ロレンスがいたアラビア(上)(下)

  アラブの灼熱の太陽。一面の砂丘。アラブの白い衣装を身にまとったイギリス人が刀を持った手を振りかざすと、砂丘に隠れていたアラブの一隊が一斉に騎乗し軍事列車へ突進して行く。。。映画「アラビアのロレンス」(1962年、監督デビット・リーン、主演ピーター・オトゥール)にこんなシーンがあります。この映画の主人公、トーマス・エドワード・ロレンスは、実在の人物。大学で考古学を専攻、中近東におけるローマ帝国の遺跡発掘調査のため現地へ赴き、その後軍人となります。第一次世界大戦中、彼は、アラブ人独立のため反乱軍を指導、アラブ統一とオスマン帝国崩壊を目指しました。


  「アラビアのロレンス」という映画は、西欧の映画批評家の間で高い評価を受けています。日本でもよく再上映されているスタンダードの一本です。映画は、彼がマッチを吹き消すと、画面が日の出の砂漠へ転換するとか、蜃気楼の向こうから幻のように現れるハリト族のアリをワンショットで取らえるシーン、襲撃した軍用列車の屋根伝いに歩いて行くロレンスの影を取らえる映像、、など視覚的美しさに満ちています。しかし、あくまでもロレンスの活躍中心の映画のため、この作品を見ただけでは残念ながら当時の中近東の情勢についてはあまりよく理解できません。


  実は当時(第一次世界大戦)の中近東というのは、西欧列強の植民地拡張や、オスマン帝国の崩壊、そして現地のアラブとパレスチナ民族の独立問題、今後の戦争に必要な資源・石油開発利権の争奪戦、、などなど、、現代において複雑化した国際問題の端緒となる事柄が複雑にからみあった舞台でした。本書の著者スコット・アンダーソンは、長年レバノン、イスラエル、エジプトなど世界の紛争地を取材したアメリカのジャーナリスト。当時の中近東をめぐる各国の情勢や、現地の人々の思惑や対立を丹念に調べあげ、濃密かつダイナミックな筆致で当時実在した中近東のキー・プレイヤーたちが織り成す歴史を描いています。


  このキー・プレーヤーの一人が T.E.ロレンス。彼の生い立ちや実際のアラブにおける軍事任務、アラブ部族への指導、オスマン帝国の軍事列車へのゲリラ襲撃、シリア南西部の町ダルアーでの拷問、などなど、映画より実際はもっと複雑で、無残な戦闘、そして、実際には、そんなに美しくない現地での過酷な生活の様子などが語られます。また映画でロレンスを演じたのは背の高い役者・ピーター・オトゥールですが、実際のロレンスはもっとショート(165cmぐらい)だったこともわかりました。このロレンスの他、ドイツ軍のスパイ、クルト・プリューファー。当時オスマン帝国下のシリア・パレスチナ地方でシオニズム運動のリーダー各として奮闘するルーマニア系ユダヤ人の農学者アーロン・アーロンソン。東海岸の名門イェール大学卒業後、親の破産のため大手石油会社スタンダート・オイルの中東の石油発掘調査員として勤務し、そこから一転、米国務省の情報員に転身したウィリアム・イェール。この4人の他、イギリスの外交官マーク・サイクス、フランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコ、アラブ民族の指導者ファイサル・イブン・フサイン、オスマン帝国の軍人で、第四軍指令官とシリア総督に任命されるジェマル・パシャといった人々の深慮遠謀思が絡んでいきます。

(余談ですが、イスラエルのアクティビストの中には、今でも周辺のパレスチナ人から祖国を守るため過激な行動をとる人もいますが、じつは、前述の A・アーロンソンの妹サーラ [27才] もシオニストの活動家で、スパイ活動も行っていました。ある日、トルコ諜報員に捕まった彼女は、もう逃れられないと思い、隠していた拳銃を口の中に撃って自殺しようと試みますが、すぐには死にきれず、その 4日後、カソリックの修道院で息絶えたのですが、見開きの写真にある彼女の華麗な容姿からは想像できない意思の強さにびっくりしました。。。)


  何世紀もの間、小アジア一帯から中近東までを支配し、しかし、西欧列強の激化する植民地拡大の思惑により自国の領土をもぎ取られ崩壊の途上にあるオスマン帝国。当時の西欧強国が中東政策のため締結し、戦後結果的に矛盾してしまった「サイクス・ピコ協定」などの国際協定や宣言(*①~③)。これまでの産業発展による近代化の要であった石炭資源から、戦争兵器の要となる石油資源の獲得を目指し中東へ進出するイギリスやアメリカ(*④)、そして、フランス。一方現地シリア・パレスチナでは、ユダヤ人が長年自分達の望郷の思いを実現させるため「シオンの丘」を目指し、シオニズム運動が活発化(過激化)して行きます。しかし、同じシリア・パレスチナでは、彼らと文化・宗教を異にするアラブ人もオスマン帝国の長年の支配から逃れるため反乱軍を組織し、アラブ帝国建国の気運を高めていました。


  このように当時の強国や人々の思惑が複雑に交錯し、まるで煮えたぎる寸前の鍋のような状態が、当時の中近東だったのですが、本書によると実は、当時のエルサレムも信者が想う静寂なる聖地といった感じより、当時の中近東の縮図のような様相を呈していたようです。エルサレムには、中世ヨーロッパにあったサロンのような場所もあり、そこではいろいろな事情でこの地に滞在する外国人男女が夜毎ダンスや室内ゲームに興じる一方、そのサロンの外では、飢えやチフスで横たわっている人々の姿も見られました。また、投獄、流刑、処刑などもエルサレムの外国人コミュニティーの裏世界では頻繁にあったのです。

(*)①「フサイン=マクマホン協定」:イギリスがオスマン帝国の支配にあったアラブ地域の独立と、アラブ人のパレスチナでの居住を認めた協定。②「サイクス・ピコ協定」:イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定。③「バルフォア宣言」:パレスチナにおけるユダヤ人の居住地(ナショナルホーム)の建設に賛意を示し、その支援を約束したイギリス政府の公式方針。④ちょっと信じられませんが、第一次世界大戦参戦当時のアメリカの海外情報収集能力というのは、ルーマニア、ブルガリアのようなヨーロッパの小国より劣っていた、という記述が本書にあります。)