指導者とは

       第37代アメリカ大統領、リチャード・ニクソン氏による国家におけるリーダー論(つまり国家指導者ついての考察)です。ニクソン大統領というのは、ベトナム戦争からの撤退、冷戦下のデタント(緊張緩和)政策、中国との国交樹立などの成果を上げた一方、選挙における民主党のライバル候補の追い落としの為、民主党選挙事務所に盗聴器を仕掛け、それが表沙汰になり(ウォーターゲート事件)、結局、政権二期目の途中で失脚した人物です。(このブログでは以前、ウォルター・アイザックソン著、ヘンリー・キッシンジャー氏の伝記「キッシンジャー ‐ 世界をデザインした男」(上、下巻)を取り上げたましたが、その中にも政権スタッフが仕事を進めていく過程で苦労した、ニクソン大統領の特異な性格が語られています。部下の電話盗聴とか、部下の功績に対する嫉妬。。キッシンジャー氏はニクソン大統領政権下において国家安全保障問題担当大統領補佐官を担当していました。)

  このニクソン氏の著書「指導者とは」は、名著として知られている国家指導者論で、日経新聞の「リーダーの本棚」でも何人かの組織トップ方が推薦書に挙げています。(本書は「20世紀最高のリーダー論」という評価さえ受けています。) とはいうものの、ニクソン氏については、前述したようにクセもあり、性格的にもどこか偏執的なところがあるように思えて、実は読むのにあまり気が進まなかったのですが、読後の感想は、あのニクソン氏が書いたのか? と疑いたくなる程の(素晴らしい)内容でした。まさかゴーストライターが書いたとも思えません。やはり、アメリカという超大国の指導者になるぐらいの人物は、表から見ただけではわからない内面の深いところに、優れた人間性、観察力、洞察力、論理性、倫理観などを秘めているのでしょう。

  本書において、まず最初の章、「偉大さについて」において、ニクソンは「偉大な指導者」について自己の考えを語っています。「偉大な指導者は、単なる力とともに、非常に高度な眼力をも必要とする、一種の芸術である。(中略)偉大な指導者は自らも奮起させ、彼をして国民を奮起せしめるに足る偉大なビジョンを必要とする。人々は偉大な指導者を、あるいは愛し、あるいは憎む。だが、どっちつかずではいられない。正しいことを知っているだけでは、十分でなく、正しい事を実行しなければならない。また、正しい決定に要する判断力と勘を持たない者も眼力不足のゆえに失格者となる。正しいことを知り得ても、それを為すことができない者も実行力なきゆえにやはり失格者である。偉大な指導者は、眼力とともに正しい事を為す力量を備えなければならない。経営者を雇ってやらせることは可能だが、進路を決め推進力を提供するのは、指導者だけの責任である。」(P15)「私が会った真の意味で強い指導者は、すべて英明、自己を律するに厳しく、勤勉で、満々たる自信を持ち、夢に駆り立てられ、他人を駆り立てる人であった。全員が地平線よりも先を見通すことができた。(中略)これからの世界は、第一級の指導者を必要とするはずである。よく言われることだが、歴史を学ぶのを怠った者は、歴史を繰り返す。逆に、一時代の指導者が先行者よりも遠く未来を見通せるのは、彼らが先人の肩の上に立つからだと言える。」(P16) 

       次章からは、ニクソン氏が公職に在る間に出会った各国指導者についての人物評が続きます。具体的には、イギリスのウインストン・チャーチル、フランスのシャルル・ドゴール、アメリカのマッカーサー元帥と日本の吉田茂首相、西ドイツのコントラート・アデナウアー、ソビエト連邦のニキタ・フルシチョフ、そして、中国の周恩来(毛沢東ではなく)を取り上げています。この中で私が興味を持ったのは、フランスのドゴール氏と日本の吉田茂首相です。ドゴール氏は、第二次世界大戦中から対ドイツのレジスタンスのリーダーとしてフランスを解放に導いた国家指導者ですが、なんとなく、やせ型、神経質で感情をすぐに表に出す指導者というイメージがあったのですが、難しい時期にフランスという世界屈指の教養と歴史のある国を率いた偉大な指導者として、ニクソン氏は評価しています。また、吉田 茂氏については、私的には今まで勉強不足で、戦後のアメリカの指導体制に従順に従った敗戦日本のリーダーというイメージがあったのですが、本書を読んで、アメリカ占領軍と日本国民の間に立って、柔軟に立ち回ったクレバーな指導者だと感じました。

  終章においては「指導者の資格について」必要な資質とは何か自身の考えを語ります。「指導者として大成する人は、強い意志を持ち、他者の意志を動かす術(すべ)を知っている。(本書において語った)指導者たちは、程度の差こそあれ、いずれも歴史に自己の意志を刻んだ人々だった。彼らが通常人より一段と高いところにいるのは、彼らがそうあろうと “願望” したからではなく “決意” したからである。この差が、権力とその行使をを理解するうえで非常に大切になってくる。願望は受け身だが、決意は能動。追随者は願望し、指導者は決意する。(中略)私は巨大な権力を握る人々は異質の人物であると考える。権力闘争に勝つためには、特別な人間でなければならない。いったん勝つと、権力それ自体が人物をさらに異質にしていく。」(P414)

 そして、この章の結びに。。

*指導者とは、いつ闘うべきか、いつ退くべきか、いつ所信を貫くべきか、いつ妥協すべき  か、いつ発信し、いつ沈黙すべきかを知らねばならない。

*指導者は、広い視野を持つと同時に、明確な戦略と目標とビジョンを持たねばならない。

*指導者は、全体を眺め、一つの決断と他の決断との関係を見極めなければならない。

*指導者は、先頭に立つべきだが、支持者が随(つ)いて来られないほど先頭であってはならない。

*悽愴苛烈な選挙戦では、指導者は支持者を前進させるとともに、どのあたりまで前進できるかを見定めなければならない。

  とまとめています。

  本書において特に一読に値するのは、やはり「偉大さについて」と「指導者の資格について」の両章でしょう。ここでは、大統領職を含む自身の公職期間を通じた培った超大国アメリカの指導者としての経験と世界各国で実際に活躍する国家指導者達と直接会い、学んだ自身の考えから語っているので、とても含蓄のある、深い洞察力に満ちた「指導者論」になっていると思います。 一般書店で目にする企業リーダー論とは違う、換言するなら、一企業と一国ではやはり、責任の重みが違うと言いますか、単なる部下の指導とか、利益の上げ方というような経済組織である法人における指導論より、もっと広い視野と歴史観、今の時代を考察する優れた能力、物事を洞察するための深い教養、哲学的な思考、、そういった総合的な人間の深さ、幅の広さから発せられた国家リーダー論のように感じました。

  最後になりますが、ニクソン氏は、公務期間中に知遇を得た指導者に共通している事実を一つ挙げています。それは何だと思いますか? それは「読書」です。「私が知遇を得た偉大な指導者にほぼ共通している事実は、彼らが偉大な読書家だったことである。読書は精神を広くし鍛えるだけでなく、頭を鍛え、その働きを促す。今日テレビの前に座って、ぼんやりしている若者は、あすの指導者にはなり得ないだろう。テレビを見るのは受け身だが、読書は能動的な行為である。」(P446)と話しています。そして、ニクソン氏も本書の中で、自分が政治家になるため、いろいろな指導者の自伝などを読んで勉強した、と語っています。