国富論(上)


        最近では、NISA(少額投資非課税制度)などの導入により、個人投資を国が奨励する風潮にあり、けっこう若者でも投資話に興味を持つ人が多くなってきたようです。かくいう私も、時代の風潮もあり投資に興味を持った時期もありましたが、やはり、何に投資をするにしてもその投資対象がこれから先も収益を上げ続けていくのか?成長し続けるのか? が投資するポイントだと思います。そして、その根拠や背景はとなるのは、その投資対象の属する市場の環境や将来性、そして、経済的背景だと思います。換言すると「木と森の成長関係」と同じで、その投資先自体がいくら良くても、その市場や経済環境に将来性がないと、やはりその「個」の将来性にも自信が持てないのではないでしょうか。。。「投資」について考えていくと、どうしても世界や日本の経済の流れや仕組みの理解が必要になってくると思います。そういった意味でも経済学の勉強は必要だと感じます。


  投資の話を続けますが、その投資(原資を一定額ある期間投資先へ預ける)のリターンとしてみなさんが期待するのはやはり配当だったり、金銭だったりするわけです。仮にそれを「富」と呼ぶことにします。ではその「富」を国ベースで考えた時に、その国全体の富(国富)を増やすための基礎(原資と言ってもいいかもしれません)となるものは何だと思いますか、、(換言するれば、何が「国富」をふやす手段となるでしょう。。。)


  少し遅れましたが、本書のタイトルは「国富論」(有名な本ですよね。。)この本は端的に言うと、アダム・スミスが国をますための手段(国富をふやす手段)や、当時のヨーロッパやイギリス国内の経済について考察し、論じたものです。48歳(1771年)のアダム・スミスが、それまでグラスゴー大学教授として研究材料として扱っていた研究の蓄積を一冊の書籍にまとめたもので、近代における経済学の出発点である、とまで評されている一冊です。(彼にはまた「道徳感情論」というタイトルのもう一つの代表作もあります。「道徳感情論」は、社会心理学・道徳心理学の先駆とも言える内容の著作で、人間が「他者への想像力 (imagination)・共感 (sympathy)」を出発点として、「適切性 (propriety)」「是認(approbation)」「判断力 (judgement)」といった感覚を支える「道徳感情 (moral sentiments)」を形成していく仕組みや、それに影響を与え得る様々な要素について、総合的に考察されている。(Wikipediaより))


  本書は、最近の経済学の紹介本などにも常に紹介されています。たいていは、市場経済の需要と供給の自動調整機能を「神の見えざる手」と表現した箇所が判で押したように必ず言及されているのはご存じの通り。自分も経学入門書などの類で、その「神の見えざる手」という言葉がなんとなく頭の中にありましたが、やはりその古典の内容がどんなものか知りたく、読んでみました。(「神の見えざる手」という表現は、「国富論」の代名詞になっているよう有名な表現ですが、読めばわかりますが、実は下巻の中の一か所(本書下巻P31)だけで使われているだけで、正確には、「(見えざる手に導かれて、)個人個人が自らの利益を追求することが、結果的には社会全体の利益に貢献する。」という意味で使っています。ですので、市場の需要と供給の考察を期待すると少しはぐらかされた感じがするかもしれません。)


  さて、話が戻りますが、実は本書で「富」について彼の考えが述べられている箇所があります。「どの国でも、その国の国民が年間に行う労働こそが、生活の必需品として、生活を豊かにする利便品として、国民が年間に消費するもののすべてを生み出す源泉である。消費する必需品と利便品はみな、国内の労働による直接の生産物か、そうした生産物を使って外国から購入したものである。(序文)」 とか「商品の価値は、自分で使うか消費するためではなく、他の商品と交換するために保有している人にとって、その商品で支配・購入できる労働の量に等しい。したがって労働こそが、すべての商品の交換価値をはかる真の尺度である。」(P32)


  金・銀のような貴金属に関して話している部分もあります。本書の出版当時、スペインには南米で開発した鉱山から金や銀が大量に輸入されていましたが、アダム・スミスはのような貴金属資源は、国富だとは見なしていません。「貴金属の場合にも宝石の場合にも、きわめて豊かな鉱山が発見されても、それで世界の富が増えるわけではない。これらの鉱山の生産物の価値は主に稀少性よるものなので、豊かな鉱山によって生産が増えれば、価値がかならず低下する。」からだと言っています。彼が言うには、まずは、金や銀の開発においてもその開発が金銀の採掘量に見合うものではないと、その鉱山の開発ができないこと、大量に市場に入ってくれば、金や銀の相対的価値は目減りすることになるからだ、としています。

 

  このように彼は「富」の基礎を(貴金属の保有量ではなく)労働(や「土地」)に置いています。(ここが、「道徳感情論」などを書いた彼の道徳的なところでもあるかもしれませんが、)まず、この点が今回、「国富論」を読んで、私にとって一番新鮮な部分でした。要するに彼が言っているのは、(国を豊かにするのは金や銀や金銭ではなく)日々のみなさんの労働であり、その結果から生み出される生産物やその再生産された付加価値部分が新たな労働や土地、資本などに再投資されていく、、その循環が国を成長させるエンジンなのだ、と話ているのです。


  今の時代でも例えば南米の石油産出国では、石油の利権に公務員が群がりそれが汚職を生んだり、彼らの短絡的な利益誘導で、国内の市場経済の健全な発展が阻害されることもあるようです。石油利権で依存過多になり、国民が勤労を怠り、政治家・資本家が国の生産性をあげる努力を怠れば国全体の経済レベルが縮小します。このような国家レベルでの富への言及は、個人のレベルでも当然言えると思います。人は安易で楽な方法で富を増やしたい本能があると思いますが、やはりアダム・スミスさんの指摘する「『労働』こそが富の源泉である。」という意見は的を得ていると思います。


  富を楽して時間をかけずに獲得したい、というのは人の本能だと思いますが、そういった例では「宝くじ」もあてはまります。少額のお金で、大きなリターンが見込める「宝くじ」ですが、熱中し過ぎててしまうと、人生を台無しにしてしまうこともあるようです。宝くじを買ったら、たまたま運よく大金を手にすることができたとします。実はそういった宝くじに当たった幸運な人々の追跡調査があるそうですが、残念ながら、そういった人々がその後、お金持ちになったかというと、必ずしもそんなことはないのです。なぜなら、宝くじ当選の話を聞きつけた親戚・友人・近隣者がお金を無心に来たり、そのお金めあての投資家がおいしい儲け話を持ってきて、ついその話に乗ってしまったり、また、それまでの慎ましやかな倹約生活を忘れ、つい贅沢品を購入し、だんだんお金遣いが荒くなったり、、、などの理由から、宝くじの当選者が数年後、多きな損失を抱えたり、人間関係で問題を抱えてしまうケースがあるそうです。このようなことから、銀行では、宝くじの当選者に、当選金を渡す前に「当選金運用の心構え」を短時間レクチャーするそうです。やはり短期間・ハイリターンの富を望むより、日ごろの生活を疎かにせず、勤労に励んだ方が長い目で大きなリターンが得られるのでなないでしょうか。。。


  本書「国富論」(上)では、このように「労働の価値」から話がはじまり、「労働の生産性」やその生産性が向上する要素について、さらには「分業」「市場」「通貨」「商品の価格」「賃金」「資本」などの考察が書かれています。労働に関する考察の他、私的に興味深かったのは、当時の通貨制度に関してです。デジタル通貨などの使用が多くなり、日本でも新札が発行された現代だとちょっと考えにくいのですが、当時の人々は、通貨については「紙幣」よりも「硬貨」に価値を置いていた(信用していた)ようです。どうしてかというと、硬貨にはその価値を維持させるため、重量に関し一定相当量の金・銀が含まれていたからです。一方、紙幣は、当時の複製防止の技術が今よりもはるかに未熟であったこともあるためか、いくら権威ある銀行が発行した紙幣よりも、実際の市場の売買などにおいては、硬貨の利用が主流だったようです。尚、紙幣の使用については、その紙幣を発行した銀行に口座を持つ市民が、その銀行との取引するのにだけに利用していたようで、硬貨に比べ使い勝手がたいへん悪かった感じです。


  今では古典となっている本書ですが、実際読んでみると、いろいろな経済本の紹介記事に書かれている内容とはずいぶん違った印象を受けます。(自分で直接読んだ印象とは大いに異なるもので、やはり、古典は自分で直接目を通した方が良いことが実感できました。)読後の全体的印象としては、まず、アダム・スミスは経済学者でもあるが、道徳観がきわめて強い人で、職業、人種、国籍、性別に関し公平であろうとする一方、それに反対するものに対しては強い調子で反論していること。また(繰り返しですが、)富の源泉は人の労働にあるのであり、金や銀の採掘や貯蔵にはないことを喝破している点、(また以下は、次回に書きますが、自由貿易を強く肯定している一方、当時の重商主義を批判している点。最後に当時新興国であったアメリカ合衆国についてかなり詳細な考察を行っている点、)などです。


  それにしても17世紀に書かれた今回の「国富論」を読んで思いますが、このように学問においてその後、古典と呼ばれ、後世に残る作品が生み出された当時のイギリスの国力はたいへんなものであっただろうことが実感できました。また、アダム・スミス先生が「労働」の大切さを話すのは、例えば稲盛 和夫さんや丹羽 宇一郎さんが言う「人にとって労働は大切である。」という言葉を経済学の立場から解説しているようで、妙に私の心に訴えてくるものがありました。