翔ぶが如く(全 10 巻)

      このブログでもたびたび紹介している明治維新の偉人、西郷 隆盛さんの物語です。この「翔ぶが如く」については「司馬 遼太郎さんが書いた西郷さんの物語」ということ以外何も知らずに読んだのですが、読み始めて意外というか興味深く感じたのは、司馬さんは西郷さんの幕末から江戸城の無血開城までの活躍をそっくり省略し、1877年の西南戦争を題材にしいる点です。換言すれば、新しい国を創造する西郷さんではなく、新しい国を破壊しようとする指導者(謀反人)としての西郷さんを描いている、という点です。

  そして、鹿児島の反乱軍士族の指導者で軍人としての西郷さんと、西郷さんに対立する明治政府の指導者達(大久保利通、木戸孝允、村田新八、岩倉具視、伊藤博文、山縣有朋、江藤新平、三条実美、西郷従道【西郷さんの弟】、川路利良等)との対立に焦点を当て、西南戦争の勃発から西郷さんの自決、そして大久保 利通の暗殺死までを描いています。

  西南戦争というのは、明治政府が行った廃藩置県等の一連の諸改革に比べ、歴史の教科書ではあまり取り上げない題材だと思いますが、実はこの西南戦争というのは当時、もし、これが起こったら出来たばかりの明治政府がひっくり返るかもしれない、というぐらい明治政府の指導者達が恐れ、しかし、実際に起こってしまった国家的な大事件だったのです。どうしてかというと、明治維新の立役者である旧薩摩藩の武士(士族)は時代が明治に代わり自分たちの特権(俸禄や名字帯刀、切り捨て御免など)が徐々に剥奪され、その士族の多くは失業状態にありました。その鬱積した不満を抱える鹿児島士族から信任の厚い西郷さんが、仮に鹿児島士族の指導者として明治政府に対し謀反を起こせば、新政府に対する不満を抱える全国の士族達が、この動きに同調し、明治政府に対して反旗を翻す恐れがあったからです。(そうなれば、アメリカの南北戦争のように日本国土を戦場にしかねない国内戦争に発展する可能性もあったのです。)

  時代は、年号が「江戸」から「明治」と変わり、明治維新を経験した明治政府の主要スタッフ(岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文等)は、1871年12月から今後の日本の在り方をヨーロッパの先進諸国の統治制度、法令、社会制度 から学ぶべく長期出張して日本を留守にします。(岩倉使節団) その間に、日本に残り留守政府を任された西郷さんは、当時の大改革であった廃藩置県を行い、「征韓論」を主張し、その全権大使として自らが朝鮮へ赴くことを訴え、閣議決定されます。

  「征韓論」というのは、元は当時、新政府が日本で樹立したこと、そして従来通り朝鮮と親善関係を保っていきたい、という新政府の意志を国書として朝鮮側へ渡そうとしたのですが、朝鮮側はその受理を拒みます。これに対し新政府(板垣 退助)が「朝鮮側の態度は許しがたい」として朝鮮へ出兵しようとした、対朝鮮外交のことです。 これに対し西郷さんは「(兵を伴わない)全権大使がまず、朝鮮政府へ丁寧に説得にあたり、同政府の熟慮を促そう。」と話し、自らがその全権大使になることを決めたのです。とはいっても、実際に朝鮮へ西郷さんが単身で行ったとしても、朝鮮の過激な反対派から暗殺される危険もあったのですが、その危険を承知の上で、朝鮮へ行くことを熱望します。

  勉強不足で詳しくはわかりませんが、当時日本はロシア帝国の領土拡張における南下政策を恐れていて、朝鮮を説得して共同でロシアに対処しようというのが、西郷さんの征韓論の意図だったようです。また、当時は、廃藩置県や、版籍奉還、秩禄処分等の一連の改革で、江戸時代の特権が廃止された士族のうっぷんがたまりにたまっていた時期でした。その士族が内に貯めていた不満のエネルギーをこの征韓論に利用し、その力を国の為に役立てる、ということ西郷さんは考えていたようです。新しい日本の国造りが新政府のもので進み始め、国の秩序が徐々に安定しだすと、西郷さんは、それまで維新を成し遂げるために一緒に戦ったかつての同志(つまり、明治政府指導者達)が蓄財や妾さんを持つのにうつつを抜かし、奢侈な生活にいそしむようになります。西郷さんは、仲間たちのそういった姿を見るにつけ、自分の時代が終わった(役目が終わった)と感じ、同時に維新という理想の為に、命を落としていった多くの同志たちを想うとやりきれなかったようです。さらに、旧薩摩藩の実質的な藩主、島津 久光から藩を潰したとして謀反人扱いされていた心理的負担も影響し、いつしか西郷さんは、自分の死に場所をその征韓論に求めるようになります。

  しかし、外遊から帰国したばかりの大久保利通、岩倉具視、木戸孝允等は、欧米の国力実力に圧倒されていたので、今日本は国力の増進に専念すべき、と西郷さんに反対し、決まりかけていた朝鮮派遣は反故になります。西郷さんは、その失意の中で、参議を辞職し鹿児島へ帰ります。鹿児島はしかし、当時、士族の不満が多い場所だったので、何かちょっとしたきっかけで、彼らが西郷さんを担ぎだし、反乱がおこるのでは、、という危惧を征韓論に反対した明治政府指導者は抱くようになります。西郷さんは帰郷後、鹿児島の仲間からの誘いを受け私学校(軍事学校)を創立するのに力を貸します。そして、政府が送ったといわれる西郷さんへの刺客(スパイ)事件をきっかけに私学校の生徒達が反乱を起こし、やむなく西郷さんもその動きに同調し、ここに西南戦争が起こるのです。

  戦争が起こってからは司馬さんの当時の資料研究や調査の丹念さ、物語の構築力の巧みさで、西郷さん率いる鹿児島の反乱軍と政府側の軍隊との駆け引き、政府の当事者たちの慌てぶり、反乱軍内の人間関係、戦闘場面、そして、反乱軍の敗走から西郷さんの自決まで、司馬さんは活き活きと描写していきます。司馬さんはいつも、登場人物の心理状況についてはあまり丹念な描写はしませんが、この作品においても、西郷さんが明治政府を捨て、故郷、鹿児島へ帰るあたりの心境の変化については、十分に描かず、その行動の様子は、他の明治政府の人物の動きや言葉を通して間接的に描かれます。実はこの鹿児島へ帰京する心変わりに限らず、全編を通して、西郷さんの心理的な推移というのは丁寧に描き切っていません。この物語を西郷さんだけの話にするのではなく、西郷さんに対立する大久保、伊東、大隈重信等、明治政府の指導者達の立場も丹念に描くことによって、年号を「明治」として再出発した日本の当時の指導者たち理想や考え方、葛藤、対立を西南戦争という大事件を通して大きな視点から、その時代に流れる空気感みたいなものを描きたかったのではないか、と感じました。(だからこそこの物語の最後も、西郷さんの自決ではなく、大久保利通の暗殺で終らせたのだと思います。)

  この「翔ぶが如く」において司馬さんは、西郷さんを日本の近代化に貢献した偉人、というより、新時代に取り残され、時代遅れになった朴訥な人間、己の死すべき場所を求める無口で武骨な軍人として描いています。