死刑弁護人
本書では、発生当時マスコミで大きく報道されたいくつかの殺人事件を扱っています。戦争のない現代日本の日常生活における「殺人事件」、、それは、ごく普通の人々が、好むと好まざるとにかかわらず被害者(あるいは加害者になってしまう)不条理な世界です。この「死刑弁護人」では、加害者になった人々、被害者になった人々の立場が描かれますが、どちらの立場になっても殺人事件はその後の人生に大きな影響を与えます。。。私自身、世間を騒がせた殺人事件の犯人を弁護する人ってどんな人なんだろうか。。と、つい興味をもってページをめくってしまいましたが、これからこの本を読んでみたいと思っている人の中でも、読後、この著者の「死刑求刑被告人」弁護士としての生き方、弁護士感、主張、また、国の裁判制度、死刑制度の功と罪、国選弁護人制度、死刑囚の人権、そして何より日常において加害者と被害者を生む「殺人事件」という不条理について思いを巡らす人が多いと思います。
「人間」という存在について関心がある自分のような読者にとってはとても興味深く読める部分もありますが、とにかく「感動」という一言でとても語れない、何か割り切れない複雑な思い。。。換言すると、人生の不合理、複雑さ、割り切れなさ、厳しさ、非情(無情)さ、そして、法治国家における刑量の斟酌、事件に巻き込まれた人たちの救いのない過酷な現実、、、そういった重いものがずっと心に残ります。また、正直なところ死刑を求刑された被告人の立場に立って常に弁護をし続ける著者の思いや態度に共感できる部分と、確かにそうだけどそこまではついていけないという部分、そして、いやそれは違うんじゃないか、、というその三つが自分の中でいまだに相反・葛藤していてます。しかし、「殺人事件」という普段我々が遭遇するとは想定しにくい人生の落とし穴や袋小路のような不条理・不合理、、これもまた(我々の好むと好まざるとにかかわらず)人生の一面なのだと思いました。
この本の著者は弁護士・安田 好弘さん。安田さんは「一橋大学法学部卒業。大学時代には全学共闘会議運動の活動家として活動し、弱者保護を主張。弁護士となったのちは、月に1度しか家に帰らず、事務所で寝泊まりしながら仕事をする。死刑が求刑された事件の刑事弁護を数多く担当し、死刑判決を幾つか回避させてきた経歴を持つ。死刑廃止論者」です。(Wikipediaより) この説明の通り、安田弁護士は、死刑判決を受けた依頼人、つまり殺人事件など国が起訴した事件の被疑者側に常に寄り添い、検察側の供述に不審な点があると、それに対し納得がいくまで反論し戦い抜く姿勢を持ち、常に被告側に寄り添う姿勢を持った、ある面本来あるべき裁判制度が機能するために必要な弁護士としての資質を持っている人です。
裁判制度というのはある事件が起こった際、告訴側と被告人と被告人が選任した弁護士側が、双方の立場を主張しあい、双方から出し尽くされた言い分・主張を裁判官が十分に斟酌しその事件について適切な量刑を決めていく制度だと思います。そしてその制度が適切に機能することで、国民が安心して暮らしていける国家の治安が維持されるものだと思います。しかし実際は、特に世論を騒がせた殺人事件、横領事件などの場合、マスコミの断片的な情報で感情的になった世論の圧力に押され、国や検察側も短期間で当該事件の処理(つまり、犯人を短期間で特定し、その被告を適切な量刑を言い渡す、)をしなければならないという圧力のもと、事実とは(多少?)ことなる供述書をつくり(時にはでっちあげも行い)その結果、灰色な被疑者をときには黒(つまり犯人)にして事件を処理しようとする(それが行き過ぎるといわゆる「冤罪事件」となってしまう)。そのため、被疑者側にも当然のことながら優れた弁護人が必要となるわけです。(しかし、あたりまえですが、弁護士も人間。感情的になった世論が騒がしい事件の被疑者の弁護人になりたくないのが人情です。そういった意味では、安田さんのような反骨精神をもった弁護人が私選弁護人や国選弁護人として殺人事件の被告側弁護人になるのは、至極まっとうな感じがします。
彼がこれまでに弁護を引き受けた事件にはマスコミを騒がせた「光市母子殺害事件」(*1)「オウムサリン事件」(*2) 「新宿西口バス放火事件」(*3) 「山梨幼児誘拐殺人事件」(*4) 「名古屋女子大生誘拐殺人事件」(*5) などがあります。これらの裁判において安田さんは、一貫し被告側の弁護人として被告の利益のために戦っています。「私の中でいつも『引き受けなければいけない』という思いと『できれば違う人に引き受けて欲しい』という思いとが激しく交錯する。 こうした事件の弁護を引き受けるのは、その人の命をあずかることであって、相当の覚悟がいる、全力を尽くせばそれで良いというような生半可では済まされない。加害者も被害者も全部ひっくるめて、その苦しみや悲しみにまともに向かい合わなければならない。」(P148) と話す安田さん。でも、この本を読んでいてまず思ったのは、どうして安田さんはいつも被告側の立場に立って弁護を行うのか。。ということです。世間を騒がせた殺人事件の被告です。世論は被告に対し厳しい判断をしており、当然安田さんに対しても厳しく批判的に見るのは当然。さらに、安田さんが担当した裁判の中には、安田さんが担当を任された時点で、被疑者が検察側の供述調書ですでに(強制された)「自白」をしてしまった後の裁判もあります。((検察側から強制されたにしても)いったんなされた自白を覆すことは容易でないことは、ご存じの通りです。)同じ裁判でも「殺人事件」ではなく(自分の弁護士としての名声を傷つけずにすむような)被疑者が社会的名声があったり裕福な裁判の弁護人をする、という選択肢もあったはずです。
本書を読んで思うのは、まず彼は根っからの反権力主義者であるということです。学生時代から彼は、プロレタリアート独裁(を目指す共産)主義者でした。おそらくは国家という体制維持機能に不信を感じ、時には国家を体制維持のため個人を抹殺することもいとわない暴力装置として考え、その「国家」に対し反骨精神を抱いている人なのだと思います。実際彼は、学生時代から社会的に弱い立場にある(山谷の)日雇い労働者のために進んで戦いますが、その姿勢が先鋭化し弁護士という職業を選択するに至ります。ですから彼が弁護士になったのもお金儲けや世間体のためでなく、国の権力に ”いじめられる” 弱い立場の人のために戦う、という点に意義を感じ弁護士を職業として選んだのだと思います。この作品を読むと安田さんの中には、国家権力への不信感というのが常にあるのがよくわかるのですが、そいうった彼の資質・能力を発揮できる場所が、「殺人事件の被告弁護」ということなのだと思います。
その安田さんが本書で一貫して主張していることは、殺人事件の被告は、初めから(確信犯的に)殺人を起こそうと思ったのではなくその人の不遇な境遇から次第に追い詰められ、そこから、運命の歯車が狂いだして結果として殺人が起きてしまう。そして、加害者さえもそいった運命の差配の被害者(犠牲者)なのだ、ということです。安田さんは次のように主張を続けます。「新宿駅西口バス放火事件も、山梨幼児誘拐殺人事件もそうだが、(加害者が)最初から確信的に事件を起こすというケースは、実はそれほど多くない。(普段からの鬱積したものがたまった状態で)何かが引き金になって、つい自暴自棄になり犯罪を犯してしまう。。それは、まるで天中殺のように(事件へ向かう)要素がぴたっと当てはまって、一気に事件へと流れ込んでしまう。そして被害者になる人も、偶然に偶然が重なって被害者になってしまう。」(P139)
「犯人さえも被害者です。」という安田さん。。しかし、この本を読むとある意味納得できます。まず事件の加害者が多くの場合不遇な境遇を背負っていることがあります。例えば、「光市母子殺人事件」(P20) の加害者の「少年」。この少年は幼い時から父親の暴力や母親の自殺があり、そういった環境の中で精神的に健全に成長できずそのまま社会に出たため、事件をおこしてしまった、、また 「名古屋女子大生誘拐殺人事件」の加害者Sさん、彼は被差別部落出身であることが、その後の彼の人生の節目節目に劣等意識となって影響した。(P143) さらに「新宿駅西口バス放火事件」の加害者Mさん(P91)。 彼は、1940年代の日本の敗戦により父親が軍需工場の職を失い、実母は台風で倒壊した家の下敷きになりMさんが幼い時に死亡。父の再婚とその継母との離別。その後も、酒を飲んで暴れる父親に反抗した長男・次男との離別。。そいうった境遇でMさんは中学卒業後から建設現場の作業員暮らし。結婚して家庭を持ち子供も誕生しますが、妻が精神病院へ入院。その後、生まれた子供は福祉施設へ預けられMさんは施設所へ仕送りを続けることになります。
このように本書で語られる殺人事件の加害者の多くは、不遇な出自・生い立ちであり、その後も十分な教育も受けられなかった社会手的に立場の弱い人々です。こういった人々は、幼少時から親子、兄弟の人間関係においていろいろ問題を抱え、その結果精神的に問題を抱えざるを得ない立場に追い込まれてきたのだと思います。大人になって社会にでてからも十分な人間関係を築けず、教育的にも十分な知識を獲得できなかった、、つまり、幼少から人間として成長するために必要な精神的滋養(愛情、友情、信頼関係、、)や知識や教養・教育がないまま大人になり、そのため、社会に出たときに必要な社交性も欠如し、人間関係をはぐくむ能力を十分にもてなかった、ゆえに自分の世界に閉じこめられた(あるいは自らを自分の世界に閉じ込めている)人々なのだと思います。
このような社会的立場の弱い人が運命のちょっとした偶然の重なりの結果、殺人事件の加害者になってしまった。そして国家・法律という治安維持装置が体制維持(世論維持)のためにその犯人(=弱者)を抹殺しようとしている、と安田さんの目には映ってしまうのだと思います。(また、本書には書かれてませんが、おそらくは、このような被告たちの不遇や国家権力への不信を何らかの形で安田さんも若いころ経験したのかもしれません。だからこそ彼ら被告の心情が(一般世間から見ると理解できないレベルで)痛いほどわかってしまい、結果として、彼らの弁護を引き受けてしまうのではないかと考えます。このような意味では、確かに安田さんの言うように「このような事件では、その構成過程において大きな視点で見れば加害者もまた被害者なのだ」というのもわかるような気がします。「山梨幼児誘拐殺人事件」の場合、安田さんをはじめとする被告の弁護側は、加害者であるKさんが犯行に至るまでの一連の経緯を「不幸な偶然の連鎖」と表現しました。事態が悪い方向に悪い方向にと流れ、事件へとつながっていく、、少なくとも検察が言っていること、そして第一審の判決が言っていることは、明らかに間違いである。彼らはTちゃんを殺害したKさんを「鬼畜にも劣る」として声高に断罪し、死刑を求刑し、死刑の判決を出した。しかし、人間も犯罪もそれほど単純ではない。」(P129)
また、この安田さんの本を読んで感じたことは、毎日、会社と自宅を往復して忙しくしているような我々一般人にだっても、このような「不条理」的出来事はいつふりかかってくるかわからない、、ということです。例えばこの本でも扱っている「地下鉄サリン事件」のように会社と家との往復に使う電車の中で、そいった事件に巻き込まれるケースも十分にあります。(本書とは関係ありませんが、電車と言えば「痴漢被害」にしてもいったん、犯人と決められたらその判決を覆すのは容易でないといます。。これも一種の不条理ですよね。。)
では、このような殺人事件を扱ったこの本から何か学べることってあるのでしょうか。。個人的には、おそらく「どうしたらこのような事件の加害者や被害者になることを避けれらるのか、、?」を考えることだと思います。そして、更に思うのはまずは加害者にならないこと。加害者がいなければ、被害者もいません、ゆえに事件も発生しませんよね。では、どうしたら加害者になることを避けることができるのか? 「こうだ」、と言い切れる言葉はありませんが、まず、わかるのはこの本の事件の加害者の多くは、(前述しましたが)その出自が不遇である、ということです、つまり、生まれてから両親(兄弟)の愛をうけられず、ちゃんとした教育もうけられず、、(被差別部落出身である人はそれが大きな劣等感となって)そのため、他人とのコミュニケーションがうまくできす、己の粗野な感情や精神を向上させる方法を見出せない(見出さない)ということです。
その中でも特に感じたのが、新宿バス放火事件の被告人・Mさんです。この裁判の過程で安田さんの好意や被害者の女性から受けた手紙に「もったいない、もったいない(とてもありがたい)」と謝意を示すほど人の情に感激する面もあるのですが、その一方安田さんやその被害者の女性がMさんを励ますためのちょっとした提案には「それは自分はできません。」と自分の可能性や能力を信じられず自分の心を閉ざしてしまいます。。(そして、裁判後、収監された刑務所で自ら命を絶ってしまいます。。)
彼は、事件をおこす以前からわが子が福祉施設に預けれれていたことに不満があった一方、「飯場」から「飯場」へ仕事場が変わるたびにその福祉関係の人間が自分を訪ねてくることに怯え、それらしい背広姿の人を見かけてはその工事現場を去り、「飯場」を転々としていたのです。そして事件当日、それまでの路上生活、猛暑、朝から痛飲していたアルコールで疲れと疲労が蓄積していた彼は、自分のわずかな全財産を預けてあったコインロッカーが開いていて、荷物がなくなっていることに愕然とします。「ここまで福祉は私をおちょくるのか!!」とカっとなったのす。(文字の読めなかったMさんは、コインロッカーの荷物は2日すると別の所に保管される注意規程がわからなかったため、勝手に福祉関係者が自分の後を追跡して荷物を持ち去った、と勘違いしてしまったのです。) 己の不幸な境遇にこれまで耐えてきたMさんですが、この勘違いから、一瞬で自暴自棄に陥り、結果としてバスの放火を起こしてしまったのです。(しかし、彼も自分が用意したガソリンの引火がこれほどの大惨事を引き起こすことは想定外で、燃え広がるバスを見て自分の引き起こした惨事におののいたのです。)
このMさん、この事件の当日、文字がちゃんと読めて、普段から周りの人々との人間関係を築き、気分転換する方法(例えば、話し合える友人を持つとか、精神的な救いを得る手段(宗教)を持つとか、美術や音楽など「真・善・美」の魂を向上させる芸術に日ごろから触れる、読書をして昔の賢人の言葉に触れるなど、、)を持っていれば、事件当日に加害者にならずに済んでいたのかもしれません。(このMさんのことで、思い出すのは、先のブログで紹介した「忘れられた日本人」でも触れた「文字を理解できる人」と「文字を理解できない人」のことです。文字を読めない人というのは、本などを読んで自分の世界を広めることができず、結果として(自分だけの)感情・思い(違い)の世界の中に閉じこもり、自分の可能性を信じられない人になってしまうのかもしれません。。) やはり普段から社交性や人間関係を培い、いろいろな意味で自己研鑽し、他者に対する寛容性を学び続ける。。そのような普段からの向上精神が大切だと実感しました。
光市母子殺害事件 (*1):1999年4月14日、山口県光市で起きた事件で、加害者が母親と当時11カ月の娘を殺害した事件。社会的に大きな影響を与え、その後の少年法の見直しのきっかけとなった。
オウムサリン事件 (*2) :1995年3月20日にオウム真理教によって引き起こされた東京の地下鉄でのテロ事件で、14人が死亡し、約6,300人が負傷した。
新宿西口バス放火事件 (*3):1980年8月19日、午後九時過ぎ、東京・新宿駅西口広場のバスターミナルに停車中の一台のバスに、火のついた新聞紙とガソリンが投げ込まれ、車内が一瞬にして炎に包まれ、六人が死亡。十四人が全身やけどなどの重傷を負う惨事となった。
山梨幼児誘拐殺人事件 (*4):1980年8月2日、山梨で起きた幼児誘拐殺人事件。
名古屋女子大生誘拐殺人事件 (*5):1980年12月2日に愛知県名古屋市で発生した身代金目的の誘拐殺人事件。
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