アインシュタイン その生涯と宇宙(上・下)

  「相対性理論」を発表したアルベルト・アインシュタインは今でも有名ですが、意外とその人生は知られていないようです。(実はアインシュタインは1922年に日本を訪れていて、慶應義塾大学の三田大講堂他、各地で「相対性理論」に関する講演会を行なっています。)この人の自伝はいくつか出版されているのですが、その中にベストセラーになった S・ジョブス氏の自伝「スティーブ・ジョブズ」(上・下巻)の著者ウォルター・アイザックソン氏のものがあります。これが今回ご紹介する 「アインシュタイン その生涯と宇宙」(上・下)です。

  アインシュタインは、1879年、ドイツのウルムのユダヤ人の両親のもとに生まれました。(この事実は、後年、彼の考え方や行動に大きな影響を与えることになります。彼の父方、母方の子孫は、ドイツ南西部シュヴァーベンで二世紀にわたって職人と行商で質素な暮らしと続けてきたユダヤ人で彼らは世代を重ねるごとにドイツ文化に同化し、それを大切にしてきましたが、当時のドイツも顕在化していないとはいえ、やはりユダヤ人に対する偏見というのはあっったのです。その帰属社会における自らの「異邦人」的な距離感が後年、彼の内にある「ユダヤ人としての遺産」を強く意識させ、彼が世界史の中で果たしてきた役割(科学への貢献、反権力主義、国際主義、ヨーロッパ連邦主義の推進者、平和主義運動)にとって大きな意味をもつことになります。

  彼は、4、5歳の頃、ある経験をします。 彼が病気で寝ていたある日のこと、父親がコンパス(方位磁石)を持って来てくれます。アインシュタインはその不思議なパワーにたいそう興奮して身震いし身体が冷たくなったのです。「磁石の針が、手でさわったり何かと接触したりという我々が良く知っている力学的な方法ではなく、あたかも何か隠れた力の場に影響されているかのように振る舞うという事実に彼は驚嘆した」のです。「見えない場へコンパスの針が忠実に従うことに魅了されてから後、アインシュタインは、自然を記述する一つの方法としての『場の理論』に一生を捧げる活動を展開した。」(上P33) アインシュタインはその生涯の間ずっと「場の理論」にとらわれることになります。彼はその概念を共著者と書いた教科書の中で次のように述べています。「物理学に新しい概念が生まれた。ニュートン以来の最も重要な発見である。それは『場の概念』である。物理現象を記述するのに『最も本質的なものは電荷や粒子ではなく電荷と粒子の間の空間にある場である』ということを認識するには、非常な物理学的想像力を必要とする。『場の概念』を用いると、電磁気学の構造を記述するマクスウェル(注1)の方程式は非常にうまく定式化できる。」(上P154)

  アインシュタインが15歳の時に母が一生の財産となる宝物をプレゼントします。それはヴァイオリンのレッスンでした。 はじめは機械的な練習法にイライラしていたアインシュタインですが、モーツァルトのソナタに触れてからは、音楽が彼にとって魅惑的で心動かされる存在となりました。「モーツァルトの音楽はとても純粋で美しいので、私にはそれが宇宙の内なる美そのものを映し出しているように思える」と、後に友人に話しています。また、別のコメントで、「もちろん、全ての大いなる美と同様、モーツァルトの音楽は全く純粋である」と付け加えています。彼にとって音楽は単なる気晴らしではなく、彼の思索を助けるものであったのです。彼が一人でベルリンに住んで一般相対性理論と取り組んでいる数年間、「彼は、よく夜遅くに台所でヴァイオリンを弾いたものだ。複雑な問題をあれこれ考えながらメロディを即興で弾いてね。それから演奏中に突然、興奮して『わかった』と告げるんだ。まるでインスピレーションによるかのように、曲の途中で問題の答えがひらめいたのだろう」と彼の友人の一人は思い出を語っています。

  1896年、彼はチューリッヒ連邦工科大学の入学資格を得ます。1900年、物理学士の称号を得て、同校を卒業。1902年にベルンの特許局で3級技官として臨時の仕事を始めます。この特許局で過ごした7年間は、アルベルト・アインシュタインにとって、人生で最も輝ける創意に富んだ時期となりました。特許局では特許申請書関連の仕事を素早く片付けて、日中、こっそりと科学研究に時間を使います。「一日がかりの仕事を二、三時間で終わらせてしまい、残りの時間は科学に関する自分のアイデアを練っていた」とその頃を語っています。(上 P133)彼の机の上にはいつも紙が散らかっていて、人が尋ねて来るたびそれらを引き出しにしまいこんでいるのを上司のフリードリッヒ・ハラーは温かく見逃していました。「『誰かが来るたび、僕はノートを机の引き出しに詰め込み、仕事をしているふりをしていた。』とアインシュタインは語っている。」(上 P133)

      そして、1905年は科学分野にとって「奇跡の年」と呼ばれる、人類科学の歴史にとってブレークスルーの年になりました。同年3月、「光の発生と伝達に関する発見法的観点について」(光電効果の理論)、5月には「熱の分子論から要求される製紙液体中の懸濁粒子の運動について」(ブラウン運動の理論)を書き上げます。そして、6月には物理学年報に「運動物体の電気力学について」(特殊相対性理論)という有名な論文が受理されるのです。(上 P199)  この年に、アインシュタインが友人に宛てた手紙の中で次のように自分の論文を説明しています。「論文を送ってくれたらお返しに僕の論文を四つ送るよ。最初の論文は放射と光のエネルギー特性を扱うもので、非常に革命的なんだ。君の論文をまず送ってくれたらわかるよ。二つ目の論文は原子の実際のサイズの決定に関するものだ。・・・第三の論文は大きさが1000分の1ミリメートル程度の物体が液体中に浮かんでいるとき、熱運動の結果として、観測できる程度の乱雑な運動をしなければならないことを証明したのだ。浮かんだ物体のそんな運動は実際、生理学者によって観測されていて、ブラウン運動という。四つ目の論文は今はまだ下書きに過ぎないが、時間と空間の理論に変更を迫る運動する物体の電気力学なんだ。」(上 P156) 

  1905年の重要な論文の功績により、アインシュタインがノーベル物理学賞を受賞することは明らかに思われていました。問題は、いつ、そして何に対して受賞するか?ということでした。実際、相対性理論によって1910年から幾度となくノーベル賞の推薦を受けていたのですが、スウェーデンアカデミーは賞は「最も重要な発見あるいは発明」に与えられるというアルフレッド・ノーベルの意思を大切にしていて、彼らはには「相対性理論はそのどちらでもない、」と感じられていたのです。「最大の障害は、当時の選考委員会が理論家に懐疑的だったことが挙げられる。1910-1922年の間、五人の選考委員会のうち三人はスウェーデンのウプラサ大学の実験室で完璧な実験と測定に没頭していることで知られていた。」(下 P77) この状況は同大学の理論物理学者カール・ウィルヘルム・オーセンが1922年に委員会に参加したことで好転します。彼は相対性理論が論争の的であり、(アインシュタインにノーベル賞を取らせるには)違った方法を取った方が賢明であることを悟ります。彼は「光電子効果の法則の発見」に対してアインシュタインにノーベル賞を贈るように推し進めたのです。「1905年の関連論文の主要なものであったにもかかわらず、推薦対象は光量子のアインシュタインの理論ではなかった。何かの『理論』に対してではなく『法則の発見』に対してであった。」(下 P81)

  そして、アインシュタインは1922年11月、日本へ向かう船の中でこの受賞の知らせを受けたといいます。紹介のはじめで、日本を訪れたことはお話ししましたが、彼は、日本の人々が優しく控え目であり、美と思想に対して深い理解を持っていることに、強く打たれました。そして、日本の印象を二人の息子に次のように書きました。「私が会ったすべての人々の中で、私は日本人が一番好きです。彼らは控え目で、知的で、思いやりがあり、芸術に対する感性を持っています。」(下P72)

  ノーベル賞受賞後、彼は一般相対性理論の重力場の方程式を電磁場も含むように一般化しようとします。「統一を目指す心は、その性質上、全く違った二つの場が存在することに満足できない。」とアインシュタインはノーベル章受章講演で説明します。「重力場と電磁場が同じ一つの違った成分あるいは違った現れ方であるような数学的な統一場の理論を探す。」 この「統一場理論」の探求にアインシュタインは晩年に至るまで、情熱を注ぎ、研究を続けます。しかし、結果は思うように進みませんでした。(もちろん、この時までに科学史の革命的理論である「相対性理論の発表者」、「ノーベル賞受賞者」という「肩書き」やアメリカへ移住してからは、彼の研究や、研究以外の市民・平和運動にも参加していてその動向をニューヨーク・タイムズ等一流のマスコミが終始報道するため、世界的に有名人になっていたため生活には全く問題はなかったのですが。。)「『統一場理論』の探求は、物理学の枠組みに加わるわかりやすい結果を生み出さない定めにあった。大発見に達することができず、自分の目標が見えやすくなるような、根底にある原理に関する見通しも得られなかった。『どんな構図も助けになってくれないね』と、共同研究者ホフマンに嘆いていた。『徹底して数学的で、この何年か、助手と一緒にでも一人でも、次々と困難を森越えたが、結局、次の困難が待ち受けているだけだった。。』」(下 P363)

  そして、1955年4月18日動脈瘤の破裂によりアインシュタインは亡くなります。ベットの横には、ところどころに線を引いて直しを入れた文書を置き、最後の最後までなかなかつかめない「統一場理論」を見つけようと苦闘していたのでした。

  アインシュタインの死後、彼に関する興味深いエピソードがあります。アインシュタインは、自分の遺体を火葬し、遺灰を散布するように強く求めていたのですが、どういうわけか彼の脳だけは火葬されなかったのです。「アインシュタインが亡くなって数時間後、しかるべく手順としてプリンストン病院の病理学者トマス・ハーヴィーによって検視が行われたのですが、このハーヴィーがアインシュタインの主な臓器を取り出し、調べ最後に電動のこを使って頭蓋骨を切り、脳を取出し、許可も取らないまま、防腐処理を施して取っておいた。」(下 P407) このことを知った長男のハンス・アルバートは病院に抗議の電話をしましたが、ハーヴィーはこの脳を調べることには科学的な価値があるかもしれないと言い張り、アインシュタインならそれを望んだだろうとも言いました。ハンスは自分がこの件についてどんな法的、慣習的権利があるのか確信が持てず、しぶしぶ認めました。ハーヴィーはその脳の切片を求めに応じて知人に配布し、晩年、彼はその残りをアインシュタインの孫娘に返却したのです。(注2)その脳を入手した人々のうち、意味ある学術研究を発表したチームもあります。最もよく引用されるのは、1999年のオンタリオ州マクスター大学のチームのもので、それによると、「アインシュタインの脳の下頭頂小葉という領域に、ずっと短い溝があった。この部分は数学や空間的な思考にとって枢要と考えられるところで、アインシュタインの脳は、この領域が15パーセントほど広かった。この論文はこうした特徴が、この領域に豊かでまとまった脳の回路を生んだのかもしれないと推測している。」(下 P410)

       「しかし、アインシュタインの想像力と直感を本当に理解しようとするなら、適切な問いは、アインシュタインの『脳』ではなく『心』がどう機能したかということだ。アインシュタイン自身が自分の精神面での才能について与えた説明はたいてい『好奇心』だった。『私には特別な才能はありません。ただ情熱的に好奇心が旺盛です。』もっと重要なのはアインシュタイン本人の言うところでは『普通の大人なら決して頭を悩ませないような』概念について疑問に思わせた、子供のように驚く感覚に発していたのだ。好奇心が存在するのはそれが疑問を抱く心を生み出すからであり、それこそが宇宙を正しく見る力を生むのであり、アインシュタインはそれを宗教的な感情と同じとした。そして『永遠の謎、生命の謎、驚くべき現実の構造の謎についてよくよく考えると、畏敬の念を抱かざるを得ない。』アインシュタインはこの畏敬の念、この宇宙教を真の芸術と科学が生まれる泉と考えていた。それが自分を導いてくれるのだ。『私が理論を判定するとき、自分が神だったら正解をそういうふうに配置するだろうかと考えます。』と言った。アインシュタインは人類と密接につながった孤高の人だった。畏敬の念をもって反抗する人だった。そうして想像力のある、生意気な特許局の役人が、宇宙の造物主の心を読むようになり、原子と宇宙の謎の秘密を開く鍵師になったのだった。」(下 P415)

  ( 著者、ウォルター・アイザックソン氏に関しては偶然ですが最近、新書「レオナルド・ダ・ヴィンチ」(上・下巻)が文藝春秋より発売されました。興味ある方は是非!)

(注1)マクスウェルは電磁場理論を発展させた。(注2)残念ながらハーヴィーの脳の保管方法ではDNAを抽出できないことがわかっています。