プラトン入門
この「プラトン入門」の著者リチャード・スタンリー・ブラックさんは1919年生まれのイギリス古典学者・哲学者。第二次世界大戦後の同国においてプラトン研究の担い手として活躍しました。前回紹介した「ソクラテス以前以後」の著者、F.M.コンフォードさんは、彼がケンブリッジ大学でギリシア哲学を学んだ時の先生にあたります。ブラックさんのこの著書が、初心者でもわかりやすい平明さを持って語られているのは、おそらくコンフォードさんの物書きとしての姿勢を学んだからだと思います。
本書の主役プラトンは古代ギリシアの哲学者です。著作もいろいろありますが、現代一般日本人にとってはあまり(というか、かなり)馴染みのない人物と思われがちですが、決して結びつきがないわけではありません。例えば、我々日本人が学校で勉強した歴史(世界史)観というのは、明治維新や文明開化以来、西洋の価値観を自ら積極的に受け入れ、吸収し、それを出発点に西洋諸国に追いつけ追い越せ、とやってきて現在に至っているわけですから、なんだかんだ言ったところで西洋から拝借した、いわゆる「西洋史観」です。そしてその西洋(特にヨーロッパ)の歴史のもとを正せば古代ギリシアにその源泉があります。その古代ギリシア哲学におけるプラトンの存在はとても巨大。例えば、現代のアメリカの大学などでも学生の必読書No.1として彼の中期対話篇の「国家」を挙げていますし、イギリスの数学者・哲学者の A.N.ホワイトヘッド は、「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という意味のことを述べています。
プラトンは、紀元前427年、アテナイ(アテネ)最後の王コドロスの血を引く一族の息子として、アテナイに出生します。この時期のアテナイは、(彼が生まれる数年前から)スパルタを中心とするペロポネソス同盟との27年に及ぶ戦争(ペロポネソス戦争)に突入しています。アテナイはこの戦争中の前451年、シケリア(シチリア)遠征を決行しますが、この軍事作戦が裏目に出て、これが原因によりアテナイはペロポネソス戦争に敗れることになります。このように、プラトンが生まれた時期というのは、アテナイの国勢も下り坂、国状も不安定になって行く過程にありました。
プラトンの家では、父アリストンが彼の2、3歳の頃に死亡。母は再婚します。当時の名門家では文武両道を旨とし、知的教育と並んで体育も奨励されていました。プラトンも例外ではなく、机の上の勉強だけでなく体の鍛錬にも励み多感な時期を過ごしますが、国内の政治体制の変遷(ー寡頭政と民主制との相次ぐ交代)、民衆煽動家たちによる衆愚政治、、など 27年にも及ぶ国内における戦争の影響が彼にも暗い影響を与えていました。そういった青年期に今後の彼の人生に大きな影響を与えることになる、ある彫刻家に出会います。彼より42歳年上のソクラテスです。
当時は今でいう「哲学」という学問は存在せず、彼ら以前の思想家たちは物質や宇宙総体の本性に関心を向けていて、そのような思想家の中でも、特に原子論者と呼ばれる人々は「真の実在は、アトムと空虚のみである」と考えましたが、一方、ソクラテスの関心事は人間にあり、彼の重要で唯一の問題は「人生における目標と目的はいかなるものか。」にありました。彼は彫刻家の仕事はそっちのけで、若い人たちと、人の生き方の指針となる原則や「正義」「敬虔」などといった徳目の意味を論議するのが常でした。ソクラテスの持つ、このような人生に対する誠実さと高い道徳水準が、若く多感な時期にあったプラトンの尊敬を勝ち得ます。この出会いにより、プラトンは理性的原理に基盤を置き、自分の理想を追求する哲学者へと成長するのです。「(プラトンの)哲学の基礎におかれたのは、ソクラテスの抱いていた確信であった。すなわち、この世界には一つの目的が存在すること、各人はこの目的の本性と各自身との関連の発見に努めるべきであること、そして、一旦それを発見したならばその人は自分の生き方をそれに一致させるよう努力ことがそれである。この目標あるいは究極的かつ恒久的な真理を、プラトンは唯一の確実な行為の指針と考えた。」(P47)そして彼は、人の幸福とは(健康や財産の多寡にあるのではなく)、各人の人生におけるそれぞれの人格性や、人間としての固有の機能の実現によって達成される、と考えます。
一方、ペロポネソス戦争で大敗を喫したアテナイでは、戦勝国・スパルタ寄りの三十人の政治家が最高権力を握り、いわゆる「三十人独裁政権」と呼ばれる恐怖政治を行います。この独裁制は、恣意的な少数政治に反発した民主制勢力により崩壊しますが、この復興民主派はソクラテスを処刑します。実はソクラテスは当時、あらゆる既成的考え方に疑問を投じたり、若者へ彼らが教えられた伝統的な諸原則を問い直すよう教えていたのですが、この行動が、法や宗教の責任者や擁護者たちの不信と憤りを買ったからです。このソクラテスの処刑はプラトンに深い衝撃をあたえます。同時に当時のアテナイの政治にはびこっていた退廃と利己主義に深く失望した彼は、それまで志していた政治の道に進むことを断念します。
その後は、ギリシア周辺のローマ、シケリア(現在のシチリア)やオリエント世界を旅行し、自らの思想を深めつつ著作活動も行いながら、40歳頃、アテナイ郊外の北西のアカデメイア近傍に歴史上初の大学・アカデメイア(*)を設立(紀元前387年)します。プラトンは、抽象的な真理の探究は、善なる目的のために用いるべきと考え、その理念を基盤にアカデメイアでは討論と研究を通して天文学、生物学、数学、政治学、哲学等などが教えられます。プラトン60歳の紀元前367年頃には、当時17歳のアリストテレスがアカデメイアに入門。以後、プラトンが亡くなるまで20年間学業生活を送ります。
大学教育が普及している現代では、当時の状況がわかりにくいのですが、例えば、現代ではすでに学問にはカテゴリーが存在し、それぞれの学問の研究や功績は世代ごとに受け継がれていき、その成果・業績は研究室や図書館などに蓄積されていきます。そして大学の新入生は自分の研究における過去の偉業・功績を簡単に参照することができますが、当時の学問は今のようにカテゴライズされたものではなく、また、研究するにもその手段は現在よりもはるかに稚拙であったにちがいありません。(例えば自然科学の研究においても、顕微鏡や、天体望遠鏡などもなかった時代です。)そういった古代からの積み重ねが現代の学問の業績なのですから、やはり、アカデメイアを設立したプラトンには深い敬意の念を抱かざるを得ません。一方、古代ギリシアの大学の勉学に思いを馳せると、現代の形骸化した学問研究よりも、もっと自由で闊達に物事の真理について先生・生徒が問答を重ねる姿が想像され、ちょっと羨ましいくもあり、微笑ましいような感じも受けます。
このアカデメイアには、全ギリシアの指導的立場を目指す名門貴族の若者たち集まり、ここで学んだ後には、母国で国家の法典を作成したり、政治指導に当たったりと国家指導層につくようになります、このように設立後数十年で声望を得たアカデメイアは、その後、紀元529年にローマのユスティニアヌス皇帝がこの施設の閉鎖を命じるまで約900年間存続します。
プラトンは、学園アカデメイア設立の前後に幾度となくシケリア(現代のシチリア)を訪問します。当時のシケリアでは、ディオニュシオス一世から、新王二世へと政権交代の時期にあったのですが、二人から信頼の厚い臣下・デュオンは、プラトンの政治思想(哲人政治)に深く感銘し、プラトンへ新王・ディオニュシオス二世へ政治家として教育・指導を行うよう要請したのです。この要請を受けたプラトン。シケリアに赴きますがデュオンの失脚やプラトン自身がシケリアの政争に巻き込まれたりで、結局その目的は志半ばで挫折して終わります。そして晩年のプラトンは、著述とアカデメイアでの教育に力を注ぎ80歳で死去します。(紀元前347年、もしくは同 348年)
実は古代ギリシアという世界は、プラトンのような優れた天才を生み出した一方、人々が生きるのには決して理想的な世界ではありませんでした。多発する戦争や疫病の発生。。戦争がひとたび起これば、敗戦した側の人々は殺されるか、または奴隷として売られるのが当たり前。また当時の都市国家アテナイ(現在のアテネ)のライバル、スパルタでは、生まれてくる幼少の男の子はすべて、親から引き離され、兵士になるための厳しい訓練を受けさせられます。そして、その訓練に合格できなければ、死が待っている、という一種の軍国社会主義ともいうべき厳しい世界だったのです。(それだけ、古代ギリシアでは、市民は自らを兵士として訓練しなければ家族や部族、そして国家を守れない、維持できない、という徹底した実力主義世界であったことがうかがい知れます。現代ではあらゆるところで社会保障のもとにセイフティーネットが張りめぐらされていますが、そのような福祉制度など全くない少数の有力者たちが実力主義を行使する世界でした。ある意味で暗黒世界であったその古代ギリシアにおいて「真理探究」、「人の生きる意味・目的」、「親・善・美」といった価値観を中心に、人のあるべき理想を追求したプラトン。現代人にとっても学ぶべきところがたくさんあると思います。
著者のブラックさんは、プラトンを次のように評価します。「同時代の精神情況に及ぼした影響の大きさ、すなわち偉大さの尺度そのものであるとすれば、プラトンはきわ立って偉大であった。直接・間接的に、彼は幾世代にもわたって精神情況に影響を与え続けてきた。彼の著作によって、あるいは世界で最初の大学を設立したことによってもそうであるが、何よりまして大きいのは、彼の教説そのものによる影響である。」 そして、特に彼の功績は、それまでタレスが創始した自然哲学から派生した唯物論など「生」に対する無機的な考え方が主流であった古代哲学に対し、人間の生き方を考える「人間哲学」を樹立したことで、それは、それまでの唯物論思想や、「生」についての純然な機械論的説明に対抗する最も優れた解答の一つであった、と話します。自然科学的な自然哲学から人間哲学を切り分けすることに成功したプラトン。その後、自然科学重視の自然哲学は、やがて「科学」に専門的に深化し、「人間哲学」はその後の「西洋哲学」や人文学問へと展開していきます。
少し話が飛びますが、最近の「パレスチナ問題」。西洋や中東の歴史を読み続けて考えるのですが、歴史の世界では中世以降、キリスト教国家とイスラム教国家は地中海を挟んで反目・対立しあい、幾多の紆余曲折を踏まえながらも、常に対立を続けていますが、この「パレスチナ問題」の根底には、この2大宗教諸国家間における経済格差があるように感じます。客観的に考えてどちらの宗教が優れているとか、どちらの信者の信仰がより厚いのか、、という問題ではないのですが、ではなぜ、前者が経済格差において後者に対し優位に立ち、その位置を保持し続けられるのか、、その理由は私なりに突き詰めて考えれば、政治、経済は言うに及ばず、法律、社会科学、科学、哲学などの諸学問を基盤とした社会的発展がキリスト教諸国(ヨーロッパ)をイスラム教国家より優位にしているのだと感じます。
言葉を変えて言うと、先に述べた「科学と観念(哲学、宗教、、)の切り分け」に成功し、それぞれ独自の学問を発展させていったキリスト教諸国家と、常に「宗教原理」に回帰するイスラム諸国家という二大宗教諸国家間の性格の違いなのではないか、、と思うのです。そして、上記した諸学問を一言で「知性」と言うなら、そのヨーロッパの「知性」を育んできた源泉・源流はやはり、「万物の真理を探究する」哲学を展開した古代ギリシア哲学なのだと感じます。
本書はギリシア古典や哲学の研究を志す人だけでなく、一般の読者にもプラトンとは何者で、何をなそうとしたのか、といったプラトンの一生や、プラトンの著作を当時のギリシア社会の状況も含めてわかりやすく解説した内容になっていると感じます。古代ギリシア哲学やプラトンに関して興味のある方には、先に紹介した「ソクラテス以前以後」と並んでおすすめの1冊です。
(*)アカデメイア:英語 academy/アカデミー( 学術団体、教育機関)の語源となっている。
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