アラブ500年史(上)

    最近、イスラエル軍のガザ地区占領でパレスチナ問題がメディアで取り上げられるようになりました。このパレスチナにかかわらず、中東という場所は、地理的に見ても日本と隔たりがあるし、歴史的にもあまり文化的交流がなかったり、更には、商業的な交流も少なかったりで、日本人にはあまり馴染みがない地域だと思います。加えてそこに住む人々(多くはアラブ人)の生活や宗教(イスラム教)そして、考え方もよくわからない。。。


  また、自分の中に(理解の程度はさておき)アメリカナイズされた西洋的キリスト教的文化に染まっていた部分もあったのでしょう。たしか「9.11」の時も、NYのワールド・トレードセンター(WTC)が破壊されるTV映像やWTCから飛び降りる人々の映像をみて、決して他人事とは思えなかったし、このテロ事件の首謀者ウサマ・ビン・ラディンの映像がテレビで流れてくると、何か感覚的に受け入れ難い違和感が自分の中に沸き上がってきたのを今でも覚えています。また、アラブ世界に対し漠然とした、不気味さや憤りを感じたことも覚えています。


  そういった思いもありながら、しかし、最近のパレスチナ問題に関心がでてきたこともあり、今回、この「アラブ500年史」(上)(下)(著者/ユージン・ローガン)を思い切って読むことにしました。一口にアラブ諸国といっても、その対象となる国が多く、その歴史的背景も多様で、とても一読して全て理解できた、とは言えないのですが、この「アラブ500年史」(上巻) に描かれているアラブの歴史は人の交流、文化の交流、モノのやりとり、宗教の多様性、地域の広さ、気候、、とさまざまな要素が交わり、それらがアラブの絵巻物を織り成すように実にダイナミック。とても魅力のある歴史であることが実感できました。著者はユージン・ローガンさん。アラブ近現代史が専門で、オックスフォード大学の中東研究所の先生です。 子供時代をベイルートとカイロで過ごしたせいか、その後、中東史に関心を持ち、トルコ語とアラビア語を修得したそうです。


  この「500年史」は、1516年のオスマン・マムルーク戦争から始まります。このオスマン・マムルーク戦争というのは、1250年に樹立されたエジプトを中心に勢力を誇ったマルムーク朝とトルコのオスマン帝国が、シリアのアレッポにおいて戦ったもので、両陣営あわせて8万以上の兵士が参加。この戦いに勝ったオスマン帝国はそれまでのマルムーク朝が支配していたエジプト、シリア、アラビア半島のイスラム国家を一気にその版図に加えたのです。


  オスマン・マムルーク戦争以降、アラブ諸国は、その勢力下に組み入れられたオスマン帝国やヨーロッパ諸国との交流が強くなっていきますが、特にヨーロッパとの国力の差を実感するアラブ諸国のリーダーは、国の近代化を図るため、ヨーロッパからの技術導入を図りインフラを整備するため彼らの資本援助に頼ろうとします。また、少数ではありますが、アラブの知識人の中にはフランス革命で王制を打倒した市民の権利概念を称賛する人も現れます。一方、軍事力・経済力で優るヨーロッパは、その資本援助をエサにアラブ諸国を自国の帝国主義支配下に置くよう画策します。さらに第一次世界大戦では、イギリス、フランスなどの連合国は、石油の利権もありオスマン帝国へ宣戦布告。アラブ諸国をふくめたオスマン帝国の領土の植民地化を目論みます。このようにこの時代のヨーロッパ・キリスト教国はイスラム諸国に対しては完全に上から目線で高慢・強気一辺倒の帝国主義的対応。アラブの人々を完全に見下していました。

  

  それを象徴する事件が1827年のいわゆる「ハエ叩き事件」です。アルジェリア太守フサイン・パシャが、フランス領事ピエール・デヴァルを小さなハエたたきで叩いたことに由来するこの事件は、フサインの前任の太守が、信用取引でフランスに提供した穀物の未払金をフランス側が支払わなかったことが原因で起こりました。フランスはこの未払金の返済を30年にもわたり放置。これに怒ったフサインがデヴァルへ問いただしたところ、デヴァルの返答は実にそっけないものでした。そこで遂にフサインの怒りが爆発。持っていたハエ叩きの柄で3回にわたり彼の身体を叩いたのです。フランスは三十年も借金を放置していたにもかかわらず、自分達の責任は棚に上げ、自国の名誉を傷つけたとしてフサインに償いを要求。一方のアルジェリアもついに、このフランスの要求をつっぱねたのです。現代ではいくらなんでも考えられないことですが、当時のフランスは今以上に覇権国としてヨーロッパや地中海世界に強い影響力を誇示し、他国に対しては尊大だったのでしょう。後進国(とフランスが考えていた)アルジェリアへの借金など踏み倒して当然、ぐらいに考えていたのでしょう。。結局これが遠因となり1830年フランスの「アルジェリア侵略」が始まります。


  このように自らの帝国主義をアラブ諸国へ拡大したヨーロッパ強国。しかし、第一次世界大戦、第二次世界大戦を経て、戦後のアラブのナショナリズムの高まりと共に彼ら帝国主義の終焉が訪れ、アラブ諸国からの撤退が始まります。しかし、その撤退には、前記したようなアラブ諸国への高慢外交のしっぺ返しとでもいうのでしょうか、ヨーロッパ帝国主義国は、その撤退に高い代償を払わされることになります。


  例えばフランス。フランスは、前述のアルジェリアを植民地化し自国の県としていましたが、その独立(1962年)にはアルジェリアの独立賛成派と反対派、そしてフランスの右翼勢力、一般国民などを巻きこんだ大論争となり、最終的にはフランス国民投票でその「独立」を決着しなければなりませんでした。またこのアルジェリアほどではないですが、1946年のリビアとレバノンからの撤退もフランスにとっては苦々しいものになったのです。


  アラブからの撤退で高い代償を払ったのはイギリスも同様です。1944年当時、パレスチナの現地ユダヤ人過激派はイギリスに対し激しい敵意を持っていました。歴史的にイギリスは、「パレスチナにユダヤ人のホームランド建設を支持する」バルフォア宣言を表明したこともあり、本来ユダヤ人からは歓迎されるはずですが、実は当時、イギリスは海外のユダヤ人のパレスチナ入植に厳しい制限を設定したり、「1949年までに多数派であるアラブ人支配のもとにパレスチナ人の独立を求める「一九三九年白書」を表明したりでシオニスト指導者を怒らせていたのです。これは、バルフォア宣言を出した一方、そのユダヤ人寄りの政策が国際世論の批判を浴びたための緩和措置だと思われます。しかし、パレスチナのシオニスト過激派組織(イルグン、シュテルン・キング)は、このイギリスの政策を弱腰と非難、当時パレスチナを委任統治していたイギリス軍に対し武装闘争を開始。パレスチナの英国政庁や警察署へ矢継ぎ早の爆弾攻撃を行います。さらに(ここからはちょっと信じられないのですが)現地ユダヤ人過激派の一部は、(ナチの反ユダヤ主義にもかかわらず)ドイツと提携してパレスチナからイギリス軍を撤退させようと考えたのです。(彼らに言わせれば、ナチス・ドイツはユダヤ人の迫害者にすぎないが、イギリスはパレスチナにおけるユダヤ人国家の建設を認めない敵だったからです。*1)


  彼らユダヤ人過激派は、パレスチナの英国人(*2)に対するテロ攻撃を激化させます。そのテロ攻撃で最大級のものは、1946年7月、当時イギリスの委任統治事務局が入っていたキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件です。この事件により英国人、アラブ人、ユダヤ人を含む91人が死亡し、100人以上がケガをしました。これら一連のテロ行為により、パレスチナにおけるユダヤ人とアラブ人の見解の相違は融和しがたいものであることを悟ったイギリスは、この問題をできたばかりの国際連合に付託し、自らはパレスチナから撤退することに決めます。


  そして、その決定を後押しするような衝撃的な事件が1947年7月に起きます。ユダヤ人過激派組織・イルグンによる英国軍曹二人の処刑です。これは三人のイルグン・メンバー三人をイギリスが死刑にしたことを受けての報復措置なのですが、この二人の絞殺遺体にはピンで「ユダヤ人郷土への不法侵入」「不法な反イスラエル活動」といった文字版が止められ、その遺体には偽装爆弾が仕掛けられ、遺体の綱が切られると爆発するようになっていたのです。


  このニュースはイギリス本国でトップニュースとなり、各都市で反ユダヤ人デモが発生し、ユダヤ人所有の建物が攻撃され、「ユダヤ人に絞首刑を」「ヒトラーは正しかった」といったスローガンがあふれかえったのです。この一連の出来事は改めてイギリス政府にパレスチナの状況の複雑さを実感させ、遂にイギリスはパレスチナからの撤退日を1948年5月と決定。これによりユダヤ過激派はパレスチナからのイギリス撤退という目的を見事達成。この政治的目的達成のためには、テロ活動もおかまいなし、という悪しき前例は皆さんご存知の通り、今日に至るまで続いています。。。


  この「500年史」読後、自分がアラブ世界の歴史を何も知らなかったことがよくわかりました。また、個人的に本書を通じてパレスチナの地にイスラエルが建国されるまでの経緯や、イスラエル建国後の近隣地域の人々との衝突、アラブ諸国がどうこの問題に対処していったのか。。。そういった今の「パレスチナ問題」につながる経緯についてとても興味深く読めました。(これについては下巻でも詳述されますが) また本書のようなイスラム社会の書籍を読むようになってから、西洋諸国はアラブ世界にいろいろ理不尽なことをやったり、押し付けたり、、ということがよくわかってきました。さらに、アラブ人の考えをもっと理解したいと思うようになってきました。


  著者のローガンさんは、この「500年史」において、一貫してアラブ諸国の視点に立ってアラブの国々の歴史を概観するという姿勢を貫いていますが、その視点が本書を優れているものにしていると思います。アラブの多様な諸国の歴史をアラブ史として、体系的に説明しているところはこの著者の博識、見識の深さを感じざるを得ません。実際のところ、読み終えるのに時間がかかりましたが、とても読み応えのある良書だと感じました。


注(*1):当時はまだ強制収容所の存在は公になっていなかったので、ユダヤ人過激派はナチの反ユダヤ主義による集団虐殺を誤解していたのです。しかし、結局はナチス・ドイツからは何の返答もありませんでした。(*2):当時イギリスは、パレスチナの委託統治国であったので、現地にはイギリスの役所や軍の出先機関があり、少なくないイギリス人がパレスチナに駐在していました。