我が闘争(上)(下)

  20世紀の禁書(?)アドルフ・ヒトラーの「我が闘争」です。 うーん、、この本については、今(現代)でもいろいろ言われているので、ここに書くべきかちょっと迷ってのですが、やはり書くことにしました。通常ここにあげるのは、その書籍に対しポジティブな感想を持って、その意欲から書くのが通常なのですが、「我が闘争」の場合は、20世紀最大級の過ちを起こした男がどのような考えを持っていたのか、どういった思考回路をもっていたのか、、、そういった、本書を自ら読まないと永久に知りえない彼のマインドを知りたかった、というのが一つと、そいうったヒトラーのような特異な独善的思考方法を自分の頭の中に構築しないため、簡単に書くと「反面教師」の材料として読む意義がある、と考えたからです。


  ということで読んでみた読後の感想は「疲れた。。」の一言でした。ヒトラーの考えが独善過ぎるところ、ある物事を「事実」と決めつけてかかり、その彼が自称する「事実」をさらに自分独自の考え(偏見)というフィルターでさらに歪曲して主張する、、というところが散見されますし、また、主張繰り返しや、まとまりがないようなところもからです。(本書は、ヒトラーが国事犯として拘置所に収容されていた時分に、協力者のエミール・モーリスと後のヒトラーの片腕、ルドルフ・ヘスを相手に口述する形でつくられたようですが、おそらく二人も口述筆記の過程でヒトラーが真実を歪めたり、独善的な主張を繰り返したりとかで、、ずいぶん手間取った(困った)のではないか、、と勝手に推測してしまいました。)


  さて、本書の内容に戻りますが、まず私が感じたのは(これは当時の政治家の傾向なのか、、彼だけの傾向かわかりませんが)、国をどうやって成長させるか、という問題について、ヒトラーの視点だと、「経済発展により国を成長させる、」という考えが全くありません。現代では、アメリカや中国を見てもわかる通り、どの国も主義、信条などよりも(一昔前とは異なり)まず、自国民の生活を豊かにすることを第一目標にする「経済至上主義」を掲げることが普通だと思います(よほどの小国を除いては)。実際、ヒトラーは本書のいろいろなところで、「経済的平和的征服など無意味」とか、「国家は特定の経済観や経済的発展とは無関係」などと主張しています。では、彼の考える匡にとって一番良い政策とは何だったのでしょうか。。。彼は本書の上巻で「ドイツの国土開発」と言っていろいろ書いている箇所がありますが、ここで彼は、ドイツ国内の土地開発だけでは不十分で、「新しい土地の獲得こそ、特に無限に多くの利益がある、」と言っています。要するに、「国の土地を分捕り、そこにドイツ移民を住まわせて、そこで人口を増やし農地開発なり、資源開発をやらせる、ことが国を豊かにすることである、と考えていたようです。特に「東方進出」という言葉を何度となく繰り返していますが、このころからマルクス主義のソ連侵略を考えていたのかも知れません。 現在、ロシアは、歴史的視点からウクライナの併合を正当化しようとしていますが、ヒトラーの場合は、歴史的正当性とかの理論武装などお構いなしで、自国の「領土拡張」が国の成長をもたらす、と単純に考えていたようで、ちょっと怖い。(まあ、おそらくは、当時の日本軍部の中にもそうった考えの人間はいたのかも知れませんが。。)


  「経済」に重要性を置かない、ヒトラーは、「資本主義」についても、ユダヤ人の経済活動と関わっている(陰謀めいた)活動であるかのような独特な考え方を持っていて、本書の中で何回となく繰り返されています。(「国際金融資本は、ユダヤ人が牛耳っている」とか、「現体制派は、マルキシズムと結託し、過去からの利益を享受し、国際資本主義者と手を組んでいる」、、等々) 彼は、別のところで、国家とは、「種の発展維持と自己存在の目標を達成するための生物の共同社会組織であり、経済はその目標を達成するための数多くある補助的手段の一つにすぎない。」と書いているだけあって、彼にとって「資本主義」とは所詮「絵にかいた餅」のような、あまり現実的ではないものだったのかも知れません。


  彼は、「国家とは、永遠に、種と人種の保存意思の線にある本性活動の結果」であるとし、人が行ってきた根本的活動とは、人種間の優越の差を決めるための競争であり、その競争においては最も優れているもの、より強いものが勝利すると考えます。そして、人類全体を「文化創造者」「文化支持者」「文化破壊者」の三つに分け、アーリア人種(*)こそ人間文化の最初の担い手であり、文化創造者である、と考えます。そして、アーリア人種の優越性を説明するのですが、そのアーリア人種に他の民族の血が混ざると、人種的な質が劣化すると過激な主張を行い、その中で彼独自のユダヤ人批判を展開します。 ではヒトラーは日本人をどう見ていたのでしょうか。。。実は本書で日本人について言及しているところがあります。ここでヒトラーは、所詮、日本文化は、ヨーロッパの科学と技術が日本の特性によって装飾されただけのもので、結局のところ(表面的には独自に見える日本文化も)突き詰めればアーリア民族の強力な科学・技術的労作であると規定しています。(つまり,彼が言わんとしていることは我々日本人は、アーリア人種よりも劣っている、ということなのだと思います。)このようなアジア軽視、日本軽視を主張している人間が指導者であった国とよく日本は同盟関係(日本、ドイツ、イタリアの三国同盟)を結んだものだと思います。


  ヒトラーの本書におけるユダヤ人蔑視については、ここでは省略しますが、この中で(ヒトラーが)ユダヤ人は、日本人をどのように考えているか、語っているところがあるところがあります。ここで彼は「(ユダヤ人は)、日本のような国家主義国家をヨーロッパで彼ら(ユダヤ人)がおこなったような掘り崩し、雑種化はできないことをよくわかっているので、そのためにも日本が絶滅されるように願っている。」と考えています。この他、この「我が闘争」においては、当時のヨーロッパ諸国の政治情勢やそれに対するドイツの当時の政権党への批判、政治運動や労働組合や、政策宣伝の活用方法、国家社会主義などについて持論を展開しています。(残念ながら、当時のドイツの状況等が個人的にいまいち勉強不足なのでヒトラーの主張にもわからないところがありました。)


  最後に本書を読み終えて全編を通じて感じたのは、ヒトラーが当時のドイツ社会に対して抱いていた「怒り」というか激しい憎悪のようなものです。現代の常識からすると、こいうった偏狭で、独善的保守主義者が国のリーダーになること自体、ちょっと考えにくいのですが、おそらく当時、戦勝国が押し付けたドイツの戦争責任を規定する条約である「ベルサイユ条約」締結後、第一次世界大戦の敗戦国ドイツ国内には、鬱積した絶望、不満、不安、悲しみ、怒り、といった負の感情が相当蔓延していたのだと想像します。


  実際、ヒトラーはこの著書の口述中は、ワイマール共和国のバイエルン州政府への反政府活動を行った罪で刑務所服役中だったのですが、当時のドイツ民衆は、反政府活動を起こしたヒトラーを英雄視し、刑務所内でも大物待遇で、監視の目も彼には相当緩かったのです。大戦で敗北し、列強国の支配下でのドイツ民衆の日常生活が、弱肉強食的で、非情で、濃淡がとても濃い格差社会だったからこそ、ドイツ民衆は、国際社会を恨み、社会を恨み、そして、それをエネルギーとしてのしあがっていくような、ヒトラーに共感を覚えたのかも知れません。そして、そうやって考えると「我が闘争」という書籍には、ヒトラーだけでなくヒトラーを支持した当時のドイツ民衆の戦勝国に対する「怒り」がこめられているようにも感じました。。。


(*)本書の解説において本書においてヒトラー言うアーリア人ですが、もともとは「ヨーロッパの大部分、小アジア、ペルシア、インド、アフガニスタン地方に住むインド・アーリア語を話す人種のこと」でナチズムでは、ユダヤ人と区別するために用いていたようですが、ヒトラーは(本書において)その中でも特に「ゲルマン的要素」(アーリア人種の一氏族であるドイツ人)をもっている人々のことを「アーリア人種」と言っているようです。