十字軍物語 四

  聖地エルサレムではなく、エジプト攻略を目標にした第5次十字軍(1218年ー1221年)の失敗後、ローマ教皇ホノリウス三世は、第5次十字軍遠征を誓いながら出発しなかった神聖ローマ帝国皇帝、フリードリヒ二世を非難し、新たな十字軍遠征を行うよう促しますが、そのホノリウス三世が死去します。新教皇で強硬派のグレゴリウス九世は、十字軍遠征を引き延ばすフリードリヒを、ついに誓約違反として破門にします。神聖ローマ帝国皇帝にとって、キリスト教会からの「破門宣告」を受ける、ということは、ある意味「死刑宣告」と同等の重みがあり、キリスト教世界からの追放のような意味合いを持っていました。この「破門」をなんとか解除してもらうべく遂に彼は十字軍遠征へ出発することを決意します。(1228年)


  イタリア半島の南にある沿岸都市、ブリンディシから海路で中近東の港湾都市アッコンへ到着したフリードリヒ。彼は神聖ローマ帝国皇帝では最初のの十字軍参加者であり、その彼がヨーロッパからはるばる海を渡ってやってきたことに、現地十字軍国家の人々は熱狂します。


  しかし、彼がローマ教皇から受けた「破門宣告」のことを知った現地のキリスト教徒は動揺を隠せません。宗教騎士団である聖堂騎士団(テンプル騎士団)、病院騎士団(聖ヨハネ騎士団)のメンバーは、妥協策として「皇帝への協力は、皇帝の名の下においてではなく、神とキリスト教徒のため」という条件付きでフリ-ドリヒに協力することに決めます。また、この頃はドイツ貴族出身者がメンバーであったチュートン騎士団(ドイツ騎士団)という宗教騎士団も活動していました。彼らは、もともとローマ法王の管轄下にはなく、神聖ローマ帝国皇帝に服する騎士団で、彼らはフリードリヒを全面支持することに決めます。


  このように異教徒との戦闘の準備を進める現地のキリスト教徒の軍勢ですが、実は彼フリードリヒには戦闘以外の別の思惑がありました。それは、イスラムとの共生(講和)です。彼は遠征前から当時のイスラムのスルタン、アル・カミ―ルと極秘裏に接触し、講和を模索していたのです。アル・カミ―ルは当時兄弟との主導権争いの最中で、キリスト教勢力との対決に注力できる状態にはなかったのです。遂に講和は成立(1229年2月)。 フリードリヒは、無血でエルサレム、ナザレ、シドン、ヤッファ、ベイルートを割譲する条件で10年間の休戦条約を締結します。


  しかし、この講和も第三次遠征の獅子心王リチャードの時と同様、キリスト教徒側における評価は低かったのです。(「イスラム側がこれほど弱気なら戦闘で勝利すれば、旧エルサレム王国領全てを取り戻せたかも知れない」、「最初から馴れ合いであり、十字軍の目的はイスラム教徒と戦うことである」、「城壁もないエルサレム(1217年にイスラム側により破壊されている)といくつかの都市を返還されても、これを維持するのは難しい」と言った批判が行われた。/ Wikipediaより) ローマ教会もこの「戦わずして得た講和」に対し厳しい評価を下します。なぜなら、ローマ法王庁の考えでは、聖地パレスチナも聖都エルサレムもキリスト教徒が血を流し、命を捧げるリスクを取って「解放」されることにこそ意義があるからです。そういった意味で、リチャードとフリードリヒを比べた場合、サラディンと闘った末に「講和を勝ち取った」リチャードの方が、戦わずして「講和を拾った」フリードリヒに対する評価よりもまだローマ法王庁の評価は高かったのです。


  おそらく、ローマ法王庁が十字軍指導者に求めていたイメージ像は、キリストがそうであったような「殉教者」のようなリーダーであったのかも知れません。そして、聖都は彼ら指導者が悩み、傷つき苦難、受難の末にこそ得るべきものであったのでしょう。このような「殉教者」のイメージを当時のローマ法王庁が十字軍指導者に対し期待していたことを伺わせるのが、次の十字軍(第七次十字軍)遠征の指導者に対する評価です。


  フリードリヒとアル・カミ―ルとの講和から10年以上たった1244年、エルサレムは再びイスラム勢力により陥落します。しかし、当時のヨーロッパでは、このエルサレム陥落による、新たな十字軍遠征を待望する盛り上がりは見られませんでした。神聖ローマ皇帝でエルサレム王でもあるフリードリヒ2世は以前からローマ教皇と対立したまま。イングランド王ヘンリー3世は、内乱の対応でそれどころではなく、また、当時のヨーロッパの人々は第1回十字軍遠征の頃に比べて豊かになっており、宗教的情熱(熱狂)は人々の間から失われつつあったのです。そんな中にあって、一人崇高なキリスト教徒の精神をもっていたフランス王、ルイ9世は、エルサレムの総主教から届いた十字軍派遣要請を受けたローマ法王、インノケンティス四世からの十字軍派遣要請を快諾します。信仰深いルイはこのローマ法王からの十字軍派遣の要請を受ける前、実は大病を患っていました。この大病中彼は神に誓いを立てたのです。「もう一度健康を取り戻せるなら、十字軍を率いて異教徒との戦いに向かう」と。そうしたらなんと、ルイの病気は全快。これで彼の神への想いは確信へと変わります。「神は私にそれを望まれているのだ」と。


  西欧キリスト教会の栄光と期待を一身に背負ったフランス王ルイ、そしてルイ自身が信心深い指導者ということもあってか、ルイに同行する十字軍遠征のメンバーも、そうそうたる顔ぶれがそろいます。夫ルイに同行する王妃マルグリット、ルイの弟アルトワ伯ロベール、もう一人の弟アンジュ―伯シャルル、末弟ポワティエ伯アルフォンス、ルイのいとこにあたるブルゴーニュ公ユーグ。。この他イングランド、スコットランドからも諸侯達が顔を揃えました。これら指導者、兵士他含め総勢二万五千という布陣でヨーロッパを後にします。


  到着したパレスチナで、ルイ9世はエルサレム奪還の前に、まずエジプト攻めを優先すべきと判断します。なぜならエルサレムを奪還できても、その後エジプトのイスラム勢が繰り返し攻撃を行ってくればエルサレムの防御は難しかったからです。


   ということで、1249年6月にエジプトに上陸し、海港都市・ダミエッタに攻撃をしかけたルイ9世。彼はこのダミエッタの攻略を容易に成功させますが、このあと、ナイル川の氾濫によって6ヶ月ダミエッタで足止めを食うことになります。この間、彼は弟ロベールの進言を聞き入れカイロ攻めを次の目標とします。そして、待ちに待ったカイロへ進軍する時がやって来ます。ダミエッタからカイロには途中にマンスーラという都市があるのですが、ルイの弟ロベールはダミエッタでの戦闘の余勢を買って、マンスーラを一気呵成に陥れようとあせります。しかしここで、第七次十字軍の運命の分岐点が訪れます。


  イスラム側はマムルークと呼ばれる元奴隷の戦闘部隊をマンスーラで待機させます。彼らは生存のためには手段を選ばず敵を容赦なく殺害する兵士です。彼らは、マンスーラの門を開けて十字軍の兵士を町の中に誘導、一気呵成の勢いの十字軍は、敵を探し市内深く進入します。しかし、城門内の道は幅が狭く入り組んだつくり。ここで騎上姿の十字軍兵士に立ち並ぶ建物の屋上から一斉に矢が射られ、岩石が投げつけられます。動きの取れなくなった十字軍兵士たちはマムルークの格好の餌食となってしまいました。この日の終わりナイル河には、マムルークが投げ込んだロベールやテンプル騎士団員など十字軍兵士の死体が横たわる姿がありました。。。


  マンスーラの惨劇から数日後、周囲を水路に囲まれる悪条件の地帯に設営されていたルイの本陣をマムルーク兵が襲撃します。なんとか撃退に成功するルイ。しかし、イスラム勢は、ルイの本陣の補給路を断つことに成功。これによりルイの軍隊は食と水が欠乏し、病人も増え始めます。遂にルイは撤退を決意。まずは休戦交渉を行なおうと、その条件としてダミエッタとエルサレムの交換を申し入れるルイ。しかし、にべもなく拒否されてしまいます。

  ここからルイ陣営にとって耐えがたい撤退行が始まります。まず、負傷者を乗せた船を先行させるルイ。撤退軍の後衛は、ルイ自らが指揮を取ります。しかし、執拗な敵の攻撃とその心労から遂にルイ自身が倒れ、彼自身が負傷者と一緒に運ばれる身となってしまいます。ここでルイは、執拗な襲撃を続けるマムルーク隊長に休戦を求めることに決め、モンフォール伯とその一隊を交渉に送り出します。しかし、この交渉は全くの予想外で最悪の結果をもたらします。どういう経緯か釈然としないのですが、あろうことかモンフォール伯に同行していた部下がモンフォール伯にも相談せず、降参の意思表示をマルムーク兵にしてしまったのです。この一部の部下がイスラム側に伝えた「降参」の意思表示ですが、それに反対した撤退軍の兵士は一人もいなかったようです。つまり、撤退中の全兵士が従順にその後のイスラム兵の投降指示に従ったということです。ということは、この時までにルイ率いる部隊は、組織的に崩壊していたということなのでしょう。。。


  このような十字軍全体が捕虜になる、という信じ難い事態は、当然ですがこれまでの十字軍の歴史上、一度としてなかったことでした。捕虜となった総数は一万を超えるとも伝えられます。ルイを始めとする十字軍高位のメンバーは、屈辱の都市マンスーラへ連れて来られ町の有力者の屋敷に収容され、マンスーラにある家屋だけでは収容しきない兵士はカイロまで連行されました。イスラム側との交渉によりダミエッタ他の都市の放棄と莫大な身代金(百万ビザンチン金貨)を支払うことで捕虜解放の合意を得たキリスト教側。40万ビザンチン金貨を支払ったところで、ルイは釈放されます。この捕虜解放の経過途中、イスラム側はクーデターのため指導体制がアユーブ朝からマメルーク朝へと変わったり、ルイ側では捕虜解放の金策に追われ資金の用立てを宗教騎士団に頼ったり、、といろいろなエピソードがありました。さて、肝心の捕虜の開放に関してですが、ある程度まで集めた身代金の残額を支払い、その額に応じた捕虜の保釈が行われ、残った捕虜については親族を通して払ったり、支払いができなかった捕虜はイスラム教へ改宗したり、など一人一人の兵士のその後の人生に大きな影響をもたらしました。


  この第七次十字軍の失敗により、ヨーロッパでもこれ以後、十字軍の熱は急速に冷めてしまい、シリア・パレスチナ地方では、宗教騎士団の人員・資金力を含めキリスト教勢力全体が弱体化します。そしてルイはこの悩める殉教者としてのイメージを幸か不幸か得ることに成功し、ローマ法王により「聖人」に列せられる名誉に預かります。


  ということで、これまで十字軍の第一次~第七次遠征まで簡単に見てきました。。うーん。。最初の出だし(一回目の十字軍)は良かったのですが、その後七回目の十字軍に至るまで、結局は聖地エルサレムや他シリア・パレスチナ沿岸都市の奪還という明瞭な成果は得ることが出来ないまま終わってしまいました。(実はこの第七次の後の1270年、もう一度ルイは十字軍を編成し、チュニジアを目指しますが攻撃途中で死去。この十字軍も挫折して終わります。)ヨーロッパのキリスト教諸国の中心となる指導者が、キリスト教の総本山であるローマ法王庁のお墨付きを得て、民衆も熱狂して送り出した十字軍、、なのにどうしてこのようなみじめな結果になったのでしょう。。。。


  中近東という西欧の気候や文化が極端に違うアウエイの戦いが原因だったのか、、、ローマ法王の判断があまりにも他宗教=異教徒だから排斥して当然という(傲慢さ?)からきていたのか、、当時の人々の心情は測りかねるので何とも言えませんが、やはり思うのは、他者の宗教なり、価値観なりを完全に排除する考え方に無理があったのだと思います。時に人は同質なものに固執し、ちょっとでも自分の意にそぐわないと排除したくなる、ということがあります、言い方を変えると人は「純粋」なものを求める時、その中に少しでも自分の意にそぐわない、理解できないものがあるとそれを「不純」なものと考え徹底的に排除する。。特に神を信仰する場合、そういった純粋性を人は徹底して追い求めてしまうのだろうと思います。私は熱心な特定の宗教信者ではありませんし、十字軍については初心者なのであまりたいそうなことは言えませんが、やはりリチャードやフルードリヒのような一見弱腰とも見えるかも知れない、でも共存共栄の道こそが、現実的で無理のない、、長い目で見れば一番良い判断のように思えました。