【新訳】南洲翁遺訓


       現代においても多くの日本人から敬愛される西郷隆盛さん。つい2年前にもNHKの大河ドラマでも取り上げられました(「西郷どん」)。明治維新から150年を経た現在も、たとえその人生、考え方を知らなくとも、多くの日本人はその名前ぐらいは知っているはずです。しかし、大変残念なことに、その西郷さんは生前、自ら著書を一冊も残していません。ですので、もし、テレビドラマなどで西郷さんの魅力に触れて、西郷さんの生き方、考え方を学びたい方々にまず読んで頂きたいのが、今回取り上げた「南洲翁遺訓」(編訳/松浦光修氏)です。

  この遺訓集は、41条、追加の2条、その他の問答と補遺から成るもので、編纂にあたったのは、明治維新において西郷さんの薩摩藩の仇敵であった庄内藩の武士たちでした。(庄内藩は徳川幕府派で、薩摩藩とは敵対し、薩摩藩邸焼き討ち事件を起こしたり、東北戦争においても激しく戦い合ったのです。)

  その戦いにおいて、幕府側の庄内藩は、最後に新政府樹立派の薩摩藩に降伏し、厳しい処罰を覚悟します。しかし、意外なことに薩摩藩からの処分は寛大なものであったのです。降伏条件言い渡しの際、新政府軍の参謀/黒田清隆(薩摩藩)は、まず、庄内藩主の上座に座ります。そして、一連の「言い渡し」を終えた黒田は、ここで同藩主の下座にまわり、「役目のために、御無礼をいたしましたが、お許しください。」と実に礼儀正しく接します。しかも、その後の言葉や態度にも勝ち驕った尊大な振る舞いはなく、全くそれは武士道をわきまえた立派なものであったのです。その黒田の態度に感激した庄内藩の人々は、その後、その処置がすべて西郷さんからの指示であったことを知ります。西郷さんは黒田に「戦いは、、勝てば、もうそれでいい。あとは、同じ日本人、、。新しい日本をつくる同士じゃないか。もう敵でも味方でもないよ。」と告げたと言います。

  この時から庄内藩の人々は、西郷を尊敬し、薩摩藩との交流が始まります。明治政府樹立後、日本がまだ安定していなかった当時、失業状態にあった士族は、新政府のやり方に不満を覚えます、士族というのは旧武士の人々で、この人々が明治維新の立役者であったからです。この士族の不満を一身に引き受けた西郷は、明治政府に対して(本意ではなかったのですが)西南戦争を起こします。この西南戦争において負けた西郷は自決し、その後、明治政府から「逆賊」の汚名を着せられます。しかし、明治二十二年、明治天皇は「大日本帝国憲法」発布の時、西郷さんの「逆賊」の汚名を取り除き、名誉回復を行います。この西郷さんの名誉挽回の機運のもと、かつて西郷さんから恩を受けた旧庄内藩の人々は、生前の西郷さんの言葉や考え方を遺訓集としてまとめます。これが「南洲翁遺訓」なのです。

  西郷さんが遺したこの遺訓集には、「策略を使う者は、成功しない」「すべては人物で決まる」「真心のない事業は長続きしない」「自分を愛するように他人を愛せ」「人を気にせず、天を気にせよ」。。。このように、西郷さんが、庄内藩の人々に語った教えがありますが、このすべての教えの根底には「私心を捨てる」という思想があります。つまり、「国の指導者にとって、最も大切なことは、公共の幸福を最大限に考え、至誠を持ってことにあたることで、そのためには、とってつけたような策略、言い訳も必要ない。」ということです。

  明治維新に関した書籍では例えば、半藤一利さんが「明治維新は薩摩・長州藩のテロリスト集団によるクーデターだった、」というような視点から「幕末史」を書いていますが、やはり、西郷さんは当時の世界の勢力情勢からみて日本の外国の植民地化を大変危惧していたのだと思います。だからこそ、このような私心を捨てた遺訓集が日本国民に語り継がれているのだと思います。一方の徳川幕府側ではやはり、私心を捨て、大局的な見地から日本の将来を危惧していた人物がいました。勝海舟です。本書にも編纂者が書いていますが、この明治維新という「革命」は、他の国の「革命」(フランス革命、ロシア革命など)と比べて犠牲者が一桁も二桁も違う(つまり少ない)のですが、これはやはり対立しあう勢力のリーダーが、共に日本の将来を憂い、高潔な信念で対峙し、自分の派閥や仲間の利益という小さなことに拘泥しなかった結果なのでしょう。それが無血による大政奉還、江戸城引き渡し、という最良の結果になったのだと思います。また、二人とも、それまでの既存利益団体(島津家、徳川家の血縁)出身ではなく、下級武士からの成り上がりもので、大局的な物の見方ができていたのが良かったのでしょう。

  尊王攘夷派の志士を始め、改革派の諸藩の努力、そして、幕府側の人々の犠牲の末に樹立された明治維新政府ですが、その新政府の政治家の中には、私利私欲の追求に励んだ人も多かったようです。そいうった新政府樹立後の気の緩んだ時期においても西郷さん一人だけは、利他を貫いて天命を全うしました。同じ明治政府をつくった改革派メンバーの中でも、特に西郷さんは「私心の無さ」という点では際立っていると思います。では、何が西郷さんをそのようにしたのでしょうか?

  遺訓の第四章/第一節に「人生では、いくたびも苦しい思いをして、はじめてその人の志は、しっかりしたものになる。」というのがありますが、やはり、西郷さんの「志」を磨いたものはやはり、人生で体験した艱難辛苦にあったのだと思います。(本書の編訳者、松浦さんも指摘してますが、)鹿児島の錦江湾入水事件、そして2回にわたる島流しがそうです。錦江湾「入水事件」というのは、「安政の大獄」という幕府側が行った改革派弾圧で、幕府は次々とその改革派の対象者を取締り、処刑していました。安政5年(1858年)11月、西郷さんは改革派の同士、京都清水寺の僧侶、月照にも身の危険が及ぶことを知り、月照を薩摩藩へ連れていきます。しかし、薩摩藩は、幕府の力を恐れ、西郷さんへ月照の命を取るよう命じます。これまで行動を共にしてきた月照を見捨てるわけにもいかず、西郷さんは彼と運命を共にすることを決め、共に海へ飛び込みます。結果として、月照は命を落としますが、西郷さんは仲間に救い上げられ、死ぬことはかないませんでした。

  次の、一回目の島流しですが、これは、「入水事件」後の西郷さんの処置に困った薩摩藩が、幕府の追求を逃れるため、3年間(安政6年/1859 ー 文久2年/1862)の間、西郷さんを死亡扱いとして、奄美大島へ罪人、”菊池源吾”(と言う変名)にして「島流し」という形で匿うことにしたものです。二回目の島流しは、2年間(文久2年 - 元治元年/1864)で徳之島・沖永良部島へ流されます。この二回の島流しは藩主の反感を直接受けたもので、西郷さん自身にとっては、「入水事件」と同様、辛いものであったのです。

  「入水事件」、「二回にわたる島流し」、、このように自らの生命の危機、艱難辛苦を耐え抜いて、己の精神を磨くことのできた西郷さんだからこそ、明治維新という日本の大変革を成しえたのでしょう。でも運命というか、神様の御裁量というのは、反面過酷であるとも思います。明治維新を成し遂げた西郷さんも、旧薩摩藩の最後の実質的な藩主である島津久光からは謀反人扱いされ(西郷さんが晩年、異様に太っていたのは、久光からの不平不満を受けたストレスからだった、といいます。)、盟友、大久保利通を始めとする明治政府の主要スタッフとは(維新後の)日本が進むべき方向性に関して意見が合わず、結局は、士族の不満、期待を一身に引受け、西南戦争に身を投じて人生を終えます。

  西郷さんもそうですが、時代を切り開く人々というのは、若い時分から不遇時代が長く、でも不思議なのですが(その時代が要求する、とでもいうのでしょうか)、その時代の変わり目に突如として社会の前面に躍り出て、その時の国の難事を ”いとも簡単に” 変革します。(いとも簡単に解決するようにみえます。)そして、いったん、その困難が解決し国が新しい方向を模索しはじめると、突如として社会の第一線から姿を消します。(例えば、黒人奴隷を開放し、南北戦争を終結に向かわせたアメリカ第16代大統領/リンカーン、ヒトラー率いるナチスドイツと対峙したイギリスのチャーチル首相、そして、今回の西郷さんなんかがそうですよね。)正に、天の采配というか「天命」を感じます。(でも勝手に思うのですが、そういった過酷な運命にも西郷さんは決して恨みとかは抱いていなかったのでしょうし、また、そういう西郷さんだからこそ、明治維新を成し遂げたのだと思います。)