賢い人の秘密

  最近は、スマホ、AI、IT 、DX とか デジタル技術をもとにした社会の新しいプラットフォームの構築が加速し、カフェや電車内で、ゲームをやったり、SNSやったり、ネット記事を目にしている人を多く見かけます。人が様々な情報を吸収する機会が増え、それに伴って人自身も進化しているよう勘違いしてしまいそうですが、実はそういうことはまったくありません。自分も疲れた電車の中でネットを見ますが、そのようなスマホを操作している時の脳の状態というのは、(活性化しているのではなく)休息している状態で、それが人に心地よさを感じさせるのだそうです。(「本を読むだけで頭が良くなる」/著者・川島隆太 より。) なのでたとえば高齢者の方が、DX時代に追いつこうとスマホを手に取ってスマホに時間を費やしても、それが同時に脳の活性化を促すのか、、というとそうでもないようです。こういう記事を読むとデジタル社会の中でいつも分単位、秒単位でせわしなく動いている我々にとって、「進歩」、そして「知性」ってなんだろう、、、と疑問に思ってしまうのですが皆さんは如何でしょうか。。


  そういったことを思いながら目にしたのが、この「賢い人の秘密」です。著者は、クレイグ・アダムスさん。オックスフォード大学で言語学と現代語を学んだあと、ノン・フィクションの編集者として出版社で勤務。「教育」に自分のやりがいを見出しいったんは教壇に立ちますが、現代の教育に幻滅。教職を離れ本書の執筆を決意しました。


  本書は副題に「天才アリストテレスが史上最も偉大な王に教えた6つの知恵」というタイトルがついています。アリストテレスという人は、古代ギリシアを代表する哲学者の一人です。「プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば西洋最大の哲学者の一人とされる。知的探求つまり科学的な探求全般を指した当時の哲学を、倫理学、自然科学を始めとした学問として分類し、それらの体系を築いた業績から『万学の祖』とも呼ばれる。」(Wikipediaより) また彼は、マケドニアからエジプト、ギリシャ、ペルシャ、インドに広がる広大な帝国を築いた歴史上最も有名な統治者の一人、アレクサンドロス3世(アレキサンダー大王)の子供時代の家庭教師(紀元前340年頃)でもありました。


  本書では、アリストテレスがアレクサンドロス大王に教えた知恵を通して、著者が考える普遍的な知性について語っていきます。 では著者が考える「知性」(知恵)とはどんなものでしょう。。。それは単なる「知識の塊」「知識の集積」ではありません。アダムスさんが考える「知性」とは、人が困難な状況に陥った時、その困難を乗り越えていくための考え方であり、人が人生を向上させるため、より良く生きるための手段、換言すると、建設的な「思考方法」のことを指します。そして、アリストテレスですが、彼は、「万学の祖」として、学問の体系づけをしましたが、その中で、人の考え方・思考の原理も体系的に分析し、人の「思考方法」は人種に関係なく共通であることを発見した人でもあります。


  では、アリストテレスが体系的に分析をおこなった人の「思考方法」のエッセンスとは具体的にはどのようなものでしょう。。まず、人の思考法の一つである「演繹法」が挙げられます。「演繹」というのは、「より確かで、普遍的な前提を積み重ねていくことで、より確かな結論を導き出す」思考法です。例えば、「すべての人間は死ぬ。ソクラテスは人間だ。従ってソクラテスは死ぬ。」このような思考の道筋が演繹法です。アリストテレスの定義によれば「一定の事柄が言明された時、それらの言明に従って、別の事柄が必然的に導かれること」。これは我々が日常的に行っている考え方ですよね。この演繹で気をつけなけれないけないことは、その前提(上の例では「すべての人間は死ぬ。」)の部分です。この例の場合はわかりやすいのですが、自分のための特定利益誘導を行う政治家などは、この前提部分に不確かな事実や虚偽を混ぜて、導き出された結論が自分にとって都合の良いものになるようにするのです。


  次が「帰納法」。人は、見聞きしたさまざまな事象の中から類似点や、共通点を見つけようとします。そのような個別事例から普遍的な法則を生みだす思考方法が「帰納」です。例えば、友達9人が森へ行き、赤、緑、青色のキノコを見つけます。それぞれが3本ずつ生えていて、9人の一人一人がそれぞれのキノコ一本ずつ持ち帰ります、そしてみな、その持ち帰ったキノコを食べたとします。その中で赤キノコを持ち帰った3人だけが激しく嘔吐します。「物事の特性が2つあり、両者に関連性があると感じた時、私たちは目の前にある2つ目の特性を、ひとつ目の特性のしるしだと認識します。つまり、一つ目の特性である赤色が二つ目の特性である毒性のしるしである、と考えるわけです。人はこのように、関連性から物事の特性を見つける法則をいつでもどこでも適用します。これが「帰納」です。


  三つめは「類推」。これは2つのものを比較・関連付けてある点で似ているから、別の点でも似ているだろう、と推論するものです。例えばキャンプに来てる人が、ビールに添えるライムを輪切りにしていたら包丁で指を切ってしまいます。その時、この人は、TVで、レモンに殺菌能力がある、と言っていたことを思い出します。 しかし、その場にはレモンはありません。でもライムならあります。 ここで、この人はライムの果汁を切った指に塗ろうとするかもしれません。。。では、この人がライムの果汁を指に塗ろうとした理由は何でしょうか。。。レモンとライムには類似点があります。柑橘系で、形や大きさもあまり違いがありません。料理に添えて主役の料理の味を引き立てる、という使い方もよく似ています。このように2者を比較し、両者が共有している特徴を検討することで、ある結論を導き出そうとするのが「類推」です。


  「それは何か?」を問い「観念」と「実体」の違いを区別・認識することも「思考方法」の大切な要素の一つです。 地球から人類が一人残らず消滅すると仮定します。他の生物は何事もなかったかのように暮らし続けています。人のいない図書館には書籍が残っていますが、その書籍はもはや単なるインク付きの紙にすぎません。なぜなら、その書籍に書かれた観念(人間の考え、思想、、)は人類がいなくなったことにより、理解するものが存在しないからです。人が建設したインフラや、人がつくった物体は人がいなくなっても存在し続けますが、観念だけは別です。(観念は人の頭の中にのみ存在するからです。) これが、「観念」と「実体」の違いですが、実際には人は、相手と話すときに、観念と実体を常に明瞭に区別して思考しているわけではありません。

  

   例えば、「愛の磁石は愛する者同士を引き付けあい、憎しむ者たちを反発させる。」ということわざがあるとします。ここで気を付けなければいけないのは、「愛」「憎しみ」という観念が「磁石」という実体と同じ次元で語られていることです。このような例は実は我々の社会ではくらでも存在します。端的な例は、いわゆる「疑似科学」と呼ばれるものです。少し前に流行った「マイナス・イオン」。その他、「水素水」「血液クレンジング」といった類のものが「疑似科学」の範疇に入るものです。マイナスイオンというのは今では、科学的根拠に乏しいことが判明しています。その他、「水素水」や「血液クレンジング」にしても科学的根拠や物理的プロセスに人の「観念」を混ぜた根拠の薄い科学効果だと言われます。(「水素水」に関しては、水の成分において水素と酸素は常に一定なので、特定の水において水素が多くなることはありません。「血液クレンジング」は、採血した血を「浄化」し、体内へ戻すことで体力を回復させる、という代替療法です。)


        非物理的な「観念」と客観的に測定可能な「物体(実体)」。この2つを一緒にして説明するとどこかで一貫性が保てなくなります。逆に言えば、疑似科学でお金を儲けようとしている輩は、そこを狙って(つまり、一貫した説明を抽象観念という曖昧さのオブラートにくるんで)話し相手を説得させようとするわけです。ですので、結果を期待する有意義な会話をしようとするなら「観念は観念」で、「実体の話なら実体を手段として」説明をしなければならないのです。


       ちょっとわかりにくくなったかも知れませんので、ここで別の関連で説明しますが、前述したアリストテレス。 彼が「学問の祖」として、その後ヨーロッパ世界では科学が発展していきます。一方、歴史的にみて、このヨーロッパ世界に対峙してきたイスラム勢力地では、この科学的発展・実績はヨーロッパ世界に比較するとどうしても見劣りする印象があります。これはどうしてか。。と考えると、アリストテレスのような哲学者が、自然現象とか、天体の現象などの森羅万象を説明するのに、神や宗教のような概念(観念)の助けを借りるのではなく、あくまで事象を事象として実体として扱い、その事象の発生原因を物理的に思考し、その解明に成功したからなのです。つまりは、それが「観念は観念」で、「実体は実体」として説明をする、ということなのです。 このことを著者は次のように表現します。「『それは何か?』(観念か実体か?)を問い、良識をもって『観念はモノではない』と答えれば、科学的思考の道が開ける。アリストテレスがこのことを悟った時、科学は誕生した。」(P198)


  他者との会話を実り多いものにしたい場合、次のことも大切です。相手が話す「その意味は何か?」。論証する過程において、話し手の一番重要なキー・ワードを見つけ、「その意味は?」を問えるようになれば話し手の真意を探るチャンスが生まれます。 

  

  ある二人が政治のことを語っているとします。政治とは言葉の戦争。政治について話すとき人は、世の中において何が正しく、何が最善であるか? という理念を語っていることに他なりません。要するに「何が良いか?」。。では、この「良い」という意味は何でしょう。。? これに対し、アリストテレスは「物事には良いと言われただけ良さがある」。つまりは『良い』という意味にはほとんど何もない、と言っています。 例えば良い本、良いピザ、良い車。。と言った場合、その良いという解釈は人によって様々です。良い本、とは、面白い物語なのでしょうか。。? 難解なITの技術的な解説本? それともお金儲けにつながる投資の指南書?


  政治の世界では「良い」「優れた」「輝かしい」「強い」。。などもっともらしい、漠然とした言葉が使われます。話し手はこのような曖昧な言葉の裏に意図的な別の意味を隠したり、或いは、真意をオブラートに包み込むことにより、自分の真意の表明を避けながら、聴衆を別の方向に誘導することが可能になるのです。同様に、政治家は、聴衆にとって耳に心地よい言葉や道義的にとっもらしい感情的な言葉もよく使います。このような聴衆の感情に訴え誘導する話し方をアリストテレスは「極彩色の絵」と呼びました。


  では、最後のキー・ワードは何でしょう。。 最初の方で、思考法として「演繹」「帰納」「類推」が有効である、と説明しましたがこういった思考法にも弱点があります。例えば、話し手が「スマホをつくったのは、アリストテレスだ。」という虚偽の前提から論証を進めると、論理的には落ち度がなく、その論証の結果が上手くいってもそれは、結果的には虚偽の論証になってしまいます。つまり推論をより確実なものにしていく作業を行っていってもそれが常に「真理」に到達するか、というと残念ながらそうではないのです。


  このような「推論の原理」を補うものは何か。。それは「証拠」です。議論の方向性、議論の勝ち負けも最後の決め手は「何が証拠か?」。ここで大切なことは、まずそこで議論されている「それは何か?」に立ち返る必要があります。観念と実体の議論によって、求められる証拠の性質が全く異なるからです。物理的に存在しないものを測定したり、調査、説明することはできません。例えば「神」という概念がそうです。つまり、神学においては「神とは何か?」と問う場合、科学的観察を介さずに、純然たる観念の中で答えを見つけ出すことがこの証拠探しに当たるのです。これとは別に、求められている答えが物理的なものであるなら、実際に行う科学的・物理的実験や調査により見つけ出すことが可能なものが「証拠」となるはずです。「何を論じるにせよ、スタート地点は必要である。物質世界、神、ユニコーン、、何かを話し合いたいと思ったら、まずは決断しなければならない。どんなに不確かでも『それは何か』を決める必要がある。(P227)


  「演繹」「帰納」「類推」「それは何か?」「その意味は?」「何が証拠か?」。。以上6つの「知恵」について簡単に説明しましたが、著者のクレイグ・アダムスさんが主張している人の「知性」とは結局のところ「思考法」です。彼は本書の最後の方で次のように言います。「この複雑な世界で、どんな場面に対しても意味のある決断を下したいなら思考法を決める問いの立て方を学ばなければならない。思考法が『それは何か?』を決める。それにより証拠探しが始まり、その思考法により『証拠』『証明』『真実』が見出される。真に自律的で自由な思考を実現するのは、大局観的な観点であり、知性の主体性を守るために必要なのは何を知っているかではない。思考法にどれだけの幅と深さを持っているかだ。」


  スマホ、PC、AI、、どんなに人の使うツールが便利になっても、やはり人は独自で考えるという行為を放棄したらいけないのでしょう、、、本書のどこかに書いてありましたが、スマホをつくったスティーブ・ジョブズさんがソクラテスと半日過ごせるならすべてのテクノロジーをなげうってもかまわない、と話したそうです。今回のアリストテレスもしかり、アリストテレスの先生・プラトンもしかり、、、かれらの二千年後の世界を生きる現代人にとっても古代ギリシア哲学者の言葉には、なおよりよく生きるための知恵が隠されているのだと思います。。