死海のほとり

       「イエスの生涯」「キリストの誕生」と、遠藤周作さんの小説を二冊続けに読了した勢いで、この作品も読みました。本書については何の予備知識もなく、単にタイトルの「死海」という場所柄、なんとなくイエスと関係ある作品だろうということと、表紙の死海(?)の写真(物音を吸い込む静寂さと「死」さえ感じさせるような荒涼な土地と冷たい水面が印象的。)につい魅入られ読んだのですが、感想を一言で言うと、とても不思議な作品だと思いました。


  一人の中年小説家が主人公(おそらく遠藤さん自身を投影した人物)です。彼はヨーロッパ旅行の帰り道、イスラエルの国際空港で、国連の現地職員として働く大学生時代の友人、戸田と再会します。彼ら二人はクリスチャン。(戸田は聖書学者でもあります) 二人は、このパレスチナの地で若き時分、自分達の信仰の糧だったキリスト教の開祖、イエス・キリストのゆかりの史跡を車で訪ねまわることにします。そして、このメインのストーリーの間に、イエス•キリストのエピソードと彼らの大学時代の話が挿入され、現在の話と同時進行していきます。


  彼らが知り合ったのは東京のキリスト教会系の私大。同じクリスチャンではありますが、主人公はクリスチャンの親の意向で入信した消極派クリスチャン。一方の戸田は学生になってから自分の意思で入信した積極派クリスチャン。彼は押しの強い性格でもあり、二人の会話でもキリスト教の信義に関する事柄に対し、戸田は常に積極的に二者択一的回答を探すような感じ。反対に主人公は常に戸田から討論をふっかけられたり、諭しを与えられる、という受け身的性格です。(遠藤さんはこのようにメインキャラ二人の性格を対照させることにより、彼らの会話を弁証論的にして、小説全体の奥行きに幅を持たせているのでしょう。)


  また、若い頃に抱いた理想と自分たちが生きてきた現実との乖離のためか、主人公の小説家は、信仰に疲れきった自分を、自堕落で意思の弱い性格だと考え続けている一方、戸田の方も妻と別れ、今では日本から離れイスラエル(パレスチナ周辺)で、国連職員として勤務していますが、彼もやはり現在の生活にどこか何処か「引け目」を感じているのが伺えます。


  二人の学生時代は第二次大戦中で、勤労奉仕に駆り出されることも度々。当時の彼らの大学では、ドイツ神父とポーランド系ユダヤ人修道士が大学教会の信仰を守っていました。話が進むにつれ、二人の話題はこのドイツ人神父や、「ねずみ」というあだ名で呼ばれていた修道士、コバルスキになります。なかでも、コバルスキという修道士は、大学の教会に勤めた後、ポーランドへ帰りそこから運悪くドイツの強制収容所に収容されたのですが、二人はその強制収容所にいた彼を覚えているという人物が、偶然にも滞在中のイスラエルのあるキブツ(集団農場)にいることを知ります。

    小説のストーリーが進むにつれ、遠藤さんがこの小説で一番描きたかった人物は、実はこのコバルスキではないか、と私は感じました。しかし、この人物は、イエスやその使徒たちのように、信仰のために自らの命も犠牲にできる、という強い性格の持ち主ではありません。それどころか全く正反対の人物です。学生達の試験監督をしている時には、学生がカンニングをしていることを後から告げ口したり、学生の食料をちょろまかしたり、、とキリスト教に仕える身でありながら、弱虫で、ずる賢い、卑小な性格の持ち主です。(余談ですが、遠藤さんのキリスト教を題材にした作品には必ずといっていいほどコバルスキのような人物がでてきます。例えば「沈黙」(1966年発表)。この作品ではポルトガルから日本へ布教に来た神父を日本の代官に売り渡すキリシタンのキチジローという卑怯者が登場します。)


  二人の「中年の感傷旅行」(若き日の、自分たちの信仰に関する思い出をなぞる旅)の終点は、そのコバルスキは収容所で死んだのか、、それとも生き延びたのか、、だとしたら彼はその後どうなったのか。。。という事実探しになります。そして、二人の話の間には、ガリラヤ地方の湖畔での布教から、遂にエルサレムのゴルゴダの丘で処刑されるまでの、イエスのエピソードも挿入されていき、小説のエンディングにおいては、日本人二人の過去と現在、そしてイエスの処刑に至る逸話が一つに集約され、この小説のテーマが浮き上がっていくのです。


  ではなぜ、遠藤さんはこのコバルスキような一見描くに値しないと思われる、また、読者にとっても読んでいて不快になるような人物を丁寧に描くのでしょう。。。(おそらくここが、遠藤さんの核心につながっていくのですが。。)たぶん、遠藤さんは、このような卑小な人間を嫌悪、軽蔑しているのと同時に、クリスチャンとしてそのような人物を否定しきれない己の「弱さ」を自分遠藤さん自身が感じていたからなのかもしれません。


  実際本書において、学生時代の主人公は、神父の仲介でらい患者の慰問へ行き、病院内の施設で患者チームと野球をするシーンがあるのですが、彼は走塁中、塁上を守備するらい患者と接触しそうになり走塁を躊躇します。ためらう主人公にそのらい患者はそっと小声で告げます。「おいきなさい。。触りませんから。。」 慰問にきたはずの自分が、逆にらい患者に気を使ってもらう、、というふがいない体験をする主人公。このシーンは、遠藤さん自身の弱さの吐露と受け取れる箇所だと思います。また、同様に「キリストの誕生」では、仲間の使徒ステファノが暴徒の手で、石打ちの刑に処されたことで、ステファノを助けられなかったキリスト教団の指導者パウロは自分の弱さを自覚するのですが、遠藤さんはその弱いパウロを共感を持って語っています。。


  では、イエスはそいうった弱い信者を否定し、キリスト教の信義のためには殉教をもいとわない強い信者だけを愛しているのでしょうか。。。?  実はそんなことはないと思います。 少なくとも遠藤さんは、コバルスキや、「沈黙」のキチジローのような、人生の苦難において変節するようなクリスチャンをも愛し、その人と共に人生を歩む存在としてイエスを描いています。


  日本人の二人は、目的地のキブツに到着しますが、彼らは一番に会いたかった人物(強制収容所の医師で一時コバルスキが彼の助手になっていた、つまりコバルスキを直接知る人物)に会えないのですが、当時その収容所にいた人物に会い収容所での話を聞きくことができます。(この収容所の話は、ヴィクトールE.フランクルの「夜と霧」を彷彿とさせる語り口。そこは、高邁な思想や宗教をいくら語っても何の得にもならない無情が支配する、そして余計なことは考えずただ監督員から目立たぬように配慮し行動するだけの世界です。)この収容所に送り込まれたコバルスキも、姑息なやり方で監督員に媚を売ってなんとか生き延びていきますが、ある日、彼は朝の労働前の点呼の時に労働監督に呼び止められて、ガス室へ連れて行かれたことが分かるのです。。。


  主人公は帰国の前の晩、収容所でコバルスキと働いていた医師(前述の医師)から手紙を受け取ります。そこには、二人に会えなかったお詫びと、コバルスキの最後の朝の詳細が書かれていました。医師の手紙の中には、その朝コバルスキが労働監督に呼び止められ、恐怖のあまり思わず放尿してしまったこと、そしてすべてをあきらめ放心状態で飢餓室(ガス室)の方へ、労働監督と二人で歩き出していったことが書かれていました。そして、この医師の手紙の結びは次のような言葉で終わっていました。。「。。この時、飢餓室へ向かって歩くコバルスキの隣に、彼と同じような囚人の服装をして足を引きずって歩く同伴者を短い間ですが、この目でしっかり見たのです。。」と。この手紙を読み終えた主人公は、ほんの一瞬、イエスの声を確かに聞いたような気がしたのです。「いつも、、お前のそばに、わたしがいる、」。。。その「同伴者」のイメージこそ、この作品で遠藤さんが描いたイエス像なのです。


  イエスのエピソードを除く二人のストーリー展開は、映画でいうと昔ハリウッドで流行ったいわゆる「ロード―ムービー」という感じ。おそらく遠藤さんもロードムービーの影響を受け、それを小説の構成に応用しているのだと思います。彼らの乗る車から見える乾燥し切った荒山や水が細々と流れている川、パレスチナの荒涼な風景、、それは、時空が違えど、イエスの旅と二人の男の旅が同時に進展していく一体感を作品に与えているのと同時に、二人の日本人の心象風景とも重なっているのだと思います。


  また、二人のイスラエル(パレスチナ)の車での旅の途中、クリスチャンの日本人観光客が神父さんをガイドにしてイエスゆかりの地をたずねるバスツアーの一行に出会うのですが、この作品の取材当時すで日本人がパレスチナの地を観光旅行に来ていたとは知りませんでした。。

Hisanari Bunko

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