ヒトラー 1936-1945天罰(下)PART1

         ドイツ国内の体制の全権力をほぼ完全に支配したヒトラーは、1936年3月14日のミュンヘンの大集会において「あたかも夢遊病者が何かに導かれて進むかのように、私は天意が進めと命ずる道を悠然と歩む。」と語ります。その自信を支えていたのは、大衆からの賛美でした。

  「大部分の人々がヒトラーを崇拝した。彼の反対者までがそれを認めた。『たいした男だ、ヒトラーは。奴には思い切って事を成す勇気がある』という見解を、当時地下に潜った(つまり、反対運動をしている)社会民主党の反対派は書き残している。『ヴェルサイユ(条約)の精神は、あらゆるドイツ人に憎まれている。ヒトラーはいまやこの忌まわしい条約を引き裂き、フランスの足元へ投げ捨てた』というのが、それまで決して熱狂することのなかった人々の間でも、ヒトラーへの支持が急上昇した理由だった。(19)36年に圧倒的多数のドイツ人は、ヒトラーがほとんど独力で国を立て直したという国民的誇りに酔いしれた。」(P31)「たしかにヒトラーによる国民的再生は、厳格な権威主義、市民権の喪失、左翼の残虐な弾圧、ユダヤ人をはじめ『民族共同体』の一員として不適格とされた人々に対する激しさを増す差別をもたらした。しかし、大多数のドイツ国民は、そうした暗い側面を支払う価値のある代償だと考えた。それどころか、それを大いに歓迎した者も多かったのだ。。。この段階では、行く手に何が待ち受けているかを想像する洞察力を持ち合わせた人は、ほとんどいなかった。つまり、1936年春にドイツが獲得した新たな国際的地位は、際限のない領土拡張、計り知れぬ規模の殺戮をもたらす世界戦争、比類のないジェノサイド、そして最終的には第三帝国そのものが崩壊する前兆だった。」(P32)  

    1936年7月11日、「ドイツ・オーストリア両国はドイツ文化圏に属し、文化交流を阻害する規制を即時撤廃する」と謳った独墺(ドイツ・オーストリア)合意締結の後、ヒトラーはオーストリアへの軍事侵攻を決断し、ドイツ軍はオーストリアへ侵攻します(1938年3月12日)。オーストリア国民は、(ヒトラーがそれまで進めてきた経済再建を評価し、自国を苦境から救ってくれるという期待から)このドイツ軍の侵攻を歓迎します。これによりオーストリア併合に成功し、オーストリアの内閣も交代させてしまいます。この時ヒトラーはウィーンや生まれ故郷のリンツにも凱旋。ウィーンの公園での演説には25万人もの市民が集まります。ヒトラーは続いて第一次世界大戦後に誕生した多民族人工国家で東方進出の障害であるチェコスロバキアに進出しようと考え、ドイツ系住民が多数を占めるズデーテン地方を併合しようとしますが、一方のチェコスロバキア政府は(人口の25%に相当するドイツ系住民を含めた)少数民族に配慮した政策を約束します。しかし、その約束は守られず、1938年5月にはチェコ人警察官がズデーテン地方でドイツ系男性二人を射殺する事件が起こります。西部ズデーテン地方の住民はドイツ編入に向け実力行使を行います。ヒトラーは同地方のナチス党指導者に蜂起を促しドイツとの合併を主張させます。

   この蜂起は結果的には1938年9月29日にイギリス首相(チェンバレン)、フランス首相(ダラディエ)、イタリア首相(ムッソリーニ)出席のもと行われたミュンヘン会談においてドイツは「チェコスロバキアの意思とは関係なくズデーテン地方をドイツに譲る」ことを認めさせます。実はこのミュンヘン会談において、ドイツとイギリスのチェンバレン首相は、独英友好の書面にも署名します。(チェンバレンの対独宥和政策)  フランスは、38年12月6日、仏独友好協定を調印し、ヒトラーの東方への拡張政策を容認します。ドイツ国内では同年11月7日、ポーランドから逃れてきたユダヤ人がパリのドイツ大使館で三等書記官を射殺したことに端を発し、ユダヤ人に対する略奪と暴力の嵐が吹き荒れます。(水晶の夜)

         1939年3月にはチェコスロバキアの少数民族の動きが激しくなります。ヒトラーはこの機に乗じてチェコスロバキアを併合します。アメリカのルーズベルト大統領は(この頃、独に対し弱腰であった)英チェンバレン首相の対独宥和外交を非難。ルーズベルト大統領やチャーチル等の対独強硬派の圧力によりチェンバレンは対独政策を宥和策から強硬策へと方向転換し、イギリスはポーランドの独立保障宣言をします。一方当時ポーランド回廊 (第一次世界大戦後にポーランドへ割譲されたドイツ国境に接する細長い領土)に触手を伸ばしていたドイツは強く反発します。(この時、ドイツのポーランドに対する動きを牽制するため、イギリスとフランスはソビエトに対し三国軍事同盟締結の交渉を続けていましたが、話し合いはあまり進展しません。)

   ヒトラーはポーランド回廊問題を外交で解決するのをやめポーランドに侵攻することを考えます。仮にドイツがポーランドと戦争する場合、イギリスとフランスがドイツに敵対し参戦する可能性があり、その場合、ソ連が英仏側につくことも予想されました。そうなった場合ドイツの東側と西側の二方面が前線になるため、この二正面作戦を避けるためヒトラーかねてから敵と公言していたソ連に極秘に接触します。(ヨーロッパ大陸におけるドイツにおいて、敵が侵入する可能性として、地理的に見て、常に国境の西側と東側の二つの前線を想定します。つまり、一つがフランスと国境が接する西側(当然ドイツはここからフランスだけでなくイギリスも侵攻してくることを想定しています)。もう一つは、ポーランドと国境が接する東側(ここからソ連が進行してくることもドイツは想定しています)です。ドイツにとって、その二つの前線の攻守に関して、西側と東側のどちらに重点を置くのか?は、戦う状況、戦略において常にはかりにかられるのです。) 英仏との三国軍事同盟交渉に不満だったソ連は、ドイツから「ソ連と不可侵条約を締結し、ソ連が望むならその期間を25年間とする」という提案を受けます。(19)39年8月24日、世界を驚かせた独ソ不可侵条約が締結されます。(この条約にはポーランドを独ソで二分割すること、などいくつかの秘密協定が存在しました。) この不可侵条約をもとに、ヒトラーの命を受けたドイツ軍は 9月1日、ついにポーランド侵攻を開始。9月3日には、イギリスとフランスがドイツに対し戦線布告を行い、ここに第二次世界対戦が始まります。

   第二次世界対戦、開戦後の半年間はドイツ対英仏の間で本格的な軍事戦は行われませんでした。英独間で和平交渉が行われていたためです。しかしヒトラーは、強気外交で「イギリスが和平を願うならポーランドにおけるドイツの完全な自由を認めなければならない。」と伝えます。ここに英独間の交渉は決裂。イギリス首相は、チェンバレンからチャーチルに代わり英独は全面戦争に突入します。

   1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーへ侵攻。その後ベネルクス三国、フランスへ侵攻を開始します。6月には総統大本営を前線に近いベルギー南部のヴォルフスシュルフトに建設します。記述したように、ここまでは破竹の勢いのドイツに対し、この頃、イギリスには敗北感が蔓延して、政権内でさえ、ヒトラーとの和平を求める声が上がっていました。しかし、首相のチャーチルはドイツに対して断固として和平ではなく、対決する姿勢を示します。同時にアメリカの参戦も待望します。この期待は2ヶ月後の40年8月、アメリカがイギリスへ50隻の駆逐艦を提供するという形で具体化します。この頃ヒトラーはイギリス上陸作戦(アシカ作戦)を立案中でしたが、ノルウェー海戦で戦力的ダメージを被り、しかも空中線においてもイギリス上空などで行われた ”バトル・オブ・ブリテン”  において撃退され、イギリスへの侵攻を断念します。これによりヒトラーは、ドイツ敗戦の発端となる「東方の生空間」ソ連への進撃を目指すことになるのです。同年9月には、日独伊の間で「日独伊三国条約」を結ぶなど枢軸国の連携を強化する体制をつくっていきます。

   (ここで、少し話が脇にそれますが、この「枢軸国」の「枢軸」という言葉は誰が、どのような意味で最初に用いたのでしょうか? 実は本書P63にその回答になる記述があるのでそのまま引用します。「ムッソリーニはミラノの聖堂広場で行った演説で、ベルリン・ローマ間の連結線を『協力と平和を希求するすべての欧州諸国が、それを中心に動くことができる枢軸』と呼んだ。ここに新しい用語が生まれた。『枢軸』という言葉は、肯定的な意味にせよ否定的な意味にせよ想像をかきたてた。イタリアとドイツでは同じ哲学を持ち、共通の敵に対抗して結束する両国の力と強さを連想させ、一方西側の民主主義国にとっては、危険な独裁者が指導する二つの膨張主義国家が欧州の平和にもたらす複合的脅威、という亡霊を呼び覚ますものだった。」とあります。最初に「枢軸(国)」という言葉を使ったのはムッソリーニだったんですね。。)

   この頃、ヒトラーはイギリスに対するアメリカの支援を一番恐れていました。前述した(米から英への)50隻の駆逐艦提供の知らせにより、ヒトラーは「アメリカの軍事協力は予想より、はるかに迅速かつ効果的に本格的に行われるだろう。」と考え、これに対抗する手段として日本を同盟国として引き込み、(今後、日本がアメリカに対し行うであろう戦いに対して協力し、)アメリカの軍事力をアジア・太平洋方面へ向けさせるよう画策します。日本の松岡大使には「独ソ関係は良好なので、日独伊三国間同盟成立後、ソ連と話し合い、日ソの親善協議を始めるよう、その時はドイツが仲介役をする。」と促します。当時当時の第二次近衛内閣は、独伊との関係強化と日ソ国交の改善を熱望していたため、上記三国間同盟に調印します。

   40年6月以降は、ソ連がバルト海やバルカン半島に侵攻したり、そのあと、フィンランドやルーマニアにおける争いでも対立し、独ソ関係は悪化していきます。この悪化した関係を打開すべく(一方では独ソ戦開戦を意識しながら)ヒトラーはソ連首相兼外相モロトフとの間で数回にわたり会談を持ちますが、結局は交渉決裂。同年12月18日に、ソ連侵出作戦である「バルバロッサ作戦」指令を発します。翌41年6月22日、遂にバルバロッサ作戦が発動、ドイツ軍はソ連侵攻を開始します。この開戦において、ヒトラーは周囲に「作戦は五か月で終了する。」と生来の強気と楽観論を混ぜて語っていました。緒戦こそ順調に進みましたが、7月にはヒトラーと軍部首脳との間で意見が対立。ヒトラーはウクライナのドネツ工場地帯やレニングラードの攻略を優先するよう命じますが、軍部首脳はモスクワ攻略を主張します。10月には早くも冬が到来し、それまでのドイツ軍の武器、供給品を運ぶ道が、泥の沼地へと変化し、進撃速度と補給能力が極端に低下します。ここで体勢を立て直したソ連、赤軍がドイツ軍へ進撃。ドイツ軍首脳はヒトラーに一時撤退を進言します。しかし、ヒトラーは断固これを厳禁し、以後自らが「陸軍総司令官」を兼任することを決めます。(これにより、ヒトラーは「国家指導者」「国防軍最高司令官」そして、戦術的決定に責任を負う「陸軍司令官」を兼務することになります。そのため、ヒトラーが策定する軍事作戦において、命令に従わぬことは、軍事的な不服従行為であっただけでなく、政治的抵抗という反逆行為であるとみなされるようになります。) このヒトラーの前線撤退厳禁令は無謀とも思えましたが、結果的には戦線にとどまっているドイツ軍の全面崩壊を回避することができました。これによりヒトラーは自らの立案する軍事戦略に過大の自信を持つようになります。この12月、日本がハワイ真珠湾を攻撃し、アメリカへ宣戦布告します。これにヒトラーは大喜びします。

   しかし、この頃から、これまで目覚ましかったドイツの進撃体勢が徐々に守勢に転換していきます。(それ以後、その劣勢を覆すことなくドイツは敗戦を迎えることになります。)まず、42年、ブラウ作戦を立案し、6月にその作戦を開始、当初順調だったものの攻略に失敗。スターリングラードにおいても、第6軍が赤軍に包囲され、第6軍司令官パウルスは、ヒトラーに撤退を進言しますが、ヒトラーは撤退や降伏は認めず、「ドイツ人として立派に最後まで陣地を死守せよ。」と最後まで戦う自決をほのめかします。結局パウルスはソ連軍に降伏。またこの頃、北アフリカ戦線の敗北により戦局の劣勢が徐々にドイツ国内でも明らかになり、ヒトラー人気にも陰りが見えはじまます。この後もソ連地域内でいくつかの戦いを行いますが、劣勢を挽回することはできません。ヒトラーは開発中の新兵器(弾道ミサイルや、攻撃機、電動Uボートなど)で劣勢を挽回することに期待をかけるようになります。(結局は、これらの兵器も実用段階においては当初予想された威力を発揮できず終わります。)連合軍によりドイツへの戦略爆撃も激しくなり、ヒトラーの不眠症や神経症が一層悪化していきます。44年6月には、ソ連、赤軍によりドイツ中央軍集団が壊滅、さらには連合軍によるノルマンディー上陸作戦が成功し、これまで東側の前線で戦っていたドイツ軍の武力を西側へも投入せざるを得なくなりました。

   同年7月20日には、ヒトラーにとって衝撃的な事件がドイツ軍内部から起こります。ドイツ陸軍の若手シュタウフェンベルク大佐が軍部の反ヒトラー勢力と協力し、ヒトラー暗殺未遂事件を起こしたのです。大佐が仕掛けた爆弾により会議室にいた多数のヒトラー側近が死亡しますが、ヒトラーは悪運強く軽傷を負うに留まります。この事件によりヒトラーは反勢力とみなす約4,000人を処罰します。(この中にはかつて英雄と謳われたロンメル元帥もふくまれ、彼はその罪を疑われ自決します。)この事件により外傷においては軽傷ですんだものの、ヒトラーは、精神的に相当打撃を受け、極度の人間不信に陥り、心身ともに健康状態は悪化していきます。そして、8月にはついに連合軍がパリへ進出。パリ解放を許してしまいます。

   ドイツ軍の劣勢が続く状態の中、ヒトラーは最後の賭けに打って出ることを決意します。ライン川に迫っていた西部戦線の連合軍に対し、ドイツ軍をアルデンヌからアントワープまで進出させ、連合軍の補給路を断つ作戦(「ラインの守り」)を立案します。米英軍に大きな打撃を与えれば戦争の休戦とドイツ軍に対する援助を行い、独米英対ソ連の「東西対戦争」が勃発すると確信していたのです。しかし、12月16日に開始されたこのドイツの反攻作戦は、当初こそ順調に進んだものの、空軍の支援を受けた連合軍に圧倒され、ドイツ軍の最後の予備兵力と資材をいたずらに消耗する結果となりました。45年1月には、ソ連赤軍がヴィスワ=オーデル攻勢を開始。3月には連合軍がライン川を突破します。ヒトラーは、この頃からベルリンの総統官邸の地下にある総統地下壕に籠りがちになり、視力・脚力も衰えが目立つようになります。3月19日には、(連合軍がドイツ国内に侵攻することを恐れ)連合軍に利用されうるドイツ国内の生産設備をすべて破壊するよう命じますが、軍需大臣シュペーアに反対されます。

   4月20日は、ヒトラーは56歳の誕生日を迎えますが、地下壕における祝賀はむしろ葬式のような雰囲気でした。4月23日には、ついに赤軍がベルリン市内に突入。4月29日には親衛隊全国指導者ヒムラーが独断で英米に対し降伏を申しでたことがBBCで放送され、これを知ったヒトラーは大きなショックを受け、ヒムラーの逮捕命令をだします。そして、この時、ヒトラーは自決を覚悟するようになります。

   4月29日、夜11時頃、総統地下壕においてヒトラーは秘書のトラウドゥル・ユンゲに個人的・政治的遺書の口述筆記を依頼します。この政治的遺書の内容は、これまでの死、苦しみ、戦争はすべて国際ユダヤ人の責任であり、ポーランド侵攻前夜の和平提案が拒否されたことを、英国政治指導者の一部と国際ユダヤ人が組織したプロパガンダの影響の責任に帰すこと、そして、「自分はベルリンを見捨てることはできない。敵に対して持ちこたえる戦力はあまりにも弱くわれらの抵抗は、分別を失った気骨のない連中によって次第に力を失った。」と自分を裏切ったものに対する批判を行います。そして兵士の犠牲と彼らに寄り添う自身の死から最終的にはナチズムが再興するだろうと明言し、戦いを続けるよう促す言葉で話を結びます。そして4月29日の真夜中すぎ、最後までいた側近を集め、ヒトラーはエファ・ブラウンとの結婚式を行います。そして、翌30日の午後3時ごろ、妻エファ・ブラウンとヒトラーは自室に入ります。しばらくたって、最後の別れを告げられなかった側近の一人がヒトラーの部屋をそっと開けます。その狭い書斎のソファにヒトラーは息絶え頭を垂れ、エファはヒトラーの左側にうなだれたまま動いていませんでした。ヒトラーの右のこめかみの銃創からは血がしたたり、足元にはヒトラー愛用の7.65口径ワルサー拳銃が落ちていて、エファの体からは青酸特有の匂いが立ち上がっていました。 

   この直後、生前にヒトラーから命をうけた側近達は二人の遺体を運び出し、地下壕入口近くの場所で、あらかじめ用意していたガソリンで二人の遺体を焼きます。その後、遺体はベルリンを攻めてきた赤軍の攻撃などにより、総統官邸に置き去りにされていた、多数の遺体に紛れてしまいます。後日、市街戦に勝利したソ連軍が確認できたヒトラーの遺骸は下顎の骨の一部と、歯科治療に使う二つのブリッジ(一人はヒトラーのもので、もう一つはエファのものでした。)だけだったということです。

(今回、第二次世界大戦の流れに沿ってヒトラーの行動を記述しましたが、次回はヒトラー/上・下巻における、著者イアン・カーショーのヒトラーやナチズムの考察を紹介します。)