ソクラテスの弁明・クリトン

  古代ギリシアの哲学は、おおまかに言うとソクラテス、プラトン、アリストテレスの三人(*)の哲学者によって発展・体系化されていきました。この「ソクラテスの弁明・クリトン」の著者はプラトン。(プラトンはソクラテスの弟子で、アリストテレスの先生にあたります。)彼の作品の多くは「対話篇」といってプラトンの師、ソクラテスを主な語り手として展開していきます。


  いつか読んで見たいと思っていた古代ギリシア哲学ですが、「哲学」というとどうも実生活と切り離された論理の言葉遊びのような感じがして、なんとなく読む機会を逸していたのですが、思い切って読んで見ました。読後の感想は、「意外と良い!」


  まだ数冊しかプラトンは読んでないので、大層なことは言えませんが単なる概念の羅列だけではない、自身の考える信念や理想みたいなものがあって、それをいろいろな主題や「対話篇」という師ソクラテスを主人公にして語らせる。。そして主題をより明確化、尖鋭化するのがプラトンの手法であるように思いました。そして、(これは彼の別の作品、例えば「国家」などにも共通しますが、そのプラトンが考える理想や信念といったものは、現在の我々でも十分理解・共感できるようなものであると感じます。


  さて、話を本書「ソクラテスの弁明」に戻しますが、まずこの作品の背景についてWikipediaより抜粋します。「ペロポネソス戦争(*1)でアテナイ(アテネ)がスパルタに敗北後の紀元前404年、アテナイでは親スパルタの三十人政権が成立し恐怖政治が行われた。三十人政権は一年程度の短期間で崩壊したが、代わって国の主導権を奪還した民主派勢力の中には、ペロポネソス戦争敗戦や三十人政権の惨禍を招いた原因・責任追及の一環として、ソフィスト・哲学者等「異分子」を糾弾・排除する動きがあった。」 そういったペロポネソス戦争や三十人政権の指導者等を教育し、付き合いがあった人々の中にソクラテスがいました。そして責任追及派は、ソクラテスは、『国家の信じない神々を導入し、青少年を堕落させた』として「不敬罪」で公訴されます。そしてこの「ソクラテスの弁明」は、その裁判でソクラテスがどのように民主派が押し付けた罪を考え、それを受け入れるのか?拒否するのか? そいうった過程において、彼の理想や理念が語られていきます。


  また、この「ソクラテスの弁明」は、最近TVや映画などよくある裁判劇として見ることもでき、本書は、その舞台劇の台本として見ることもできます。ソクラテスが裁判の判決を受け入れるまでのエンディングに向けたドラマチックな構成は、劇作家としてのプラトンの才能も際立たせているように思いました。(といっても当時は、舞台劇のような演劇はありませんでしたが。。)(*2)この裁判を通して、己の考えを裁判を傍聴している一般市民にも理解できるよう論理的で、かつ平易な言葉に置き換える彼の知性、言葉を選びながら彼らから共感を引きだすための会話技術、、、そして、何よりソクラテスが述べるセリフ一つ一つの中に、彼の持つ高貴な魂を感じることができます。


  読書家の出口治明さん(立命館アジア太平洋大学学長)や、丹羽宇一郎さん(元伊藤忠商事会長)が「読書とは、時空を超えた著者との対話である」と言っていますが、このプラトンの作品を読むと全く同感。そして読書では、この裁判の判決がどうであったか。。よりもプラトンがこの裁判をどう考えていったのか、その過程を自分の頭の中で繰り返し反芻できることができます。「著者の語る一字一句を丁寧に読みこなし、活字の背後にある考えまでも反芻する、」という思考方法はネット情報からインスタントに得る知識とは決定的に異なる読書の楽しみであると思いました。 


(*1)ペロポネソス戦争(紀元前431年 - 紀元前404年):[アテネを中心とするデロス同盟とスパルタを中心とするペロポネソス同盟との間に発生し、古代ギリシア世界全域を巻き込んだ戦争。

(*2)本書の巻末に同時代の歴史家・クセノポンが著した「ソクラテスの弁明」が掲載されています。おそらくクセノポンもこの裁判を傍聴したのかもしれません。しかし、彼の記述は、どちらかというと実際の出来事を単に記述した、あまり劇的でない表現に留まっている感じです。(クセノポンもプラトンと同様、当時のソクラテスの裁判を注視した一人だったのでしょう・・)