イエスの生涯

        イエス・キリスト。みなさんご存知、世界中に多くの信者を持つキリスト教の開祖です。キリスト教は、ユダヤ教やイスラム教とならぶ世界3大宗教の一つ。世界史においてはヨーロッパ圏、中東圏、アメリカ圏で多くの人物、出来事に影響を与えました。その影響力の強さからたとえ信者でない人も知らず知らずのうちに影響を受けています。(簡単な例では、日頃何気なく使っているカレンダーの「西暦」。これなんかは、イエスの誕生日から暦を数えていますよね。また、イエスが磔刑(たっけい/はりつけの刑の意)に処せられた十字架。この十字架もアクセサリーなどの重要なモチーフになっています。)


  さらに、自らの信念で「神の愛」という概念を唱え、時に奇跡を起こし、そして最期は自らの命を犠牲にして、弟子や信者へその信念を示していく。(自らの信念を行動として示す。)   そしてその後、弟子たちは、その心にイエスの魂が乗り移ったかのように、自らの命も顧みずイエスの教えを広めていく。。。たとえキリスト教徒ではなくとも、誰もが感動するストーリーだと思います。そのせいでしょう、イエスの行動やその生涯は、聖書に限らずいろいろな媒体を通して繰り返し描かれてきました。例えば映画なんかでも、ちょっとだけ挙げても「偉大な生涯の物語」、「ベンハー」(1959年)、「奇跡の丘」(1964年)、「偉大な生涯の物語」(1965年)、「最後の誘惑」(1988年)、、、


  では、このように聖書を始め映画やいろいろなメディアで描かれ、世界中の人々に影響を与えてきたイエスとは、一体どのような人物だったのでしょうか? このように書くとへんに聞きえる人もいるかもしれません。なぜならイエスは既に聖書や他のメディアで、繰り返し描かれ尽くされてきたからです。でも、歴史上の人物の描かれ方というのはその時代時代の解釈により、その人物のある面を都合のいいようにことさら強調したり、又はその逆に時の時勢で都合の悪いところは省いたり、、とするのがよくある歴史的解釈です。(ちなみに、現在イエスとして描かれるあの面長の優しい感じの顔はビザンツ帝国の時代の画家たちによって確立されたようです)  だからこそ、個人的には実在したイエスってどんな人だったんだろう、、? といつも漠然と考えていたのですが、実は今回紹介するこの遠藤 周作さんの「イエスの生涯」。自分でもびっくりなのですが、ここで描かれる「イエス」こそ、これまで自分が探し続けていたイエスに限りなく近いイエスだと実感したのです。


  。。と、ここでいろいろ書いてしまうと、本書を未読の方の読書意欲をなくしてしまうので、あまり詳しくは書きませんが、ここで描かれるイエスは、奇跡も起こせず、弟子たちからも裏切られ、しかも少し語弊があるかもしれませんが、遠藤さんはある面、イエスをいわゆる生活保護を受けるような(一人で自活できないような)頼りない人としてさえ、描いています。しかし、同時に彼の描くイエスは、常に社会的に弱い立場人々(病人や寡婦、貧者等)に寄り添い「神の愛」を人々に説いていきます。「幸いなるかな 心貧しき人 天国は 彼らのものなればなり。 幸いなるかな 柔和な人 彼らは地をうければなり。」と。。


  もう少し突っ込んで書くと、本書でイエスが説く「愛」とは、死海が横たわり、骸骨のような禿げ山とイバラの木や灌木が横たわるような厳しい自然環境の中で育まれた「厳格で、罰則で信者を縛る愛」ではなく、春が訪れる時の穏やかな時期に咲く素朴で優しいい花のような、母親が我が子を無条件に受け入れるものが近かったようです。この「愛」のイメージは、本書でもいくつかの箇所で言及されていますし、実際、作家/遠藤さんの幼少の頃、お母さんがとても優しかった一方、父さんは、母子に対して厳しい人だった、という思い出は強く影響しているのだとも思います。

 

      この小説で描かれる一見「弱々しいイエス」。しかし、遠藤さんは決して安易にこの人物像を描いたわけではありません。一読するだけでもわかりますが、旧約聖書や新約聖書四福音書(マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネ福音書)などを始め様々なイエスに関する資料、それに歴史書を渉猟したことが伺えます。さらにはパレスチナへ取材へ行き、実際にイエスが行ったと伝えられる地へ赴き、彼が生きた時代のユダヤ教やその教派、その後の原始キリスト教の影響、当時の現地の政治勢力や人々の生活など綿密な考証を行っていることも文脈からうかがい知ることが出来ます。


  さらに遠藤さんは本書に描いたイエス像を突き詰めるため、そいうった書物のちょっとした文脈やニュアンス、出版の古い・新しい順番などの手がかりと、作家としてのイマジネーションをフル回転させ、他では決して語られることのないイエスと弟子たちとの関係を推論します。それは、「ユダだけではない他のイエスの弟子たちの裏切り」です。


  実は本書の中で遠藤さんが描くイエスの弟子たちは、師であるイエスを信じ、尊敬して彼の後をついて行くというような優等生的弟子ではなかったのです。当時、ユダヤの地では救い主待望論というのがあって、たまたま弟子たちは近所の人々と一緒にイエスの話を聞いて、一時的な思い込みで勝手に彼を救い主だと思い込んでイエスについて行った(実際イエスは自らを「救い主」とは言っていない)という程度の信者なのです。世間がイエス対して冷ややかになってからは、彼らも、イエスについて行くべきかいつも悩んでいた人間として描かれています。そのせいでもあるのでしょう「弟子たちの裏切り」という行為は、本書においては、読者が自然に納得できるよう語られているのです。  


  とはいうもののキリスト教の洗礼を受けた作家として「弟子たちが裏切った」と自らの作品で書くのは相当勇気が必要だったと思います。遠藤さんは、しかし、作家としての自分の真実である「イエス像」を描くのだ、という覚悟があったのでしょう。その信念は、この作品にとても素直に結実していると思いました。。。奇跡も起こせず、弟子たちにも裏切られ、しかし、磔刑で死の途上の苦しい中にあっても、仲間の裏切りにも文句を言わず、むしろそういった彼らを心配しながら死んでいく、つまり身をもって「神の愛」という概念を弟子に伝え示しながら死んでいくイエス。


  まさか、自分が納得できるイエス像が、日本人作家によってすでに描かれていた、というのは自分にとって正直驚きでした。最後に蛇足ですが、今更ながらですがイエスがその生涯をパレスチナで過ごしていたことが本書を読んで初めてわかりました。(ちなみに下の地図の赤で囲った地名が、本書においてイエスがその一生で行ったとされる場所です。)