沈黙
遠藤周作さんの代表作の一つ。この作品はアメリカの映画監督マーティン・スコセッシにより2016年に映画化されました。私は、遠藤さんの原作よりこの映画を先に見たので「沈黙」と言うと、どうしても映画の感動が先に来ます。冒頭の最初のショットから唖然とさせられる画面にくぎ付けになったのを覚えています。画面いっぱいに立ち込める霧。その霧が少しずつ晴れていきます。すると、前方には火傷をするぐらいの熱湯が湧き出る温泉があり、そのすぐ後方には半裸の外人神父たちが十字架にかれられているのが見えます。磔刑にされている彼らの横には、日本人のお奉行の役人たちが立ち、温泉から柄杓(ひしゃく)で熱湯をすくい無情にも神父の体にかけているのです。。。
水飲み場で喉をいやすロドリゴの前に突然、幕府の役人が現れます。実は、キチジローは代官に脅かされ、銀と交換に神父の居所を教えたのです。取り押さえられた司祭は他の数人のキリシタンと共に綱で引かれ、井上が待つ奉行所へ連れていかれます。井上と対面するロドリゴ。かつて自らも信者であり、それゆえ彼らの心情を理解する井上は、穏やかに、しかし言葉巧みに神父へ棄教を勧めます。
ロドリゴ神父を殺さず、棄教させ生かし続ける方が、隠れキリシタンにより大きな精神的打撃を与えることができる、と考えた井上はある日、神父を近くの海辺へ連れて行きます。神父の視線の先の海には、棄教を勧める役人と縄で縛られた数人の百姓信者、それにガルペ神父を乗せた船が見えます。棄教を拒絶した信者は、藁(わら)で体を縛られ、海へ沈められます。そして、彼らを追い水中へ身を投げるガルペ。。。 この信者とガルペの殉教に泣き叫ぶロドリゴに井上は言います。「お前が広めるキリスト教のためになんの罪もない信者が死なねばならないのだ。」 ロドリゴはまた、かつての恩師で今では日本人名、沢野忠庵を名のるフェレイラ元神父とも対面します。フェレイラも彼に棄教を勧めます。
その時、遠くで犬が争うようなうなり声が聞こえてきます。司祭は、それが牢番のいびきだとわかります。彼は己が締付けられる苦しみの中にいるとき、自分の近くにのんきにいびきをかいて寝ている人がいるのをとても滑稽に、しかし腹立たしく思います。そこへ再び棄教を勧め来たフェレイラ。彼は言います、、「あれはいびきではない。穴吊りにかけられた信徒たちが血を流しながら呻いている声だ。」 自分が滑稽だと思い、傲慢にも声をだして笑ったその音が、実は自分よりもっと苦しんでいる信者の呻き声だとわかった司祭。動転し、頭を振り続けます。
フェレイラは(自分の棄教の時にも)今のロドリゴが受けているのと同じ苦しい仕打ち、つまり、穴吊りにされた信者の苦痛の声を聞かされていたことを彼に告げます。元神父は言葉を続けます。「私が転んだ(棄教した)のは、穴に吊らされたからではない。三日間わたしは一言も神を裏切る言葉はいわなかった。。私は必死に神に祈った。。私が転んだのは、、ここに入れられ耳にしたあの信者の声に、神が何ひとつなさらなかったらからだ。。。」 言葉少なに棄教したフェレイラを責める司祭「あなたは祈るべきだったのに。。」フェレイラはなおも話を続けます。
「祈ったとも、だが祈りもあの信者たちの苦痛を和らげはしなかった。お前が転ぶと言えばあの人たちは苦しみから救われる。なのにお前は転ぼうとせぬ。お前は彼らより自分が大事なのだろう。教会を裏切ることが怖しいからだ。」深い夜が少しずつ明けはじめます。そして、フェレイラは、ロドリゴにとっては受け入れ難い、しかしフェレイラ自身にとって真の思いを言います。「もしキリストがここにいられたら、彼らのためにキリストはたしかに転んだだろう。」。。と。 「そんなことはない!、、どうか私をこれ以上苦しめないでくれ。。」(ロドリゴ)
この時、戸が開き、そこから白い朝の光が差し込みます。フェレイラは優しく司祭の肩に手をかけ、彼を励まします。「さあ、今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ。」 不本意ながらも踏み絵を行う決心をするロドリゴ。廊下を進みだす二人。その先には、踏み絵が用意されています。その銅板は多くの足に踏まれ摩耗したイエスの顔があります。涙を流す司祭、、その時、銅板のイエスは彼に言います。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。。私はお前たちに踏まれるため、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」 「ああ、、痛い、、」と踏み絵に足をかける司祭。。その時、遠くで鶏の鳴き声が聞こえます。夜明けです。
私は、遠藤さんはこの司祭の棄教(踏み絵)の行いを「愛の行為」として認めているのだと感じます。それはロドリゴが、一人深い夜に拷問にかけられている信者の声を聞き、絶望の中をさま迷っているところへ、フェライアが訪れ、ロドリゴが「踏み絵」をするまでの過程が、深い夜から朝の訪れまでの間に進行している表現からもうかがえます。また遠藤さんが「イエスの生涯」において、「エルサレムの荘厳できらびやかな神殿(=威厳)よりも、形のない弱者への愛(=心)が優るのだ、」とイエスに語らせていたのと、この「沈黙」において、ロドリゴが殉教(=教会の権威)することよりも、穴吊りに苦しむ信者を救う棄教(=自己犠牲)を選んだことが重なっているように思えるからです。
遠藤さんの作品はどこが魅力的なのでしょう。。。どうしてか考えるのですが、たぶん、それは彼の作品に登場するキャラクターなのだと思います。どう魅力的かというと、たとえイエスであっても、一般に伝えられているような奇跡を行うキャラクターではなく、家庭を守ることさえできないようなキャラクターとしてさえ遠藤さんは描いています。(歴史上伝えられる、ヘラクレス、アレクサンダー大王、それにカエサルのような強いリーダー、という感じでは全くありません。) でも、弱い自分を認めながら、いったんは絶望しかけ、それでも毎日を懸命に生きていこうと悩み、苦闘します。そこに彼らの生きる輝きを感じる瞬間があるからだと思います。
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