銃・病原菌・鉄(上)

  「銃・病原菌・鉄」というタイトルは、旧大陸の人々が、新大陸の人々の征服を可能にした直接の要因を指します。著者は、ジャレド・ダイアモンドさん。まず、ダイヤモンド氏の略歴を記します。「1937年、ボストンでベッサラビア出身のユダヤ系の両親の間に生まれる。1958年にハーバード大学で生物学の学士号を取得後、1961年にケンブリッジ大学で生理学の博士号を取得した。その後、生理学者として分子生理学の研究を続けながら、平行して進化生物学・生物地理学の研究も進め、特に鳥類に興味を持ち、ニューギニアなどでのフィールドワークを行なった。そこでニューギニアの人々との交流から人類の発展について興味を持ち、その研究の成果の一部が『銃・病原菌・鉄』として結実した。」(Wikipediaより)

  ダイアモンド氏が本書を著すきっかけとなったのは、氏が、ニューギニアで鳥類の調査を行っていた時にさかのぼります。当時、ニューギニア人の友人ヤリ氏が、ダイアモンド氏に投げかけた、ある素朴な疑問でした。「あなた方白人は、たくさんのものを発達させてニューギニアに持ち込んだが、私たちニューギニア人には自分たちのものといえるものがほとんどない。それはぜだろうか?」(P24)このような、ヨーロッパ白人社会が新大陸に属する文明(先住民民族の文明)を駆逐し、結果として現在のような「世界的な地域格差」が生まれたのは、ユーラシア大陸(ヨーロッパ、アジアを合わせた大陸)に属する人々が知能的に優れていたからだ、とする「生物学的差異」を根拠にする意見が一昔前は多かったのですが(ようですが)、また現在でも単純にそう考えている人々も多くいると思います。しかし、著者は、「歴史は、異なる人びとによって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるものではない」(P45) と述べ、差別的な考えをきっぱりと否定する立場を取っています。(本書においてもダイアモンド氏は、ニューギニア人が西洋人より優れている点を指摘しています。)

  そして、著者ダイアモンド氏は、本書のテーマについて次のように話しています。「では、なぜ、世界の富や権力は、現在あるような形で分配されてしまったのか? なぜほかの形で分配されなかったのか? たとえば、南北アメリカ大陸の先住民、アフリカ大陸の人びと、そしてオーストラリア大陸のアボリジニが、ヨーロッパ系やアジア系の人びとを殺戮したり、征服したり、絶滅させるようなことが、なぜ起こらなかったのだろうか。(P25)そして、なぜ、人類社会の歴史は、それぞれの大陸によってかくも異なる経路をたどって発展したのだろうか? 人類社会の歴史の各大陸ごとの異なる展開こそ、人類史を大きく特徴づけるものであり、本書のテーマはそれを解することにある。」(P27)

  著者は、本書(上巻)において、まず、「旧大陸」が「新大陸」を駆逐した歴史的出来事として、16世紀にペルーで起きた、少数のスペインの軍隊が、8万にものぼるインカ帝国の軍隊に勝利した瞬間を挙げています。「1532年11月16日、ペルー北方の高地カハマルカにおいて、スペインの将軍ピサロは168人のならず者部隊だけで、8万人の兵力に護られた皇帝アタワルパを、目を合わせた数分後に捕虜とし、その後、8ヶ月間の交渉で身代金を奪い、最後は約束を反故にし、アタワルパを処刑してしまった。」(P122 )

   勝因は、ピサロ率いるスペイン兵は鉄剣、鉄製の甲冑、銃(12丁だけ)、馬を持っていたことでした。それに対してアタワルパは、そのすべてを持たず、石や青銅や木製の棍棒で戦うしかありませんでした。それに対し、スペイン軍は騎兵を使ってスピーディーに奇襲攻撃を行い、インカ帝国の兵士たちに救援を呼びに行く暇を与えませんでした。さらにピサロの到着前、すでにインカ帝国は分裂の危機にあったこともわかっています。その原因はスペイン人たちが持ち込んだ天然痘のウイルスでした。そのウイルスにより、多くの住民だけでなく前皇帝のワイナ・カパックなど多くの支配階級も死亡し、国全体が混乱していたのです。(ここで著者は、スペイン軍が勝利した直接的な要因は、「銃、病原菌、鉄」であったことを端的に示しています。)

  そして、ここから本書は、インカ帝国を滅ぼした(直接的な要因である)「銃、病原菌、鉄」が旧大陸で発達した地理的・歴史的過程(これこそがインカ帝国を滅ぼした究極的な要因なのです)を、人類が「農業の誕生」による「定住生活」を始めた1万3,000年前までさかのぼり、解説していきます。

  まず、人類が文明・文化を発達させていくには、狩猟採集民から作物栽培(農耕)を行い、家畜を飼育するという食料生産を行い、定住生活をすることが必要でした。(「農耕民は、土地を耕し、家畜を育てることによって、1エーカーあたり、狩猟採集民族のほぼ10倍から100倍の人口を養うことができる。この数字は、食料を自分で生産できる人びとは、当初から狩猟採集民よりも人数面において軍事的に優位にあったことを示している。」(P154))現在分かっているかぎりで農作物の栽培、家畜の飼育が最も古くから行われたのは西南アジア(メソポタミアの肥沃三日月地帯)です。この肥沃三日月地帯で最初に栽培されたのは約一万年前に育成されるようになった農作物は小麦、大麦やエンドウでした。これらの祖先である野生植物は大量に採集が可能で、種子をまいたり植えたりするだけで簡単に発芽し、成長するのも早く種子をまいてから数か月で収穫することができました。これらの特性はこの地域に住む移動狩猟採集民と定住民の中間のような生活をしていた人々にとって、農耕を始めるうえで非常に大きな利点であったのです。(P224)また、メソポタミアや中国を含むユーラシア大陸には、家畜化に適した動物が他の大陸よりも高い割合で生息していました。ユーラシア大陸の人々は、たまたま他の大陸の人々よりも家畜化可能な大型の草食性哺乳類を数多く受け継いだのです。このことはやがて同大陸の人々を、人類史上有利な立場に立たせることになります。(P324)

  「食糧生産は、それを独自に開始した地域を中核として、そこから近隣の狩猟採集民のあいだに広まっていった。その過程で中核となる地域からやってきた農耕民に近隣の狩猟採集民が侵略され、一掃されてしまうこともあった。この過程もまた多くの時代にわたって起こったことである。(中略)つまり、食料生産を他の地域に先んじて始めた人びとは、他の地域の人たちより一歩先に銃器や鉄鋼製造の技術を発達させ、各種疫病に対する免疫を発達させる過程へと歩みだしたのであり、この一歩の差が、持てるものと持たざるものを誕生させ、その後の歴史における両者間の絶えざる衝突につながっていったのである。」(P184)

  数多い野生植物の中からある特定の植物を食用にできる農作物として栽培化すること、また、野生動物を食肉(牛、豚)、または農耕作業(水牛)、軍事(馬)に従事させるよう家畜化することは人類にとって何世代にもわたるとても時間のかかる作業でした。「食物を最初に作り始めた狩猟採集民たちは、果実ができるだけ大きく、味に苦みがなく、果肉部分がたくさんあり、油分が多く、繊維組織が長いなどといった、実際に自分で検証でいる特性に着目した。そして、それを基準として野生種の中から選抜し、それらの好ましい特性に優れている個体を何世代か繰り返し収穫し続けることで、意識しないままにその植物の分布を助けるとともに、野生種を栽培種に変化させてきたのである。」(P215)「野生植物の多くは樹皮の部分が多いとか、人間が食べられる果実・葉・根茎を形成しないといった理由で食用に適していない。二十万種ある顕花植物のうち人間が食べられるのはわずか数千種である。しかも、多少なりとも実際に栽培されているのは、そのうちの数百種にすぎない。そして、その数百種のうちの大半は、生活基盤として人間の食生活や文明を支えるに足る食物ではなかった。現在でも世界で一年間に消費される農作物の80%は、わずか十数種類の植物で占められている。」(P240)また、野生動物についても人類は野生植物と同様に自分の役に立つように、飼育しながら食餌や交配をコントロールし、選抜的に繁殖させて、野生の原種からの「家畜化」を行ってきました。(しかし、二十世紀までに家畜化された大型草食動物はたった一四八種のうちの十四種にすぎません。)

  食料生産に必要な農作物や家畜の栽培、飼育の技術の世界各地域への伝播は、均一の速度で広がったわけではありませんでした。その伝播の速度に影響を与えたのは、ユーラシア大陸、アフリカ大陸、南北アメリカ大陸の地理的な広がりでした。例えば、アメリカ大陸は南北縦長で9,000マイルという長さで広がっています。アフリカ大陸も、アメリカ大陸ほどではないにしてもやはり南北の緯度方向に伸びています。この二つの大陸とは異なり、ユーラシア大陸は東西に伸びています。例えばユーラシア大陸のように「東西方向に経度が異なっていても緯度を同じくするような場所では、日の長さの変化、季節の移り変わりのタイミングに大差がない。風土病、気温、降雨量の変化、そして、分布植物の種類や生態系もよく似たパターンを示す傾向にある。」(P341)このことで、農作物の栽培や家畜の飼育にしてもその育成と技術の伝播が大陸間で比較的容易に、早くできたのです。一方、緯度の違い(南北間の差)は、経度の違いとは対照的に、日照時間や気候、降雨量に大きな変化を与えます。このことが南北アメリカ大陸における農作物や家畜の伝播に悲劇的な影響をあたえました。)また、この大陸ごとの地理的広がりの違いは、文字や車輪をはじめとするさまざまな発明が大陸で広がっていく速度にも大きく影響したと思われるのです。

  この大陸間の広がりが旧大陸(特に、ユーラシア大陸)に住む人々がのちに新大陸の人々を駆逐することに影響を与える一つの要因なのですが、この食料生産(特に家畜の飼育)の伝播は、その伝播を受けた地域の人々に病原菌をもたらすことになります。牛や豚などの群居性の動物は、それぞれに特有なウィルスを持っています。それまでは人間には感染しないウィルスも世代を経ていく過程で人間に感染するように進化することがあります。人間は野生動物の家畜化を始めてから9,000年の時が過ぎています。その間人間は自分たちの社会に家畜やペットと密接な関係を保ち続けています。この間、野生動物から人間の病気へと(つまり、ヒトからヒトへ移る病気)進化できたものは、麻疹、結核、天然痘、インフルエンザ、百日咳、熱帯性マラリアなどがあります。これらの旧大陸で発生した病原菌はヨーロッパ人による新世界の征服過程において、ヨーロッパ人の勝利に大きく寄与します。「アメリカ先住民は、ヨーロッパ人に出会うまで、ユーラシア大陸の病原菌にさらされたことはなかった。そのため、それらの病原菌に対する免疫を持っていなかった。また、遺伝的に強い抵抗力も持っていなかった。」(P389)そのため、ユーラシア大陸から運ばれてきた病原菌で命を落としたアメリカ先住民は、ヨーロッパ人の銃や剣の犠牲となって戦場で命を失ったものよりはるかに多く、また、1519年のエルナン・コルテスによるアステカ帝国征服も、結局は天然痘の大流行により、アステカ帝国の約半数の人口が死亡したことによるものだったのです。さらに、既述したピサロによるインカ帝国征服の伏線となったのは1526年ごろにインカ帝国で流行した天然痘が多くのインカ人の命を奪っていたことでした。「非ヨーロッパ人が、より優れた武器を持っていたことは事実である。より進歩した技術や、より発達した政治機構を持っていたことも間違いない。しかし、このことだけでは、少数のヨーロッパ人が、圧倒的な数の先住民が暮らしていた南北アメリカ大陸やそのほかの地域に進出していき、彼らにとってかわった事実は説明できない。そのような結果になったのは、ヨーロッパ人が、家畜との長い親交から免疫を持つようになった病原菌を、とんでもない贈り物として、進出地域の先住民に渡したからだったのである。」(P395)