沈黙

  遠藤周作さんの代表作の一つ。この作品はアメリカの映画監督マーティン・スコセッシにより2016年に映画化されました。私は、遠藤さんの原作よりこの映画を先に見たので「沈黙」と言うと、どうしても映画の感動が先に来ます。冒頭の最初のショットから唖然とさせられる画面にくぎ付けになったのを覚えています。画面いっぱいに立ち込める霧。その霧が少しずつ晴れていきます。すると、前方には火傷をするぐらいの熱湯が湧き出る温泉があり、そのすぐ後方には半裸の外人神父たちが十字架にかれられているのが見えます。磔刑にされている彼らの横には、日本人のお奉行の役人たちが立ち、温泉から柄杓(ひしゃく)で熱湯をすくい無情にも神父の体にかけているのです。。。


  これは、江戸幕府が禁教令を布告後の日本で布教を行っていた神父を処罰するシーンです。(熱湯をかけられている神父さんには申し訳ないのですが、)その映像の美しさに圧倒されたのを今でも覚えています。このシーンから最後まで圧倒的な映像体験を先にした自分にとって、原作に触れるというのは、ちょっと勇気がいる、、というか、精神的にエネルギーが必要だったのですが、読後は映画を見た時のような深い感動を覚えました。

  ストーリーの時と場所は、17世紀初めのポルトガル。イエスズ会の二人の若き神父(ロドリゴ神父とガルペ神父)のもとに、二人が尊敬する神父フェレイラが布教先の日本(江戸時代初期)で信仰を棄てたという報告が届きます。そして、その報告には、一時は布教活動が成功し日本では、信者の数が増えていったが、幕府の禁教令布告後、信者への弾圧が厳しくなり、さら信者の島原の反乱後は、その弾圧が一層厳しさを増している様子が語られていました。イエスズ会指導者の心配をよそに、自らの日本への派遣を強く求める二人。イエスズ会から許可を得た二人は、さっそく中国・マカオにわたり、そこで日本の地理に詳しいキチジローを雇います。このキチジロー、日本人なので日本語を話せますし、キリスト教についても知識を持っている人物ですが、昼間からお酒ばかり煽っていて、人生に投げやりな様子。(過去に大きな悲しみを体験したのかもしれません。)彼らは中国船に乗りこみ、無事に五島列島の陸地への上陸に成功します。


  彼らはキチジローの案内で、近くの隠れキリシタンのいる漁村の村民に接触。村長のイチゾウ、モキチらをはじめ、新しい神父の到着を待望していた彼らと神父の間には、すぐに強い信仰の絆が結ばれます。しかし、この漁村に神父がいる、という噂が立ち、長崎奉行の井上は村民たちが神父をかくまっているのではないか、と嫌疑をかけます。村民に「踏み絵」を強要する代官。二人の神父の身に危険が及ぶのを危惧したイチゾウ、モキチ等は、代官から棄教を強要されますが、それを拒否し、海に立てられた十字架にかけられ磔刑に処せられます。イチゾウ、モキチの自己犠牲に胸を痛めるロドリゴとガルペの二人の神父。

  身辺に危険が迫る二人の神父を守るため、別の村へ行くことを勧める村民。この時、二人は別行動をとることに決めます。キリスト教弾圧が激しい日本において、今日本に滞在する神父はおそらく自分たちだけ。日本のキリスト教信者にとっては、彼ら二人が最後の希望なのです。二人が別れれば、仮に一人が捕まっても、もう一人が日本のキリスト教信仰を守ることができるのです。ガルペ神父と別れたロドリゴは、旅の途中でキチジローに会います。腹の減っているロドリゴに食料を与え、神父を安心させるキチジロー。しかし、彼は何かを企んでいる様子。


  水飲み場で喉をいやすロドリゴの前に突然、幕府の役人が現れます。実は、キチジローは代官に脅かされ、銀と交換に神父の居所を教えたのです。取り押さえられた司祭は他の数人のキリシタンと共に綱で引かれ、井上が待つ奉行所へ連れていかれます。井上と対面するロドリゴ。かつて自らも信者であり、それゆえ彼らの心情を理解する井上は、穏やかに、しかし言葉巧みに神父へ棄教を勧めます。


  ロドリゴ神父を殺さず、棄教させ生かし続ける方が、隠れキリシタンにより大きな精神的打撃を与えることができる、と考えた井上はある日、神父を近くの海辺へ連れて行きます。神父の視線の先の海には、棄教を勧める役人と縄で縛られた数人の百姓信者、それにガルペ神父を乗せた船が見えます。棄教を拒絶した信者は、藁(わら)で体を縛られ、海へ沈められます。そして、彼らを追い水中へ身を投げるガルペ。。。 この信者とガルペの殉教に泣き叫ぶロドリゴに井上は言います。「お前が広めるキリスト教のためになんの罪もない信者が死なねばならないのだ。」 ロドリゴはまた、かつての恩師で今では日本人名、沢野忠庵を名のるフェレイラ元神父とも対面します。フェレイラも彼に棄教を勧めます。


  ロドリゴの目前でキリシタンの処刑を行い「お前が棄教しないから何の罪もない信者が苦しむのだ、」と圧力を加えていく井上。たった一人の夜中の牢獄、ロドリゴ、棄教を拒絶し死んでいった仲間を思い浮かべます。。イチゾウ、モキチ。、そして、海へ沈められたキリシタン、ガルペ神父。。 絶望の中で、ロドリゴはつぶやきます。「神よ、あなたは我々にこのような苦難を与えられて、どうして沈黙されたままなのか。。」 その時彼は、イエスの声を聞きます。「お前が苦しんでいる時、私もそばで苦しんでいる。」


  その時、遠くで犬が争うようなうなり声が聞こえてきます。司祭は、それが牢番のいびきだとわかります。彼は己が締付けられる苦しみの中にいるとき、自分の近くにのんきにいびきをかいて寝ている人がいるのをとても滑稽に、しかし腹立たしく思います。そこへ再び棄教を勧め来たフェレイラ。彼は言います、、「あれはいびきではない。穴吊りにかけられた信徒たちが血を流しながら呻いている声だ。」 自分が滑稽だと思い、傲慢にも声をだして笑ったその音が、実は自分よりもっと苦しんでいる信者の呻き声だとわかった司祭。動転し、頭を振り続けます。


   フェレイラは(自分の棄教の時にも)今のロドリゴが受けているのと同じ苦しい仕打ち、つまり、穴吊りにされた信者の苦痛の声を聞かされていたことを彼に告げます。元神父は言葉を続けます。「私が転んだ(棄教した)のは、穴に吊らされたからではない。三日間わたしは一言も神を裏切る言葉はいわなかった。。私は必死に神に祈った。。私が転んだのは、、ここに入れられ耳にしたあの信者の声に、神が何ひとつなさらなかったらからだ。。。」 言葉少なに棄教したフェレイラを責める司祭「あなたは祈るべきだったのに。。」フェレイラはなおも話を続けます。


  「祈ったとも、だが祈りもあの信者たちの苦痛を和らげはしなかった。お前が転ぶと言えばあの人たちは苦しみから救われる。なのにお前は転ぼうとせぬ。お前は彼らより自分が大事なのだろう。教会を裏切ることが怖しいからだ。」深い夜が少しずつ明けはじめます。そして、フェレイラは、ロドリゴにとっては受け入れ難い、しかしフェレイラ自身にとって真の思いを言います。「もしキリストがここにいられたら、彼らのためにキリストはたしかに転んだだろう。」。。と。 「そんなことはない!、、どうか私をこれ以上苦しめないでくれ。。」(ロドリゴ)


  この時、戸が開き、そこから白い朝の光が差し込みます。フェレイラは優しく司祭の肩に手をかけ、彼を励まします。「さあ、今まで誰もしなかった一番辛い愛の行為をするのだ。」 不本意ながらも踏み絵を行う決心をするロドリゴ。廊下を進みだす二人。その先には、踏み絵が用意されています。その銅板は多くの足に踏まれ摩耗したイエスの顔があります。涙を流す司祭、、その時、銅板のイエスは彼に言います。「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。。私はお前たちに踏まれるため、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」 「ああ、、痛い、、」と踏み絵に足をかける司祭。。その時、遠くで鶏の鳴き声が聞こえます。夜明けです。


  「今まで誰もしなかった一番つらい愛の行為をするのだ」。。というフェレイラの言葉。クリスチャンの人から考えれば、この言葉は悪魔のささやきにも聞こえるのでしょうか。。でもクリスチャンでない私にとって(この語りの前後を幾度となく反芻しましたが)この言葉はストレートなフェライアの慈愛に満ちた言葉に聞こえます。(みなさんにはどのように聞こえるでしょう。。。?)


  私は、遠藤さんはこの司祭の棄教(踏み絵)の行いを「愛の行為」として認めているのだと感じます。それはロドリゴが、一人深い夜に拷問にかけられている信者の声を聞き、絶望の中をさま迷っているところへ、フェライアが訪れ、ロドリゴが「踏み絵」をするまでの過程が、深い夜から朝の訪れまでの間に進行している表現からもうかがえます。また遠藤さんが「イエスの生涯」において、「エルサレムの荘厳できらびやかな神殿(=威厳)よりも、形のない弱者への愛(=心)が優るのだ、」とイエスに語らせていたのと、この「沈黙」において、ロドリゴが殉教(=教会の権威)することよりも、穴吊りに苦しむ信者を救う棄教(=自己犠牲)を選んだことが重なっているように思えるからです。


  さて、ここまで書く機会がなかったのですが、キチジローもこの作品において、ロドリゴやフェレイラ以上に重要なキャラクターです。遠藤さんは彼を、人間の弱さと善、そして生きる悲しみをすべて一緒に背負った人物として描いています。前述したように、キチジローはいったんは銀と交換に、ロドリゴの身柄を代官に売ってしまいますが、ロドリゴの収容先である奉行所をたびたび訪れたり、しかもロドリゴが棄教した後、彼を追ってはるばる江戸まで彼に会いに行きます。そうしてその度に、ロドリゴから神の許しを乞うのです。。。彼も別の意味では、キリスト教の優れた理解者であったのでしょう。。弱い人間でありながらも、おそらく彼にとっては信仰がお金(銀)以上に大切だったのだ、と思います。。この作品の中でロドリゴがキチジローについて考えるセリフがありますが、おそらく彼はバブル時代のような日本に生まれていれば、周囲から気のいいお人よしとして人気者の人生をおくれたのかも知れません。。「人はすべてが聖者や英雄と限らない。もしこんな迫害の時代に生まれ合さなければ、(彼も)そのまま信仰を守り続けられたのでしょう。。ただ平凡な信徒だったから、肉体の恐怖に負けてしまったのだ。。」


  遠藤さんの作品はどこが魅力的なのでしょう。。。どうしてか考えるのですが、たぶん、それは彼の作品に登場するキャラクターなのだと思います。どう魅力的かというと、たとえイエスであっても、一般に伝えられているような奇跡を行うキャラクターではなく、家庭を守ることさえできないようなキャラクターとしてさえ遠藤さんは描いています。(歴史上伝えられる、ヘラクレス、アレクサンダー大王、それにカエサルのような強いリーダー、という感じでは全くありません。) でも、弱い自分を認めながら、いったんは絶望しかけ、それでも毎日を懸命に生きていこうと悩み、苦闘します。そこに彼らの生きる輝きを感じる瞬間があるからだと思います。


Hisanari Bunko

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