台湾海峡一九四九

  タイトル「台湾海峡一九四九」の「台湾海峡」とは、中国(の福建省)と台湾(中華民国)を隔てる海峡で最狭部で幅約130キロあります。また年号の「一九四九」年は、中国共産党の主席、毛沢東が天安門広場で建国宣言を行った年であると同時に、1945年から中国国内の内戦の敵、蒋介石をリーダーとする国民党(中華民国政府)を台湾へ追いやった年でもあります。


  本書は、この中国・台湾にとって激動期の転換点となった1949年を軸に、歴史の荒波に翻弄された人々の体験を調査し、その時代に生きた人々の苦闘、悲哀を鮮やかに描いています。とは言っても、今の我々日本人にとって、この1949年という年が中国や台湾の人々にとってどのような年だったのか、ちょっと皮膚感覚ではわからないところもあるのは事実だと思います。例えば、1949年、国共内戦に敗れた国民党政府軍と戦乱を逃れた民間人(一般的には「外省人」と呼ばれます。)が台湾へ移動しますが、その数は約200万人にも及びます。また、この「外省人」は、台湾の人口の10%程度しか占めないにもかかわらず、49年以降、台湾で支配的な立場に立っていきます(*)。そのため、先住民を含む台湾人にとって「外省人」を台湾に迎えるにあたっての思いは複雑であったと思慮しますし、一方の中国共産党から逃れてきた外省人にとっても台湾で生活することには不安や心配も多かったのだと思います。


  例えば、台湾で国籍を取得した人の名前には「台」(台湾の台)と言う字が入ってることが多いのですが、著者は読者に問いかけます。「では、親はどうして地名にちなんだ名前を子につけたのか?。。その子が大人になり、誰かと名刺交換すれば、それだけで彼、彼女が『よそ者』であることがわかってしまう。なぜなら地元の人間にとって、この地に暮らしていることは、至極当然、わざわざ地名をそこに刻み『はるばる来たぜ』と喧伝する必要などないのだ。」 著者世代の台湾人の場合、女性なら『麗台』『台麗』、男性なら『利台』『台利』という名を持つ人が少なくなく、そういった子供の両親は、ほぼ間違いなく49年に中国の内戦を逃れこの島へ流れてきたよそ者たちの一人だと著者は言い、次のように続けます。「想像して欲しい。新しい名が記された場所は、雨風をどうにかしのげるだけというぼろ屋で、外界は戦争の混乱と不安が支配している。この『台』の字には、終わりの見えない漂泊生活の苦しさと貧しさがにじみ出し、また同時に、一息の安定でも手にできたらという切実な思いが込められているのだ。」(P140)


  本書には、抗日戦(日中戦争)終了後、そのまま国民党と共産党の内戦に従軍し、国民党軍の敗退で台湾へ渡ってきた軍人、日本軍に従軍し、日本軍服を着て南方の捕虜収容所で監視員を務め、戦後、軍事裁判で戦犯として裁かれた台湾人、、などのエピソードや、日本人にはあまり知られていない中国本土の内戦(長春包囲戦[ちょうしゅんほういせん]、済南戦役[さいなんせんえき]、淮海戦役[わいかいせんえき]などを体験した人々の話も出てきます。当時は国民党も中国共産党も軍隊のロジスティクス(物資補給)のほとんどを、マンパワー(つまり農民である人夫)に頼っていたようで、どちらの軍も行く先々で、とにかく農民を見つけたら、その人の信条はお構いなく物資や賃金の支給を約束し、無理やり従軍させてたようです。また、そうやって従軍らせられた人々もその約束が口先だけなのがわかると、脱走におよび、見つかって殺されることも日常茶飯事であったようです。


  このように、この頃の中国内戦については、軍のトップの人間の中には当然、己の信条、国の将来を憂いて戦った人もいたのだと思いますが、外省人、台湾人の人々にとっては、軍隊で戦うことに意義を見出せず、ただ故郷を失い、財産を失い、家族を失った、という喪失感と敗北感を背負った人々が多かったのではないでしょうか。。そして、歴史的には勝ち組になるはずの(本土の)中国人も真の意味での勝者ではなかったはずです。なぜなら、後年、中国では、毛沢東の下、大躍進政策や文化大革命が進められ、その結果、多くの国民が、強制労働や餓死を含め、多大な苦難を強いられるからです。


  本書では、離散する人々や生活する場所を次々と変えて流転の人生を歩む人々の心情が、きめ細かく描かれていますが、この筆致は、おそらく著者の龍 應台(りゅう おうたい)さんが、女性であることに起因しているのかも知れません。龍さんについてWikipedia では次のように紹介しています。「龍は台湾のエッセイスト、文化評論家。彼女の辛辣で批判的なエッセイは台湾の民主化に貢献し、中国本土の主要新聞にコラムを持つ唯一の台湾人作家として、中国本土でも影響力のある作家となっている。著書は17冊ある。」


  最後に、この「台湾海峡一九四九」で龍さんが読者に一番訴えたかったと感じた言葉をエピローグから引用します。

  「つけは多すぎて払いきれず、恩は多すぎて返しようもなく、傷は多すぎて塞がることはなく、失ったものは多すぎてどう埋め合わせても追いつかない、、理不尽な仕打ちはただただ多すぎて、それでも六十年間、一言の謝罪も聞こえてこない。。。

 どの戦場にいようが、どの国家に属そうが、誰に尽くそうが、裏切ろうか、ましてや勝者、敗者だろうが、正義、不正義をどう線引きしようが、どれも私には関係ない。すべての、時代に踏みにじられ、汚され、傷つけられた人たちを私の兄弟、姉妹と呼ぶことは、何一つ間違ってないんじゃないかしら。。」


(*)台湾の人口構成:漢人75%、外省人13%、客家人12%、先住民1.2%、人口約2,400万人