ガイトナー回想録 金融危機の真相

       本書の著者、ティモシー・フランツ・ガイトナー(Timothy Franz Geithner)氏は、オバマ大統領政権下で、第75代アメリカ合衆国財務長官を務めた人物です。(財務長官就任以前は、ニューヨーク連邦準備銀行/FRB総裁を務めていました。)本書の原題になっている ”Stress Test” というのは、著者自身がリーマンショック金融危機が拡大していた財務長官就任時に考案した「銀行がどのくらいの金融危機の負荷に耐えられるかを調べるテスト」(金融市場で通常では考えられないような大幅な価格変動などを想定し、その回避策やポートフォリオの損失額を予想しておくこと。)のことです。しかし、本書に占めるストレス・テスト導入に関するエピソードの割合はそんなに多くなく、むしろ日本語のタイトル通り、ガイトナー氏が連邦財務省に入省後から担当した職歴、NY/ FEB 総裁、そして、オバマ第一次政権における財務長官就任前後のアメリカ国内から国際的に広がったリーマンショック・金融危機にどうやって対処していったのかを語っている部分が大半を占めます。

  好景気に沸いていた2000年代のアメリカ経済ですが、2007年、それまで拡大成長を続けていた住宅市場のバブルが突如はじけ、住宅価格が下落に転じ、住宅ローンの貸し倒れがアメリカ中に広がっていきます。当初、ガイトナー氏を含め多くの関係者は、この事態を楽観視していたのですが、事態は急速に深刻になり、大変だと気づいた時にはもはや手遅れの様相を呈するようになります。投資銀行メリルリンチや、巨大金融機関であるシティグループ、保険会社AIG、バンク・オブ・アメリカなどが次々に巨額の損失を発表します。そういった巨大金融機関はそれまでの好景気中、強気で事業拡大を過度に行い、そのため、借入金も過剰になっていたのです。こういった大手金融機関は、公的資金注入を受けてようやく生き延びます。

  近年の金融危機の対処方法として、中央銀行は倒産しそうな大手金融機関へ「救済プログラム」を通して巨額のマネーを゛注入"し、金融機関の財務体質強化を図りますが、このような「公的支援」に対して、当然、政治家や国民の間からは「どうして、それまで自分たちの欲望を満たすことだけを考えていた悪い奴らを助けるために国民の血税を無駄にするのだ。」というすさまじい怒りの声が上がります。こういった怒りの声に対し著者ガイトナー氏は次のように解説します。「いうまでもないが、困難に陥った会社を政府が助けること(公的資金の導入)については、『どうしてシステムに火をつけた犯人に報いるのか。』という反対意見がある。この反論は、ふたつの形をとる。ひとつは正義についての道徳的な意見で、私はこれを『旧約聖書の見方』と呼んでいる。『金の亡者は罰せられるべきだ。無責任な人間を救うべきではない、』という意見。もうひとつは、動機についての経済的な意見、『モラル・ハザード』という批判だ。『リスクをとった連中が損をしたのを今日救ってやったら、その連中は明日にはさらに無謀なリスクをとって、将来あらたな危機を生み出すだろう。放火魔を助けてやったら、もっと火をつけてまわるだろう、』という意見だ。」(P17)

  金融危機に対する「公的支援」というのは、どうしてもやはり「お金」がからんでくる問題なので、純粋に金融危機に対処する方法を論議する以前に、どうしてもこうした感情論や、道徳論的意見が先行しがちになります。著者は、このような時、お金に関する感情論はとりあえず脇に置き、冷静に対処することが先決である、と言います。

  「金融危機とは信頼の危機である。つまるところ、金融システムは(万人がそのシステムを)信じることで成り立っている。クレジットの語源はラテン語の『信じること』だし、『信託(トラスト)』を社名に入れる機関も多い。伝統的な銀行の仕組みにおいては、預金者はお金を預けて、いつでも利息を足して払い戻されると確信している。銀行は、預金者すべてが同時に払い戻しを求めることはないという確信のもとで、預金金利よりも高い利率でその金を貸し付ける。だが、みんなが銀行への信頼を失ったら預金者すべてが同時に払い戻しを求めるに違いない。そうなると取り付け騒ぎが起きる。信頼とははかないものだ。それが消えうせるときには、たいがいあっというまに消え失せる。それにいったん失われると、もとに戻すのが難しい。金融危機とは、いってみれば大掛かりな取り付け騒ぎで、金融システムそのものに取り付け騒ぎが起きる。株主、社債所有者、機関投資家、年配の寡婦など、だれもが自分たちのお金は安全だと信じられなくなり、急いでシステムから引き出そうとする。それによって、システムに残ったお金は、いっそう安全ではなくなり、それでまた信頼が崩れてしまう。」(これを著者は「クレジットの急激な収縮」と呼んでいます。)(P15)このような負の連鎖が始まると、その後には財務体力のない企業が倒産し始め、そこから連鎖倒産と大量解雇が生じ、数百万の人々が家を失い、経済活動の長期間収縮をもたらすことになります。また、近年では、金融のグローバル経済化が進んでいるので、その金融危機の影響は短期間の間に海外にまで波及します。

  著者は、金融危機においては、国は、資本注入などの「救済措置プログラム」を実行することで、預金者、投資家に「あなたたちのお金は安全で、あなたたちの取引している金融機関が抱えている負債は政府が保証する」という強いメッセージを送る必要があると言います。このように預金者や投資家の恐怖心理を取り除くため、「クレジットの急激な収縮」をいかに未然に防ぐか、または、収縮規模を最小限にくいとめるか、が金融危機政策のポイントになります。アメリカ議会は、結局、超党派により、政府の「救済プログラム」を支持します。これにより、著者の考案した「ストレステスト」によって金融機関の健康状態を的確に把握し、救済措置を実行に移すことで、事態は徐々に収束の方向へ向かい始めたのです。

 「残念なことに、金融パニックを阻止するには、パニックの誘因を取り除くほかに方法はない。システミックな金融機関の無秩序な破綻を防ぎ、金融機関の債権者たちに融資は返済されると約束し、金融市場の不安を取り除くことが、それにあたる。こういう過酷な危機の最中には、政府は借入と支出を増やし、納税者を短期のリスクにさらして、暗い市場要因を抑え込む必要がある。-  たとえそれが無駄遣いで倫理に反していると見られても、また、見境なくお金をばらまいている救済熱に憑りつかれた大きな政府だという認識が強まっても、そうしなければならない。(中略)私たちが経験したような容赦のない金融危機では、筋が通っているように見える行動 ー 銀行を破綻させ、債権者に損失を吸収させ、政府予算を均衡させ、モラル・ハザードを避けること ー  は、危機を激化させるだけだ。そして、危機を和らげるのに必要な方策は、不可解で不公平に見えるものだ。」(P626) つまり、国民や国会議員からは、政府が金融危機を引き起こした張本人たちを救済している、と見られても巨額の負債を抱えた金融機関には、適切な資金援助を短期間のうちに行う必要がある、ということです。

 「あとがき」においてガイトナー氏は、リーマンショック前後の歴史的な金融危機を含む公務員時代を振り返り、次のように話しています。「公務員の仕事には、プラスの変化をもたらすチャンスがいくらでもあるが、それには難題がつきまとう。私がそれを二五年間やったのは、その大義を信じていて、経済政策の特殊な技術が大好きだったからだ。だが、そう言い切れるのは、国に仕事人生の一部もしくはすべてを捧げることを選んだ人々が、私の周囲にいたからだ。政府の私の同僚たちの熱意と大衆を重視する精神は、ほんとうの報いとやりがいを私の仕事にあたえてくれた。彼らの献身と友情に、私はこれからもつねに感謝し続けるだろう。」(P660) そして、この金融危機に対し献身的に奉仕する同僚、スタッフを次のように称賛しています。「ニューヨーク連銀のエコノミスト、アナリスト、銀行監督官、トレーダー、支払・クリアリング・決済インフラの専門家たちが、とことん創造的な危機対応チームとしてまとまった。(中略)彼らはけっして名声を求めず、まったく無名のまま、周囲の世界が燃えているあいだ、集中し、落ち着いて、何か月もずっと昼夜働き続けた。彼らは勇敢で、慎重で、めったにないようなリスクを引き受け、混乱と不安のなかでそういったリスクを管理するために勤勉に働いた。彼らのチームワークと、目立とうとしない姿勢が、どれほどすばらしかったかを示す話がある。後日、私があることの成功にだれが一番貢献したかと、チームのだれかにたずねると、答えは決まっていた。『私たちみんなの集合ですよ。』」(P653)

  このように、国の歴史的な危機に立ち向かい、その危機をなんとか克服したガイトナー氏ですが、財務長官就任時には別の試練がありました。オバマ大統領の政権移行チームの身元調査において、ガイトナー氏の過去の所得申告についてミスが発見されたのです。これは、ガイトナー氏の会計士が見つけて然るべき罪のない、不注意なミスだったので、通常なら滞納税等の支払いで済むようなことだったようですが、党派主義が徹底している当時、ガイトナー氏は上院財政委員会の共和党議員から「多くの疑いの目と軽蔑を向けられた。」と話します。要するに次期財務長官、ガイトナー氏の「信用」という公の顔に対し共和党が先制攻撃し、民主党/オバマ次期大統領の政権基盤に揺さぶりをかけた、ということです。(この共和党による揺さぶりにより、アメリカで当時人気だったTVのナイトショーなどでもガイトナー氏の納税問題がネタにされたようです。) この時の財政委員会の調査はとにかく徹底していて、共和党上院議員からでさえ、「自分自身が委員会の税務調査を受けたら無事にはすまなかっただろう。」、「(調査は)いやがらせのような手順だった。」とか「どの議員もあの10分の1の吟味にすら耐えられないだろうよ。」と励ましの声をもらったと話しています。これも、財務長官になるための一種の通過儀礼といってもいいかもしれませんが、前に差し迫る巨大な危機(金融危機)に自分の全エネルギーを注ぎたい時に、横から別の攻撃も受ける、というのは財務長官というのは正に激務だと思います。(また、本書では、金融危機の対処法案を通すときの民主党と共和党における駆け引きについても書かれています。)

  金融関連の書籍については、銀行の業務における専門用語とか、投資銀行で扱う特殊な金融商品用語とか、更に様々な性格の金融機関が登場し、読むときにちょっとためらったりするのですが、最近は金融政策にしても先進国諸国が同時介入したりとか、為替操作を行なったりとか、金融商品についても日進月歩でイノベーションが起こっていたりとか、とにかく金融についてもある程度は知っておいた方は得だと思います。新聞なんかでも金融関係の記事は読んでもさっぱりわからない、ということもありますよね。こういった金融関連書籍については、100%理解する必要はないと思います。あまり、細かいところは気にせず、大意だけでもおさえるとか、金融危機に立ち向かった当事者の話を直接読むだけでも意味があると思います。(余談ですが、W.バフェットさん、B.ゲイツさん他などアメリカの経済界の著名人も本書を推薦しています。)

  また、このリーマン・ショック前後の金融危機については、当時のアメリカ連邦準備制度理事会(FRB)議長、ベン・バーナンキさんも回顧録を出しています。(下写真、邦題/危機と決断(上・下))