日本共産党の研究【1】~【3】No.1

  第二次世界大戦が終わって、日本では、GHQの占領軍政策がはじまり戦後復興が始まりますが、当時GHQや日本の政治家が恐れていたのは、共産主義の流行でした。その共産主義に対する恐れというのは、1950年代のアメリカでもありました(いわゆる ”赤狩り”)し、アジアの資本主義国家の例えば、シンガポールでも同様でした。(初代シンガポール元首「リー・クアンユー回顧録」(上・下)より)


  では、どうしてアメリカを含めた当時の資本主義の国々は、共産主義の台頭を恐れたのでしょうか。。。当然のことながら、その時の与党政権が自ら掲げる主義・主張と異なる政党に政権を奪われることは、時の与党にとっては本意ではないでしょう。しかし主義・主張の違う政党が結局は時の国民の民意で選ばれる、ということが近代民主主義社会の前提である限り、それは避けがたいことですし、それが前提の社会であるわけです。(日本では、以前は社会党なんかも与党になっていた時期もあったと思います。) 例えばネットで、社会主義と共産主義を調べると次のようにでています。「いずれも生産物や生産資本を共有することで社会が平等になることを実現するもので、両方とも資本主義の対極にある点では同じであるが、『社会主義』は、経済活動を国が管理して、社会が平等になるようにしようとする思想であり、『共産主義』は、『社会主義』の発展・進化型で、全ての面で平等な理想の共同社会を目指す思想です。」(でも、これだけでは、どうして資本主義者が、共産主義者を毛嫌いするのかわかりません。。)


  例えば、アメリカ映画では(1922年、ソビエト連邦の建国後の)第二次世界大戦終了、そして、米ソの冷戦がはじまったあたりから、)「赤狩り」(国内の共産主義者を公職や社会機関の主要職から追放すること。)がテーマとなったり、その映画の物語の背景として登場します。しかもそこで描かれる共産主義に対する反感は、嫌悪感とか恐怖といったものに近いように感じます。最近では、原爆を発明した科学者を描いたクリストファー・ノーラン監督の「オッペンハイマー」なんかでも「赤狩り」のシーンが描かれていました。では、どうして資本主義のリーダーは、こんなにも共産主義を毛嫌いするのか(していたのか)。。これまでよくまからなかったのですが、今回紹介するこの「日本共産党の研究」を読んで当時の資本主義国家のリーダーたちが「共産主義」に対する抱いていた「恐れ」というのが良くわかりました。


  この3巻からなる書作は、戦前の日本での共産党の結党から解散に至る歴史を詳述していて、あくまで、どのイデオロギーの偏ることなく客観的に描いている点に特色があります。さらに第一巻の最初では、世界の共産主義の歴史をその始まりをから丁寧に解説していて、エンゲルス、マルクス、レーニンなどの登場から、社会主義・共産主義の違いなどを私のような世界史初心者にもその歴史的な流れが十分理解できる内容になっています。(通り一遍等の教科書的な内容にしていないところはさすが「知の巨人」立花隆さんだと感じました。おそらくは、マルクス、エンゲルス、レーニン、、、等社会主義者・共産主義者の著作全集や評論集を渉猟し研究し尽くしたのだと想像できます。)


  歴史的には共産主義の起源は、19世紀はじめに起こった世界的な社会主義運動です。この当時、共産主義という言葉はまだありません。当時の社会主義者の多くは穏健で「政治的自由」と「民主主義」の原則を大前提としていました。この社会主義運動の一派にマルクスとエンゲルスがいて彼らがマルクス社会主義(共産主義)を唱えます。しかし、その共産主義は、社会主義運動の中の一つの流れにすぎず、多数派を形成するには至りませんが、それでも一定の影響力を持ち始めます。ですので、当時の共産主義者たちはたいてい、民主的社会主義を標榜する「社会民主党」に属しながら共産主義運動の実現を模索していたのです。そのような状況下で、社会主義運動の大きなうねりはドイツで起こります。


  今では意外なのですが、レーニンをはじめとする共産主義者は、社会主義革命は(先にロシアで起こるのではなく、)最初にドイツで起こると考えていました。マルクス理論によれば「社会主義革命は資本主義が成熟した国で起こる」と考えられており、レーニンをはじめとする共産主義者たちも社会主義革命はまず、(当時の資本主義後進国ロシアではなく)ドイツで起こり、続いてイギリス、アメリカ、フランスなどで社会主義運動が過熱していくと考えていたのです。レーニンはこの考えの延長としてコミンテルン(国際共産党)を創設します。


  当時のドイツでは選挙において「社会民主党」が人々の支持を得て躍進しますが、結局(みなさんご存じの通り)ドイツでは革命は起こりませんでした。そのような状況の中で、ロシアでは中央集権的組織論を標榜しボルシェヴィキを率いるレーニンが力を伸ばしていきます。ドイツでの社会主義革命の失敗によりレーニン、トロッキー、そしてスターリンらはマルクス社会主義の考えを先鋭化し、また、ロシアでの革命の成功により共産主義者達も独自のグループを形成し権力闘争を開始。そういった中で彼らは穏健な社会主義者連中を排除。遂にはレーニンが党内闘争に勝利し、トロッキーを除名します。強力な中央集権・独裁体制化をおし進めます。このように歴史的な流れを振り返りながら社会主義と共産主義についてその相違を見た時に、共産主義というのは社会主義をより狭義に、かつ先鋭化したものであると言えます。


  ちなみに立花さんも日本共産党設立当時の「共産党の議会参加の原則」を本書に引用(P165)していますが、この表現が相当過激でびっくりするのですが、この内容を少しここに書きだします。(ちなみにこの内容は、決して日本共産主義者だけの思想ではありません。これは当時のコミンテルンの「議会制度に関する指導原則」によってたもので、当時の世界の共産主義者の共通認識でした。)


  「あらゆる階級闘争は政治闘争であり、結局権力の闘争である。プロレタリアート(労働者)はブルジョア議会(資本主義国家の議会)を転覆・破壊して新しいプロレタリア的国家機構(ソビエット)を作らなければならない。(中略)共産党は改良的法律を獲得するために議会に参加するのではなく、ブルジョア国家(資本主義国家)機関の中心たる議会を内部から破壊するために参加する。階級闘争の重点は議会にあるのではなく、その最高形態は内乱である。議会内における闘争(議会の討論)では階級闘争の根本問題を解決することができない。」


  つまり、社会主義(または、社会民主主義)というのは、その政権を獲得する手段は、民主的議会制を基盤とする選挙であり、あくまで議会を通じて社会制度を改良改革していくことを主張しているのですが、一方の共産主義では、政権奪取の手段は選挙や、その選挙によって選ばれる民意の代表による議会による討論(話し合い)では全くないのです。(ソ連崩壊後の現代の共産主義はわかりませんが)もともとの共産主義は、政権奪取について暴力やスパイ活動、意見の多様性の封じ込めなど、資本主義議会を転覆するためには、あらゆる手段を否定していないのです。つまり、その思想のもともとから、議会制や民主制とは全く相性が良くない・相容れない狭義で、過激な考え方なのです。


  うーん。。。こういった点を考えると、映画「オッペンハイマー」でも描かれたアメリカの指導者がどうしてあのように共産主義者を恐れたのか理解できますねぇ。。。では、どうして立花さんは、この「日本共産党の研究」のような、民主的でない思想家たちの結党から解党までを描いたのでしょうか。。実はここに立花さんの度量の大きさ、というか「知の巨人」たる思想の深さがあります。


  彼は本書のはじめで次のように語っていす。「私の基本的な社会観は、エコロジカルな社会観である。多様な人間存在、多様な価値観、多様な思想の共生とその多様な交流こそが、健全な社会の堰堤条件であると考えている。したがって、あらゆるイデオロギーとイデオロギー信者の存在に寛容である。しかし、その存在に寛容である、ということは、それに対して無批判である、ということは意味しない。思想とか価値観とかの間には、批判的交流があればあるほど豊かになると思うからである。」


  では、その多様な意見の中には暴力を肯定する考えさえも含まれるのでしょうか。。立花さんは本書第一巻の中盤(P231)でもう少し突っ込んで暴力思想に関する独自の考えを述べています。「暴力革命は違反行為を前提とする。当然これは取締まりの対象となる。いかなる政府といえども、暴力で体制をひっくり返そうとする集団の動きを黙認するわけにはいかない。問題は、そうした集団に対して、当局がどの時点から取締まるべきかにある。むろん、国家が法によって支配されている以上、違法行為があった時点からであり、それ以前ではあってはならない。法は思想を罰してはならず、行為を罰するのみ。いかなる法も、市民の政治的活動の自由(集会、結社の自由など)を含む基本的人権を侵してはならないという、法が従うべき法原理がある。」


  どのような正論や建前を言っても、しょせん人間は頭の中で感情的にもいろいろな揺れ動きがあるもの。個人のその頭の中でのさまざまな想い(良いもの、悪いもの、人には言えないようなことなどすべてひっくるめて)までは国家は取締まれないし、取締まるべきでもない、ということを語っているのだと思います。本書「日本共産党の研究」を発表当時、立花さんの元には日本共産党から様々なクレームが寄せられたようですが、それに屈しなかった立花さん。民主主義の社会において、(広範囲の取材、長期間の取材、費用、一般読者の受けなどが理由で)普通のジャーナリストが突っこもうと思っていてもなかなかつっこめない、しかし、一般の人々が知っておくべきこと。。そいうった主題にあえて向かっていく、、、それが日本の民主主義の質と範囲を担保するものである、、そういったジャーナリズムの良識が立花さんの取材行動の基盤になっているのだと感じました。また、本書を一読した時、上述した共産主義に関する疑問が、正に「腑に落ちる」とでも言うのでしょうか、「なるほど!」とう感じで理解できました。こういった「腑に落ちる」理解ができるのが読書の面白さだと強く感じました。