現代中国の父 鄧小平(下)

     内向的性格(娘さんによる)で身長わずか150CM の鄧小平さんですが、中国の最高指導者として人民公社解体、広東と福建の門戸開放、さらにはイギリスからの香港返還を実現させ、一国二制度の導入といった大胆な経済主導型共産主義で中国を発展させていきます。香港返還については、1982年9月に、当時の英国首相/サッチャー氏と2時間半に及ぶ会談を実現させ、1997年の香港における即時中国の主権回復を勝ち取ります。この会談に臨むにあたり、サッチャー氏は、97年以降もイギリスの主権保持を考えていたのですが、後年この会談を振り返って「鄧の計り知れぬ威厳についつい圧倒された。」と周りの関係者に話したように、さすがの「鉄の女」(サッチャー氏)も鄧小平さんの香港奪還の決意と熱意に圧倒されたようです。

 先進国から自国の発展のために産業技術、科学技術を取り入れるとこに熱心だった鄧小平さんは実は1987年10月、日中平和友好条約の批准書交換のため来日を果たしています。当時は副総理だった(形式上は華国鋒さんがNO.1)のですが、事実上の中国の首脳として初めて訪日して福田赳夫首相らに歓待され、中国の指導者としては初めて昭和天皇と会見したのです。また、千葉県君津市の新日鉄君津製作所も訪れ、日本の製鉄生産技術に驚嘆し、松下電器産業(現/パナソニック)工場や日産自動車工場を視察し、後の改革開放政策に活かされたのです。また、日本の企業を保護し経済成長指導していた通商産業省(現/経済産業省)の役割にも深く感心したのです。(確かに、中国にこそこういった役割を果たす部門が役所があってもおかしくはないと思います。)海外視察に熱心な鄧小平さんは翌年88年1月1日のアメリカ合衆国との国交樹立後、すぐにアメリカを訪問します。カーター大統領との会談に臨み、ヒューストン・シアトル・アトランタなどの工業地帯を訪れ、ロケット・航空機・自動車・通信技術産業を視察。前年の日本訪問同様、中国の科学技術の立ち遅れたを痛切に実感した鄧さんは、改めて改革開放の強力な推進を決意したのです。

 このように文化大革命などで疲弊した中国を見事に右肩上がりの経済軌道に乗せた鄧小平氏ですが、改革派胡耀邦元総書記の死去に端を発した学生たちの政治改革運動には厳しい態度で臨みます(1989年6月4日に起こった「天安門事件」)。6月4日未明に中国人民解放軍は兵士と戦車で北京の通りに移動して、デモ隊の鎮圧を開始し、結果的には300人~2600人のデモ参加者が殺害され、負傷者は数千人に上った(外国の報道による)のです。この事件が発生した当時の軍には、市民によるデモを鎮圧した経験を持った軍人が少なかったのも悲劇を大きくした一因のようです。経済を解放し、アメリカなどの先進諸国から科学技術を積極的に導入するなどし、アメリカ的な人権思想にも理解があるようにも見える鄧小平ですが、やはり、11億(当時)の人口を擁する国のトップとして、厳しく対処せざるを得なかったのかもしれませんし、また、経済開放を積極的に進めていたため、この時ばかりはタカ派の意見を聞かざるを得なかったのかもしれません。(にわかには信じられないのですが)イギリスの機密文書によると「200人の死が中国に20年の安定をもたらすだろう」とも語ったと言われています。(Wikipediaより)

 当時の上海における学生デモを無難に処理した上海市党委書記、江沢民さんはこのデモ鎮圧により鄧小平さんから高い評価を受け、後年、鄧小平後から最高指導者のバトンを譲り受けることになります。