでも、周辺地域の領土拡張に忙しいフィリップ二世でしたが、十字軍への参加を決意します。本心では、自国において周辺国との領土拡張争いの主導権を握っていたかったフィリップですが、父・ルイ七世が第二次十字軍に指導者として従軍したことや、自分が十字軍不参加の場合に起こり得る、ローマ法王やフランスのキリスト教徒たちからの反発を懸念したためです。更にドイツでは、神聖ローマ帝国皇帝フリードリッヒ一世が聖戦(十字軍遠征)への参加を決意します。伯父・コンラッドが第二次十字軍に参加し、自らも一緒に従軍した経験を持つフリードリッヒは、10万とも伝えられる軍勢を率いて他の国王の誰よりも早く十字軍遠征に出発します。このようにキリスト教国の諸王で構成された第三次十字軍ですが、ヨーロッパからは、キリスト教の大司教や司教という高位聖職者や、デンマーク、オランダ、ベルギーといった国々からも多数の参加者がありました。
一方、十字軍を迎える現地・シリア・パレスティですが、イスラム勢の中でリーダーとして台頭してきたサラディンが、現地において劣勢に立たされている十字軍で数少ない海港都市の一つ、ティロスに攻めてきます。この「ティロス攻防戦」において、キリスト教勢力はイスラム・サラディンに対し善戦。サラディンはやむなくティロスから撤退します。この攻防戦の結果に気を良くした現地のキリスト教勢力は、1189年、エルサレムの ” 亡命王” ギー・ド・リュジニャンを先頭に、2年前にサラディンに奪還されていた海港都市アッコンを包囲することに成功します。
当然、現地にいるサラディンにとってアッコンがキリスト教勢力に脅かされる、というのは頭の痛いことなのですが、それ以上に彼を悩まし続けていたのは、第三次十字軍(中でも皇帝フリードリッヒ一世が率いる10万にもおよぶ軍勢)がシリア・パレスティナに日々近づきつつあることでした。実際、サラディンは、現地に近づきつつあったフリードリッヒ一世に書簡を送って彼の反応を探ったり、斥侯隊を派遣するなどして彼の情報収集を反応を探ったり、さらには、ビザンツ帝国と共謀してフリードリッヒ一世の行軍妨害も画策していたのです。
ところが、フリードリッヒ一世の軍勢に予期せぬ不運が訪れます。マルマラ海を渡り小アジア内陸へ進軍し、彼の軍勢がマゴクス川の渡河中、フリードリッヒ一世自身が馬から落馬します。そして、自ら着ていた甲冑の重みで水面に浮き上がれず、溺死してしまったのです。(1190年6月) このフリードリッヒの突然の死によって彼と共に従軍してきたドイツ兵の大半は、ドイツへ帰国してしまいます。現地に残りこのまま十字軍遠征の任務を遂行しようとするフリードリッヒの軍勢は騎士七百、歩兵六千を数えるのみとなります。これには、いくら兵力不足に慣れっこになっているとはいえ、シリア・パレスチナのキリスト教勢も意気消沈します。
しかし、翌年には、第三次十字軍の主力隊の一つ、フランスのフィリップ軍が四月に、イングランドのリチャード軍が六月にそれぞれアッコンに到着します。息を吹き返す現地のキリスト教徒勢力は、フリップとリチャードの二人を中心として、七月には遂にアッコン奪還に成功します。このまま勢いづくかと思われた第三次十字軍ですが、フランスの領土拡張の夢がいつも頭から離れないフィリップはなんと、アッコン奪還の翌月フランスへの帰国を決意します。彼の決断に悩んだリチャード。フィリップには「自分が(この聖戦のため)イギリスを留守にしている間は絶対にイギリスを侵略することのないよう」クギを刺し、彼の出帆を見送ります。
一人残ったリチャードは、聖地エルサレム奪還を目標に十字軍勢を率い南下を開始。エルサレムに近い港町ヤッファを目指し進軍します。1191年9月、ヤッファの北50 kmにあるアルスーフで十字軍はサラディン率いるイスラム軍の攻撃を受けますが、病院騎士団の活躍もあり、サラディン軍に七千人もの犠牲を与えることに成功。このアルスーフの戦いは、イスラムにとって屈辱の出来事と記憶され、サラディンの不敗神話に土をつけた戦いとなりました。この時からリチャードはまわりから「獅子心王」と呼ばれるようになります。この後、聖堂騎士団の活躍もあり、遂にヤッファを制圧に成功します。
いったんはヤッファ制圧に成功したリチャードですが、その後は、ヤッファをめぐり一進一退の攻防が彼とサラディン軍政により繰り広げられます。1192年7月、今度はサラディンがヤッファを制圧しますが、このあとリチャード軍がヤッファを奪還します。このリチャード軍の再度のヤッファ奪還の戦いでサラディンは 700名の戦死者を出して完敗を喫し、撤退します。この戦いによりリチャードは、遂にサラディンとの講和を決意します。もしかしたら、リチャードにとっては、イギリス侵略を狙うかも知れないフランスのフィリップのことが気がかりだったかもしれません。一方、この時リチャード35歳、サラディン54歳。サラディンは、自分の年齢を気がかりで(*)、仮に自分に万一があった時「誰がイスラム側のリーダーとしてリチャードと対峙できるのか、、」 そういった自軍内部の後継者の不在という不安も持っていたようです。サラディンは、講和を受諾することに決めます。この時の平和協定(ヤッファ条約)の合意内容を以下簡単に列挙します。
☐ 聖都エルサレムは、イスラム側に属す。ただし、イスラム側は、エルサレムを訪れ るキリスト教徒の巡礼たちの安全・行動の自由を保証する。
☐ また、ベツレヘム(イエスの生誕の地)、ナザレ(イエスが育った地)、ヨルダン川等々の聖跡へのキリスト教徒巡礼も、その安全・自由の保証はイスラム側の義務とする。
☐ ティロスからヤッファまでとその周辺一帯の土地(6つの海港都市を含む)は十字軍側に属する。
☐ パレスティナ地方の陸側に数多く点在する聖堂騎士団、病院騎士団の城塞の保持を引き続き認める。
☐ 十字軍国家領と認められた地域はどこにでも、経済交流としてのイスラム教徒の自由な往来を認めると同時に、同様の目的のキリスト教徒のイスラム領内での自由な往来と活動も認める。
☐ これまで双方が手にしていた捕虜全員の釈放を認める。
結果から見ると、この合意は、キリスト教徒側からもイスラム教徒側からも不評でした。なぜなら、十字軍を派遣したヨーロッパ側から見れば当初の目標である聖地エルサレムを奪還できなかったことによる失望した人が多かった。そして、イスラム教徒側から見た場合、十字軍国家をパレスチナ・シリア沿岸部から排除できなかったことに対する失望を抱いた人々が多かったためです。考えてみれば、どちらも一神教(自分たちの崇拝する神のみを唯一絶対の真の神と見なし、他の神々の存在を原理的に否定する。)なので、(双方)自分達の神が導いた(と信じる)異教徒との戦いの結果が、異教徒との妥協というのは、到底受け入れることのできないものであったのでしょう。
翻って、先の二度の大きな世界戦争も経験した我々現代人の場合、(ヒトラー、スターリン、日本の軍国主義、共産主義、ベトナム戦争、毛沢東政権、、などなど)特定集団がそのイデオロギーの純粋性を極めるほど、その価値観は常識的な思考との偏差が大きくなり、その結果、(自らを絶対的な正義とみなし、)ついには、考えを異にする存在を「絶対的な悪」と決めつけ排除する、という実例を世界中でいやというほど見ているはずです(宗教的な対立も含めて)。。 でも、残念ながらそういった現在においても、現代版「イスラム十字軍」といっても良い(?)ような 2001年9月11日の同時多発テロ(9.11)がおきてしまう。。。
これはある意味、人間である我々の業なのかも知れません。。(換言するなら、我々が人類を始めてから今までの170万年間で培ってきた本能(DNA)の一部に組み込まれている思考なのかもしれません。。) だとしたら、やはり、どこかでリチャード1世とサラディンが決断したような「共存・共栄のための折り合いをつける」ことが大切だと思います。。サステナブルな活動で地球に負担をかけない考えが求められている現在において、自分(の正義)を通し、その結果、相手が犠牲になっても平然としているような態度や考え方は国レベルでも、社会レベルにおいても受け入れ難くなりつつあるように思うます。個人的には、「どこかで折り合いをつける」という決断こそが、これからの我々にとって必要な考え方だと思うのです。。。。
(*)実際サラディンは翌年1193年3月死去。
イスラム最高の武将サラディンと、中世最大の騎士にして英国王リチャード獅子心王率いる第三次十字軍の息を呑む攻防。ヴェネツィア共和国の深謀遠慮に翻弄されるばかりの第四次十字軍。業を煮やしたカトリック教会自身が武器を手にして指揮を執った。掟破りの第五次十字軍―。
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