私の伯父さん、周恩来

   本書、「私の伯父さん、周恩来」の著者は、毛沢東の元で総理を勤めた周恩来(しゅうおんらい)の姪である周秉徳(しゅうへいとく)さん。秉徳さんは、幼いころに親元を離れ、周恩来夫妻に実の娘のように育てられました。家族の中での日常会話や団らんを楽しむ個人としての周恩来と中国共産党総理として、党(毛沢東)の方針と己の信念との間で揺れ動く総理としての周恩来という二つの視点から本書は語られます。周 恩来 という人物について知らない方も多いかと思いますが、周 氏は、1898年3月5日 江蘇省淮安府生まれの中華人民共和国(中国)の政治家です。中国共産党のリーダー、毛沢東が仇敵、国民党/蒋介石を台湾へ追い出し、1949年10月1日、中華人民共和国の建国を宣言して以来、1976年1月に死去するまで、一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた方です。周 氏は「毛沢東共産党主席の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。」と Wikipedia に紹介されていますが、独裁制を敷き、嫉妬深く、自らの権力維持に終生固執した毛沢東の側で一貫して政務・国務をこなし続けたのは並大抵の努力ではなかったはずです。文化大革命中には「四人組」(*1)から常に毛の国家主席の地位を狙う存在として攻撃を受ける立場にもあり、命を削り削り祖国のために尽力した政治家です。(*2)

  かつては、中国を蝕む保守勢力(国民党他)や外国勢力を排除し、新しい中国をつくろうという純粋な思いから出発した(はずの)毛沢東と周恩来。しかし、いつしか毛にとって、自らの権勢維持が一番の優先事項となり、中国人民は二の次と考え、国家主席の座を守るための政治抗争にあけくれるようになってしまいますが、周は、毛とは正反対で終始、常に人民を思いやる政治を行いました。(時には毛に逆らえず、不本意ながらも毛の粛清に手を貸すときもありましたが、)かつて、毛の粛清のため政治犯として牢獄に入れられた人々の釈放に尽力したり、死亡した共産党員とその家族のために名誉回復に奔走しました。また自らが膀胱癌にかかって余命があまりないとわかっている時期にも、それを周辺の人間には告げず外国の要人と会談を行なったり、執務を行なったりと、国と人民のために尽力しました。

  しかし、毛沢東の恣意政治が行われている、人々の心に暗雲が立ち込めている時期であってもやはり、共産党員や人民は周氏の偉大な人間性を理解していたのでしょう。76年1月の彼の死後の3月、天安門広場では周恩来の追悼集会が自然発生の形で起こり、参加する市民の数は日を追って増え、それにともない無数の花輪が人民英雄紀念碑に捧げられたのです。周氏の人民を思いやる思想、そして、「共産党員は人民の手本となるべき」と考える思想のため、親族には厳しく接したといいます。当時でも、共産党員の間でも親族に仕事の世話を頼まれると斡旋することは珍しくなかったのですが(共産党員の中でも許容範囲の行動でも)、周は、家族や親族に、共産党員は国民の手本とならなければいけない、と言って、(自分の親族には)仕事の斡旋は一切しなかったのです。また、共産員が周恩来の親族に必要以上の接待をする時にも、その共産党員と自らの親族に、「そういった必要以上の歓待を行う必要もないし、期待してはいけない」、と強く言ったそうです。元伊藤忠商事社長の丹羽宇一郎さんの本のどこかに、「本物のエリートとは、頭がいいだけでなく、『私』よりも『公』を大事にする、人のため社会のために尽くそうという気概を持った人間が本物のエリートだ。」という言葉がありますが、国やイデオロギーが違っていても、庶民を大事にする周氏がもし日本に生まれていたら、日本を代表する名宰相になっていたと思います。

  では、どうして周恩来は、社会主義、共産主義の道を歩むようになったのでしょうか?彼が自分の祖先を語っているところがありますが、これがその答えになると思います。彼の生まれた頃の中国は封建社会で、彼は落ちぶれた封建官僚家庭で育ったのですが、彼の家は、親戚に見栄を張るため、屋敷を抵当に入れたり、金目のものを質屋に入れたりと、とても窮屈な生活を送ったのです。彼は両親の見栄張りが嫌いでした。また、父親が宝くじで一等を当てたことがあったのですが、母親はその賞金で遊んだり、ぜいたく品を購入したりとやたら見栄や体面を気にするようになり、そのため賞金の大半を使い切り、債権者が取り立てにきたり、また、親戚や友達がお祝いと称し、母親の家へ来て、飲み食いしたり、物を勝手に持ち去ったりしたそうです。周の父母は引っ越しを余儀なくされ、(周の)幼少時は、借金まみれの生活だったのえす。「大当たりなんてしょせんつかの間の夢だ。まだ幼かった私は、なぜ当たる前と当たった後の生活がこんなに変わってしまったのか理解できなかった。だから私は小さい頃からずっと、この浮世の残酷さと冷たさを嘗め尽くしたんだ。」(P391)つまり、封建社会の人々の虚栄や贅沢にいそしむ姿を見て、いつしか社会を変えたいと考え、社会主義、共産主義に傾いていったのだと思います。(それは、彼の哲学でもある「家族を連れて無産階級に投降する」という言葉にも表れていると思います。)

  周氏は、人口の多い中国で、死んだ人間の墓に土地を使ったり、墓の管理に大切な人民の労力を使うのはもったいないと考え、「死後は遺灰を祖国の美しい山河、水土に撒く。」という周氏の生前の希望により彼の遺灰は海に撒かれたため、お墓はありません。周の記念碑がいくつかあるのですが、その最初の記念碑は、意外ですが日本で建てられたもので、京都嵐山にあります。周氏は若い時一時日本に留学していたことがあり、日中友好のシンボルとして建てられました。

(*1)四人組:毛沢東の政治思想に対立する(とみなされる)人物を見つけ、摘発する毛の側近4人で組織された親衛隊(そのうちの一人は毛夫人の江東)。この四人組も毛の絶対的信任を受けていたわけではなく、毛の歓心を常に買うように行動し、結果として毛の反感を買うこともあった。時には毛も困らせる暴れ馬的なやり方で共産党員や国民に対し恐怖を与えることに長けていた。

(*2)この辺のことは 周恩来研究家/高 文謙さんの「秘密文書は語る周恩来秘録」に詳述されています。

(下の写真/「秘密文書は語る周恩来秘録」【上】【下】)