チェンジ・リーダーの条件 みずから変化をつくりだせ!

  本書(2000年初版)は副題に「はじめて読むドラッカー【マネジメント編】」とあるので、ドラッカーを勉強し始めた最初の世代(つまり、我々の親の世代)ではなくその後の、若手指導者たちのために書き上げたものだと思います。ちなみにタイトルにもなっている「チェンジ・リーダー」とは「変化を機会としてとらえる者。変化を求め、機会とすべき変化を識別し、それらの変化を意味あるものとする者」のことです。(本書カバーより)

  本書の最初のページ「日本の読者へ」の中でドラッカーは「明日の日本について、一つ確かなことがある。それは、マネジメントの役割がさらに大きくなり、企業だけでなく大学や病院などあらゆる組織にとって、命運を決するカギをにぎる存在になるということである。政府が行政指導によって、企業その他の組織を誘導する時代は終わった。同時に、グローバルな競争から産業や社会を守る時代も終わった。(今後政府はインターネット時代における知的財産権の定義と保護という仕事がある。)そして、情報を知識に転換し、その知識を行動に具体化することこそマネジメントの役割となり、個々の組織におけるマネジメントの役割が、ますます大きくなる。」と話しています。

  この「チェンジ・リーダーの条件」においてドラッカーは、今まで、「現代の経営」とか「マネジメント」などでの主張や考察をさらに現代の企業活動に沿う内容に置き換え、再構築し、すっきりした内容になっています。なので、以前読んだ内容とも重複するところがいくつかあるのですが、よく読むとそういったところでも、現代用に表現を更新したり、表現を変えたりと、微妙なアレンジを加えています。(やはり、「ドラッカーの経営哲学」というのは、現代のビジネスマンにとっては、ある種の権威になってしまっているのかもしれません。)だから、逆に考えれば、若いマネージャーが、とっつきやすいように、このような「はじめて読むドラッカー」シリーズを出版したのでしょう。(ちなみに本書は同シリーズのマネジメント編で、その他、「プロフェッショナルの条件」(自己実現編)、「イノベーターの条件」(社会編)という三部作になっているようです。)個人的には、はじめてドラッカーを読む人には、この「チェンジ・リーダーの条件」を一番にお勧めしたいと思います。「編訳者あとがき」では上田惇生氏が「(本書は)ドラッカーのマネジメント論を網羅要約したものではない。本書はドラッカーの著作10点および論文一点からの抜粋であり、最新の洞察を精選したものである。すでに継続の時代は去り、変化の時代の真ただ中ににあるからである。しかもマネジメントのパラダイムは、変化してやまない。したがって、本書は、現代という新しい多元社会における組織についての基本的な理解のもとに、変化のマネジメントに焦点を合わせている。」と話しています。

  本書において、私が興味ぶかい、と感じたのは、ドラッカーが「マネジメントはリベラルアート(一般教養)である。」(P20)と話していることです。「マネジメントは、人に関わるものであり、その価値観や成長に関わるものである。すなわち、それは人間学としての人文科学である。人間の心、すなわちよかれ悪しかれ人間の本質に関わるものである。したがって、マネジメントとは、まさに伝統的な意味におけるリベラルアート、すなわち一般教養である。」として心理学、哲学、倫理学、経済学、歴史など人文科学、社会哲学、自然科学の広い分野にわたる知識と洞察を身につけ、それを仕事を通して成果をださねければならない、としています。以前、何かの本の紹介でも言及しましたが、「日米のビジネス経営陣の差は『一般教養』の差である。」と、どなたかが書いていましたが。私もいつもニュースや新聞、ネットなんかのビジネス界の情報と接するたびに「日本にはどうしてGAFAが存在しないのか?」といつも感じます。もちろん、アメリカにはエジソン他の発明家を生んだ起業家精神や、ベル研究所のような存在が前提にあるのかも知れませんが、やはり、「一般教養」の差なのかと感じる時があります。例えば、最近ネットでよみましたが、ビル・ゲイツは今でも多読家で、いつも15冊ぐらいの書籍をバックパックに抱えた旅をしながら本を読む(または、読書のために(集中するため)旅をする)そうですし、AMAZONのCEO/ ジェフ・ベゾスも多読家として知られています。。最近感じるのですが、西洋人(グーデンベルク)が活版印刷を発明したのが1439年。1500年までに、西ヨーロッパ全域で稼働している印刷機は既に2000万冊を超える量を生産し、16世紀には印刷機がさらに遠くに広がり、その生産量は10倍に増えて推定1億5000万-2億部数もの文書が刷られ、(Wikipedia)一方、日本でおそらく書籍が日本で読まれ始めたのが、おそらく明治維新の前、日本人が西洋文化にめざめた頃(たとえば、勝海舟は1864年頃から蘭学修行をはじめ、その期間中に辞書『ドゥーフ・ハルマ』を1年かけて2部筆写したといいます。1部は自分のために、1部は売って金を作るためでした。)仮にそのあたりを日本の知識人が読書を習慣化した時代だと仮定すると、400年以上の差があります。この400年の差が(ビジネスも含め)いろいろなところ(うまく言えませんが、知識に対する理解の深さ、知識習得の習慣とでも言うのでしょうか)の差になっているような感じがします。(ドラッカーも「はじめに」において「本書の目的は、読者の方々に対し、マネジメントのおもな領域について知ってもらうとともに、今後とも学び続ける意志をもってもらうことにある。新しいことを学び行うことを続けていかないかぎり、数年後には陳腐化した存在となるからである。」と言っています。)

  また、Part 5 「起業家精神のマネジメント」においては、「未来を築くために、まず初めになすべきことは、明日何かをすべきかを決めることではなく、明日をつくるために今日何をなすべきかを決めることである。」と、会社がどこにビジネスチャンスを見つけるべきか、のヒントを与えています。「第一に、すでに起こった未来を予期することである。第二に、ビジョンを実現すること、すなわち未来を発生させることである。」(P196) まず、第一の「すでに起こった未来」ですが、「社会的、経済的、文化的なできごとと、そのもたらす影響との間にはタイムラグがある。出生率の急増や急減は、15年後、20年後には、労働人口の大きさに影響をもたらす。変化はすでに起こっている。戦争や、飢饉や、疫病の大流行でもないかぎり、その結果は必ず出てくる。すでに起こった未来は必ず機会をもたらす。それらのものは、潜在的な機会である。(中略)もちろん、すでに発生した変化がもたらす影響を予期して、資源を投資することは、不確実性とリスクが伴う。だが、そのリスクは限られている。影響がいつ現れるかを正確に知ることはできないかもしれないが、影響が現れることについては確信がもてる。」と、「すでに起こった未来」(これも哲学者、ドラッカーらしい表現ですね。)の中にビジネスチャンスを探すヒントがあることを示唆しています。

  では、もう少し具体的に、どこに「すでに起こった未来」を探せば良いでしょうか? ドラッカーは、P200において、次の五つのヒントを提示しています。「すでに起こった未来は、体系的に見つけることができる。第一に調べるべき領域は、人口構造である。人口の変化は、労働力、市場、社会的圧力、経済的機会の変化にとってもっとも基本的である。人口の変化は、もっとも逆転しにくい。しかもその変化は、早くその影響を現す。(中略)第二の領域は、知識の領域である。現在の企業に直接の関係のあるなしに関わらず、あらゆる知識の領域において、すでに起こった未来を探さなければならない。第三の領域は、他の産業、他の国、他の市場である。これからのものに目を配り、『われわれの産業、国、市場を変える可能性のあることは起こっていないか』を考えなければならない。(中略)第四の領域は、産業構造である。たとえば今日、あらゆる産業界で起こっている変化の一つが材料革命である。かつては完全に別のものだった材料の流れの境界が、消滅するか、曖昧になっている。言い換えると、たいていの場合、材料によって最終用途は決まっていたが、そのあらゆる材料の流れが、その視点から終点にいたるまで別々になった。第五の領域として、企業の内部にも基本的かつ不可避な変化で、影響がまだ現れていない事象を発見するための鍵がある。その一つが企業内での摩擦である。何かを導入したとき、もめごとが起こる。新しい活動が組織内に変化を引き起こし、すでに受け入れられているものと対立する。」

  第二の「ビジョンの実現」については次にように語っています。「製品やプロセスについていかなるビジョンを実現するかを決意し、そのようなビジョンの上に、今日とは違う事業を築くことは可能である。未来において何かを起こすということは、新しい事業をつくり出すことである。すなわち、新しい経済、新しい技術、新しい社会についてのビジョンを事業として実現するということである。大きなビジョンである必要はない。しかし、今日の常識とは違うものでなければならない。」

  本書はまた、同族企業についても言及しています。ドラッカー氏はその章の中で、「同族企業という言葉で鍵となるのは、『同族』のほうではない。『企業』の方である。」と持論を展開しています。(興味のある方は本書を手に取って下さい。)