キリストの誕生
遠藤周作氏が「イエスの生涯」で創造したイエス。ユダヤ教の権威者が愛した神殿よりも、弱者に寄り添うことの大切さを説いたイエス。しかし残念ながら彼の生前において、彼が愛した弱者の人々以外は、たとえ弟子たちであってもその教えの真意を理解した人はいませんでした。十字架の上で孤高の死を遂げたイエス。しかし史実では、皆さんご存知のように彼は後年、キリスト教の救世主として信者から崇め奉られ、さらにはキリスト教はローマ帝国の国教にまでなります。
この弟子たちの成長を語るのに、遠藤さんは、「イエスの生涯」と同様、いろいろなバージョンの聖書や当時の文献などを読み漁り、各書物で語られる微妙な作者たちの文意の相違から、原始キリスト教団(*)と当時のユダヤ教の大司教やサドカイ派、パリサイ派、エッセネ派との関係・対立、サドカイ派の圧力、迫害、そして原始キリスト教団内でも信者たちの派閥形成と分化、そして、対立をしながらも教団組織を徐々に大きくし、パレスチナ地方からやがてはローマまで広く布教活動を行う様子を描いていきます。いくら遠藤さんの創造とは言っても、史実はしっかり押さえて己のイエスを創造した遠藤さんです。本書で紹介される弟子たちは、紆余曲折を経ながらも頭の下がるような艱難辛苦を体験し救世主イエスを語り継いで行きます。
この作品の中で私的に印象に残った弟子はステファノです。初期の原始キリスト教団には、ヘブライ語を話すユダヤ人しかいませんでしたが、教団の教えが広まるにつれてディアスポラ(海外へ移住していた「さまよえるユダヤ人」。この場合は、ギリシャ地域内からふたたび故国へ帰ってきたギリシャ語を話すユダヤ人)が原始キリスト教団の中に派閥を形成するほど勢力を持ち始めます。彼らは、ユダヤ教の非寛容できびしい神のイメージの影響を受けていた初期のキリストの教えではなく、イエスの説いた寛容な愛の神、許しの神をストレートに理解します。そのディアスボラ集団の中でもステファノは特に過激論者でした。
ステファノは、自らの一派とともに独自に行動し、他のディアスポラの会堂(シナゴーグ)に出かけては宗教論争を行います。当時、ユダヤ教が多数派だったエルサレムにおいて、エルサレム神殿こそが宗派に関係なく尊敬と礼拝の場所だったのですが、ステファノはこの神殿礼拝さえ真っ向から否定し、規範や義務で形骸化していたユダヤ教を批判します。この神殿と律法の否定に対し、ユダヤ教の人々は激高。ついに彼らはステファノを石打の刑に処します。
一方、これまで原始キリスト教団を率いてきたペトロは、ある意味で自分よりイエスの言葉を実践して死んでいったステファノの行動に、イエスの精神の継承を認めざるを得ませんでした。ペトロは同時に、自分がステファノのように組織の指導者として、行動する勇気がなかったことを認めざるを得なかったのでしょう。ペトロは、イエスが処刑された時に味わった、自分ではどうすることもできない無力感、屈辱感、喪失感をステファノの処刑の時に再び味わうことになったのだ、と遠藤さんは語ります。
しかし、ステファノの喪失は彼らにとって無意味だったのでしょうか。。このステファノの死はイエスの死からわずか2年後のことです。しかし、わずか2年の間にイエスの弟子や生前のイエスを知らないステファノのような人にさえ、イエスの信仰は彼らの精神内に確立されていたのです。つまり、そう考えるならペトロをはじめとした原始キリスト教徒の信仰は、ステファノの死でより一層強まって行った、ということが言えると思います。実際他の使徒たちも、イエスやステファノの死により、(ステファノと同様に)イエスの精神を受け継ぎ、彼の教えを自分のものにしていき、やがて真にイエスを「救世主」と呼ぶようになるからです。(しかし、それは同時に彼ら使徒たちが、イエスやステファノと同様、無惨な孤高の最期を迎える運命を選択することにもなるのですが、。。)
*原始キリスト教:イエスの死後、弟子と初期の信者が集まり、イエスの言葉を教義化していく過程でのキリスト教初期の形態。教団として方向性がまとまっていないところもあったようですが、実際のイエスの行動や言葉をみたり聞いたりした人たちの集団なので、現代のキリスト教よりも、もっと実際のイエスの教えに近いキリスト教を実践した集団とも言えるでしょう。
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