ローマ人の物語Ⅲ 勝者の混迷

  塩野七生さんの「ローマ人の物語」シリーズ(全15巻)の第三弾では、ライバル国カルタゴも倒し、順風満帆に地中海の覇者として成長しているように見える共和制ローマの根本的な矛盾が浮き彫りになります。


  共和制ローマでは、その始まりの前509年以降、貴族と平民(持てる者と持たざる者)間の軋轢が内在していました。貴族階級は平民に比べ、政治的にも経済的にも圧倒的に優遇されていたからです。ローマは、その階級間の軋轢を前367年のリキニウス法(すべての公職を平民に開放する)や 前287年のホルテンシウス法(平民集会での可決事項をそのまま国の法律とする)などの制定、さらに平民階級の利益代表職「護民官」に選ばれた人に、護民官辞任後、元老院に議席を自動的に与えることなどで、平民階級の不満解消に努めていました。また、戦争の「開戦」「終戦」の決定事項も市民集会で決められ、「執政官」他全ての重要官職も市民集会の選挙で最終的に決まることになっていたので、こういった面では確かに表面上、平民階級との公正を保つ努力はしていたのです。


  しかし、第二次ポエニ戦役終了後の前200年の頃からその状況は変わってきます。同じローマ市民でも、元老院階級に属する人々(貴族)と属さない人々(平民)の階級間の移動がなくなり、固定化が始まったのです。また、「元老院」は、もともと王への助言機関として生まれたので政策決定の力はなく、理論的には「主権在民」だったのですが、それがポエニ戦役という戦時の非常事態のため、元老院に権力が集中し、貴族階級が利益や権利を享受するようになる一方、3回におよぶカルタゴとのポエニ戦役は、ローマに勝利をもたらしたにせよ、経済的な疲弊もローマにもたらしたのです。


  兵役で男たちが戦地へ赴いている間、女性、子供に任されていた農地は荒れ放題。このため、収穫が乏しくお金に困った農民は土地を手放します。その結果、貧しい農民所有の土地は上流階級の人々の元に集まり、持てる者と持たざる者との格差が一層拡大します。土地を失った人々はローマなど都市部に流れて行き、農民は減る一方。農民が減るということは生産力の低下とともに、兵士の補充に支障をきたすことにもなります。都市では失業者も増大します。このような状況から経済構造が変化し始め、ローマ社会は不安定になり、経済不安を引き起こします。


  この憂慮すべき状況に起ちあがったのがグラックス兄弟です。この二人は第三次ポエニ戦役の若き英雄、スキピオ(スキピオ・アフリカヌス)の娘コルネリアを母に持つ生まれで、スキピオの孫にあたります。二人の父センプロニウス・グラックスは、造営官、法務官を歴任。貴族ではないものの、非常に裕福で、兄弟は何不自由のない環境で育ちます。兄ティベリウスは前163年の生まれ。この兄の九年後に弟ガイウスが生まれます。このガイウスが生まれた年、父センプロニウスが死去。実はセンプロニウスとコルネリアは年の差が27ありましたが、非常に仲睦まじい夫婦で夫の死後もコルネリアは再婚せず、子育てに専念。「子は母の胎内で育つだけでなく、母親のとりしきる食卓の会話でも育つ。」と語った女性で、ローマ人の間では長くローマの女の鑑と讃えられた人物です。


  紀元前134年、29歳になった兄ティベリウスは、護民官に立候補し、当選。任期開始早々農地改革に乗り出します。彼が提案した農地法の主旨は「一家全体の農地所有面積を最高1000ユゲルム(250ヘクタール)とし、それを超える農地を所有している者は国へ返還する。そして、その返還農地は希望する農民に再分配する。」というものでした。この法案は、多くの農民の農地所有平均面積が、わずか30ユゲルム(7.5ヘクタール)であった当時において、「少数の裕福層へ吸い取られていた土地を多くの貧しい農民へ再分配する」、という実に正当かつ、社会的公正に則った改革案でした。しかし、戦争時に農民から譲渡された土地を所有していた貴族階級の人々は、正直面白くありません。そのため彼等は初めは静観を装います。この法案を機に元老院派はティベリウスに対する反発を強めていきます。この後、ティベリウスの提出した法案に対し元老院議員派は猛反対し、一方のティベリウスは市民代表としての立場を半ば強引に貫こうとします。この二者間の軋轢が遂に顕在化、前132年、護民官の再選選挙の当日、民会の後のカピトルの丘で悲劇が起こります。感情的になった元老院議員派の人々とティベリウス派の人々の間で乱闘が始まり、ティベリウスは彼の300以上の支持者と共に惨殺され、その死体はティベレ川に投げ込まれたのです。


  兄ティベリウスの死から10年後の前123年、弟ガイウスが護民官に選出されます。ガイウスは、兄の残した農地法を生き返らせようと決意。兄の死後、形骸化していた農地法の市民集会での再可決を目指します。そしてこの他、国家が一定量の小麦を買い上げ、それを市価より安価で貧困層に配給する「小麦法」、いかなる緊急時における十七歳未満男子の徴兵の禁止や、兵役中の必要物資の国家負担を盛り込んだ「軍隊法」など、兄ティベリウスの遺志を継ぎ、よりラディカルな改革を推し進めようとします。


  また当時、政治の最高ポストで元老院議員から選任されていた「執政官」は、その任期後、ローマ周辺のローマ属州へ赴任し「属州総督」に就任していたのですが、この属州総督の不正にもメスを入れます。実はこのローマから離れた地方での「属州総督」の不正、横領は、半ば公然の事実として黙認されて「既得権化」していたのです。建前上、属州総督の不正に対し属州民にはローマの裁判所に対し、告発する権利が与えられていたのですが、この裁判の判決を決定的にするのは、陪審員の評決でした。しかし、当時の陪審員のポストは、元老院議員が独占していたため、判決は常に属州総督有利なものになっていたのです。ガイウスは、この陪審員を経済階級市民(エクイタス/騎士階級)のみに担当させるとした「陪審員改革法」法案を成立させようとしたのです。

  更には「ローマ市民権」をローマ市民だけでなく、ラテン市民権所有者にも与える、という「ローマ市民権の拡大」も考えます。しかしこれには、元老院も「ローマ連合」の解体であり、元老院を主体とするローマ共和制への挑戦である、と考え危機感を強くします。こういった一連の改革法により元老院議員たちは既得権喪失という危機感を強くし、反グラックスに向かって一致団結。そして前121年、カピトリーノの丘に集まっていたグラックス支持派と元老院派の一部の支持者が暴徒化したのが引き金となり、元老院はローマ史上初めての「非常事態宣言」を発し、グラックス派に反国家行為者の汚名を着せます。結局、ガイウスは、自害して果て、その遺体は兄ティベリウスと同様、ティベレ川に投げ込まれ、更にガイウスの首はフォロ・ロマーノの祭壇の上にさらしものにされたのです。

  

  ガイウス死後の、彼の支持者に対する弾圧は、兄の時より徹底していました。ガイウス支持者と見なされた人々は裁判も受けずに死刑となり(約3000人)、彼らの資産も没収、未亡人たちは喪服も身にまとうことすら禁じられたのです。。。このガイウスと兄ティベリウスのグラックス兄弟、二人とも人格者であり、自身の私利私欲ではなく、ローマ市民の生活向上を願うという純粋な想いからローマの改革に挑んだわけですが、結局は、保守派(元老院を牛耳る貴族階級)に敗れ悲惨な最後を迎えたのです。


  「保守派と改革派の軋轢」というテーマは、どの時代、どの国でも繰り返されるものですが、特にこのグラックス兄弟の悲劇に関して思うのは、グラックス兄弟の改革に対する保守派の赤裸々で感情丸出しとも言える「憎悪」です。同じローマ人。そして立場は違えど、国の為を思う気持ちは共通であったはずです。なぜ元老院派は良識ある若者に対しこのような酷い仕打ちを行ったのでしょうか。。。この保守派に対して、著者、塩野さんは次のように記述しています。「紀元前120年当時のローマの元老院は、ハンニバル勝った百年前の元老院と同じことしか考えていなかったのである。イタリアが、全地中海の支配者であらねばならない。ローマが全イタリアの支配者であらねばならない。元老院が、全ローマ市民の指導者であらねばならない。、、、、これは一種の鎖国主義である。ポエニ戦役での勝利が、勝者ローマ人を、精神的な鎖国主義に変えたのであった。」(P77)


  塩野さんは、一方グラックス兄弟について次のように語ります。「二人の短い実働機関に実行された改革のほぼすべてが無に帰してしまったとしても、(彼等兄弟は)新時代に入ったローマにとって、最初の道標、つまり一里塚を打ち立てたのである。これが彼らの歴史上の存在理由である。なぜなら、ローマ人も紆余曲折はしながらも、結局は兄弟の立てた道標の示す道を行くことになるからだ。。。」(P80)


  ローマではこれ以降、平民派と元老院派の対立が激化。元老院を中心とするそれまでの体制は機能しなくなり、元老院の求心力が低下します。それに伴い、ローマでは内乱が起こり、周辺諸国ではローマ打倒の反乱気運が盛り上がります。この時期、ローマはガイウス・マリウス、スッラという二人のリーダーを擁し、周辺国の反乱や内乱の平定しますが、塩野さんの語る通り、その後ポンペイウス、クラッスス、そしてカエサルが登場。「帝政ローマ」の端緒となった三頭政治が始まり、元老院派は否応なく、改革の大波に揉まれることになるのです。