新平家物語(十三)~(十六)

       吉川版・平家物語もいよいよ佳境に入ります。この最後の4巻(13~16巻)では、屋島の戦い、そして源平合戦のクライマックス・壇ノ浦の戦いが描かれます。更には、その後の平家の滅亡、勝者源氏のリーダー・頼朝と義経の異母兄弟確執、 義経の陸奥国への逃亡から義経の最期が描かれ、ついにこの「盛者必衰の物語」が完結します。

  

  一の谷の戦いで敗北した平家。源平争いの舞台は四国・屋島に移ります。当時、瀬戸内海周辺は、平家が優れた海軍勢力を維持していた地域。平家はこの四国・屋島(現在の香川県)で勢力の立て直しを図ります。しかし、一の谷で平家を追い詰めた義経は、攻撃の手をゆるめません。少数軍で海を渡り四国へ上陸。150騎程度の軍勢を大軍に見せかけ、平家に対して奇襲を仕掛けます。一の谷の戦い直後、少数の軍勢しか揃わなくても、期を逃さずあえて平家を追いかけた義経には、勝機をつかむ勘所があったのだと思います。結局はこの義経の奇襲に動揺した平家軍は勢力をさらに失い、さらに西国へ退散。そして、ついには本州の西の果てにある彦島(山口県下ノ関)まで追い詰められます。この彦島のさらに西方は関門海峡を挟んだ現在の九州・福岡です。関門海峡の向かい側のこの地域は、当時、反平家勢力が支配する土地であり、つまりは、平家はこれ以上は逃れることはできない日本の最西端まで追い詰められたわけです。退路を塞がれ、運命を悟った平家はこの彦島近くの壇ノ浦で源氏軍を迎え、最終決戦をする覚悟をします。世にいう「壇ノ浦の戦い」です。


       時は、1185年4月25日。源氏側は840艘、対する平家は500艘で水軍を編成。水上の戦いとはいっても、正確には、海峡での戦いです。関門海流の流れは複雑で、午前と午後でもその潮の流れは、西流れ、東流れと激しく変わってきます。戦いが始まったのは、正午12時頃。序盤戦においては、地の利のあった平家水軍が潮の流れを読みながら徐々に源氏勢を圧倒していきます。直近の戦いで劣勢続きだった平家軍は、ここで一気に勢いを挽回し、源平争いの主導権奪還を目指します。対する源氏軍のリーダー・義経は、この壇ノ浦で源平合戦の決着をつけ、なんとしても平家軍に帯同している安徳天皇と三種の神器を後白河法皇へ返上し、源氏の覇権の確立を狙いたいところです。


  当時の天皇家の権力構造に少し言及しますが、本来、当時の正式な天皇は、この壇ノ浦の戦いにおいて平家軍に帯同している安徳天皇(当時8歳)です。安徳天皇は祖父が平清盛。母がその清盛の娘・徳子。そして父は、高倉天皇でした。安徳天皇は、生まれて3年たらずで、父から天皇の位を譲り受け即位を果たします。この権力移譲に関しては、当時、院政を敷いていた高倉天皇の父で老獪な後白河法皇の意向が強く影響していました。しかし、今や後白河法皇と平清盛(平家)との蜜月時代も終わり、協力関係の軸足を平家から源氏へシフトしたい法皇は、1183年、三種の神器(じんぎ)の無い状態で半ば強引に後鳥羽天皇を即位させます。ところで、三種の神器ですが、これは天皇家代々引き継がれてきた鏡、剣、そして曲玉(まがたま)の三つの宝物からなり、それらは天皇の位と一体のものとみなされていました。そのため、後鳥羽天皇の皇位移譲の正当性を主張するためにもこの三種の神器が必要だったのです。このような経緯もあり、法皇は壇ノ浦の戦いにおいて、平家から(安徳天皇とそれ以上に)三種の神器の奪還を切望したのです。


   平家水軍の思わぬ盛り返しと法皇からの命令で焦りがでたのか、義経はここで当時の戦いの禁じ手である、漕ぎ手に向かっての矢の集中射撃を行います。この矢の集中射撃に平家側は大混乱。平家の船の漕ぎ手は次々に命を落としていきます。そして、海峡の潮流も次第に変化し源氏に有利な流れに変わっていきます。午後の時間も押してくる頃、源氏軍はこの潮流の変化に乗じ、平家軍の船に乗り移り白兵戦を挑みます。次々に平家の船に乗り移る源氏兵士。それまで一気呵成の勢いだった平家水軍は、この白兵戦で人を失い、船も失っていきます。ここで戦いの趨勢が決したと悟った平家の武将は、平家の女性たちに自決の時が来たことを悟らせます。身だしなみを整え、心静かにその時を待っていた平家の女性たちもここで、最期の時が訪れたことを覚悟します。意を決した彼女たちは自ら、または集団で次々に自決・入水を果たしていきます。そして、この時わずか8歳であった安徳天皇も二位尼・時子(安徳天皇の母・徳子の母)から「波の底にも都の候ろう。」(波の下にも都はあります。)と諭され、二位尼と入水。三種の神器と供に海の底へと沈んでいったのです。。。このようにして、都落ちした平家はその後一度も源平の戦いにおいて形勢を挽回することはなく、歴史の舞台から消えていったのでした。。さて、天皇の政権移譲の担保となる三種の神器ですが、この壇ノ浦の戦いの後、懸命の捜索にもかかわらず、戻ってきたのは鏡と曲玉の2つだけでした。


   この壇ノ浦の戦いにおいて勝利をおさめ、平家を叩きのめした源氏の一番の功労者である義経も、異母兄弟である源頼朝とは馬が合わず、結局は兄頼朝から怒りを買ってしまい、若き日にお世話になった奥州藤原氏の本拠地である平泉へ仲間とともに庇護を求めることを決意し、その途中、難関・安宅の関所越えを行います(この様子は歌舞伎の勧進帳で有名)。しかし、この義経も、結局は藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の長男・泰衡(やすひら)の謀反に合い、自決することになります。自決の直前、死を悟った義経に「戦の道を選ぶのではなく、仏の道を選びなさい。」と自らのからの幼少期に母が語った言葉が心の中に蘇ってきます。そして、義経はこの時、武力争いのむなしさ、その母の真意と母の自分への深い愛情を悟ったのでした。この母の言葉とともに、義経は安らかに死を迎え入れることを決意をしたのでした。。(義経を裏切った泰衡も結局は頼朝に約束は反故にされ殺されることになります。)


  平家が滅び、異母兄弟の義経を亡きものとした頼朝ですが、その後の彼にも安楽な人生は訪れません。6歳の時に義仲の嫡男・義高と婚約させられた頼朝の長女・大姫ですが、その後の義仲の敗北に伴い義高が処刑されたこと精神的ショックを受け心を病み、その後病状は回復することなく20歳で早世。頼朝の生涯の心の傷として残ります。そして彼だけでなく、源氏一族にもやがて衰退が訪れることを予感させて吉川さんは頼朝の描写を終わります。


   この吉川版・平家物語を読み続けて思ったのですが、平清盛、そして彼をはじめとする平家一門の長達、さらにはその平家に挑む源氏の頼朝、義仲、義経、、、彼らはことごとく野心を持ち、武士の本懐を目指し、その思いを遂げていきます。そして、その誰もが一時期は権力の頂点へ就くことができるのですが、その権勢は長続きすることはありませんでした。いくら運や武力に長けていても、たとえそれにより権力奪取は可能かもしれませんが、それをずっと維持するためには、それ以上の何かがないとできないのかもしれません。そして、この「平家物語」が昔から今の世にまで日本人に語り継がれるのは、いつの時代、どこの国でも繰り返される権力欲の戦いとその無常、そして、その戦いに右往左往する人の人生の哀れを如実に語っているからなのかもしれません。読めば読むほど味わい深い普遍的な古典だと思いました。(ホメロスの「イリアス」や「オデュセイア」と並ぶ壮大な一大叙事詩だと感じましたが、ちょっと大げさでしょうか。。)次回は、原本へも挑戦したいと思います。