マハティールの履歴書

  現在のマレーシア(*1)は、1963年にマラヤ連邦とシンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、それにイギリス領サラワクが統合してできた国家(*2)です。このマレーシア建国以来、現在までに歴代9人の方が首相の重責を担いましたが、本書の著者マハティール・ビン・モハマドさんは、そのマレーシア歴代の第4代、第7代の首相(*3)を務め、首相就任期間は、二回の首相在任期間を合わせると約23年となり、他の歴代マレーシア首相を圧倒しています。(ちなみに他の首相は10年未満)


  シンガポールの建国以来の成長の礎を築いたのが、リー•クアンユーだったように、マレーシアの現在の経済成長を支えてきたのがこのマハティールさんといっても過言ではないと思います。彼は、1981年7月16日の、第四代マレーシア首相就任当初の心境を本書のはじめで語っています。「与党UMNO(統一マレー国民組織)の他のリーダー同様、私もいつの日か首相になることを夢見てきた。しかし、本当にそのような日がやってくるとは思ってはいなかった。」 そして、その後の功績からは意外なのですが、他の政治家と比べ、圧倒的に不利だった当時の自らの立場を告白します。「国王の前で宣誓に臨む直前まで、政治家として私は、この国の最も高い職に就くにはふさわしくない候補者だった。。」 


  マレーシアの多数派民族はマレー人。彼らの宗教はイスラム教で、地域ごとにその地域(州)の王であるスルタンが統治しています(*4)。一方、政治指導者は投票で選ばれますが、形式的にはその人をスルタンが任命する、という形をとり封建制を残しています。実際、マハティールさんが改正に着手するまではマレーシアのスルタンには憲法修正拒否権もありました(*5)。歴史的に見てもイスラム国家は、キリスト教徒諸国より封建制度が色濃く残っていますが、マレーシアもそういった封建的価値観の強い社会でした。そういった母国にあって、マハティールさんは、それまでの歴代首相のようなマレー支配階級出身者ではなく、更に政界での実績も他の歴代首相と比べると見劣りするものだったのです。ちなみに初代首相のラーマンはケダ州のスルタン王子。二代目首相のラザクは、高名な行政官/州官房長官、州知事 の家族出身。さらに次の首相フセインの一族は血縁的にジョホール王室に近く、祖父・父共にジョホール州知事経験者。当然、彼自身もジョホール州のエリートです。


  一方、マハティールさんは平均的な正統派マレー人家族の出身。父親は、元英語教師として年90リンギットを支給される年金受給者。マハティールさんが幼少期、家族の家はスラム外の端っこにありました。「臭い排水の匂いと黒い泡が水に浮かび、あたりは雨が降ると泥だらけ、満ち潮の時は川の水が溢れ、引き潮と共に廃棄物が残されるようなところだった。」と述懐するマハティールさん。英語教師で、厳しかった父親から人生の規律を学び、母親からは人生で大切な価値観を授かり、家族の支えと本人の努力で医者になり、その後、政治の世界へ入っていきます。 しかし、自分の属するUMNO/統一マレー国民組織の党内において彼はトラブルメーカー的存在で、更には支持基盤もなし、と首相候補者に必要な政治的クレデビリティーを全く持ち合わせていませんでした。さらに、先進国への留学キャリアにしても、他の3人の首相経験者はロンドンで教育を受けたエリート弁護士なのに対し、マハティールさんは、隣国シンガポール・マラヤ大学の医学部出身。そのため複雑な法律や行政の経験はほとんど皆無だったのです。


  しかし、歴史について読込むとわかりますが、マハティールさんのようなそれまで無名な努力家が、時代の要請でいきなり表舞台に立つのが歴史の神様の采配です。マハティールさんの首相就任後の在任期間の長さをみてもわかるように、1980年代から90年代のマレーシアはそれまでの既成観念とは全く異なった民主的な政治家を求めていたのでしょう。前述したような逆境を乗り越えて彼はマレーシア首相になったのです。


  彼は在任中、「日本を見習え」という「ルック・イースト政策」や「ビジョン2020」などを提唱していきます。マレー人、華僑、インド人などが住む多民族国家マレーシアにおいては、マレー語を公用語とし、英語を第二公用語と決め、更には就職や学校入学においてはマレー人が優遇されるマレー人優遇政策をとります。隣国の多民族国家・シンガポールがリー・クアンユー政権下で公用語を英語としたのと対照的ですが、これは、マハティールさんのアイデンティティがイスラムであることが大きいのかもしれません。しかし、彼は決してマレー人以外の民族を冷遇しているわけではないのです。この政策をとったマハティールさんの意図は、華人の冷遇ではなく、当時の状況としてはっきりしていた華人とマレー人の経済格差の穴を埋めて、格差を平等にした後、その優遇政策を取っ払い、国内の自由競争で経済成長を促したい、と考えたのです。マハティールさんが望んだことは、あくまでも人種間での公正さでした。しかし、残念ながらマハティールさんの政策の意図する「公正さ」という考えを歪曲し、常に自民族の利益誘導のために、この優遇政策を利用しようとするマレー人が役所や学校の指導的立場に存在していたため、彼が当初意図した目標はなかなか達成できなかったようです。このように内政においては、常にイスラム以外の人々とイスラムの人々(スルタン、保守派、改革派、過激派)とのバランスを取りながら、政治のかじ取りを行っていたことが窺えます。


  とは言いながらも、イスラム教が彼の価値観にとって大きなウエイトを占めているということは事実。彼はイスラム教が大切な生活価値観を持つ平和的な宗教であることを強調続けますが、それだけに、2001年にアメリカで起きた「9.11」は彼にとって大変残念な出来事で、これによりイスラム過激派が台頭することや、マスコミがイスラム教を誤解し報道することを憂慮・懸念しています。また、日本では、イスラム教について言及する時、よく「一夫多妻制」を出しますが、この「一夫多妻制」については、次にように述べて、イスラムへの理解を求めています。「イスラム教は、四人の妻をめとることができるという点をめぐって議論が繰り返されているが、そこではある条項が無視されている。コーランの教えでは複数の女性と結婚することができるが、それは、すべての女性に公平であることが条件になっていて、しかもそのコーランの章の最後には、(男性は)このレベルの公平さに達することは決してできない。と書かれている。」 つまり、イスラムの教えは、戦時中のような場合はまだしも、平時においては日常生活における秩序とバランスの維持を強調し、一夫多妻制を認めているわけではないのです。


  日本人にとってマハティールさんの政策で一番馴染みがあるのは「ルック・イースト政策(東方政策)」でしょう。1961年に初めて日本訪問した彼は、「日本から多くのことを学べる、」と確信します。そして、1981年の首相就任において、当時世界有数の工業国に成長していた日本や、工業国として台頭しはじめた韓国を経済発展の手本にすることに決めます。この政策に反対するマレーシア人は、「日本ではなく、欧州から学ぶべき」 と反論します。この反論に対し、マハティールさんは、欧州が現在の資本主義社会を実現するのに、200年以上の歳月を要したことを指摘。さらに日本労働者の勤勉性・献身性、労使協調的な労働慣行、経営側が社員の雇用を守る家族的な企業文化、終身雇用制などの特徴を挙げ、「日本の労働者は、敗戦直後、まず国をどん底から引き上げることを優先と考え、犠牲も厭わずに働いた。その結果、日本の労働者はアジアの中で最も高収入を得ている。」と強調しました。また同時に彼が1962年の英国訪問において感じた労使関係の険悪さも指摘したのです。「当時の英国は、EUの前身であるEEC (欧州経済共同体)への参加も決めきれず、労働者は常に労使紛争に明け暮れ、生産性は著しく低かった。ロンドンは東京に比べ第二次大戦後の復興がはるかに遅れ、英国人は自分たちで復興を成し遂げる自覚がなく、日本のそれとは明らかに違っていた。」 多民族国家・マレーシアを束ねるにあたり、当時、全国民が一丸となっていた日本に彼はマレーシアの成長を確信したのでしょう。その結果、マレーシアで「ルック・イースト」が政策として具体化していったのです。


  一方、世界経済でグローバル化が進む中、彼の首相在任中の1997年7月、タイ・バーツ急落に端を発したアジア通貨危機が発生。ボーダレス化した金融資本がマレーシア通貨・リンギットを直撃します。それまでマレーシアは、ASEAN 諸国の中でも持続的成長と安定性の両面で高い評価を受け、短期対外債務も比較的少なく、銀行部門経由の資金流入は厳しく管理されていたのにもかかわらず、急激な資本流出とリンギット売りによる通貨価値と株価の下落にみまわれたのです。この時、マハティールは徹底して世界貿易機関(WTO) の支援条件である政策勧告を受けず、西欧支援を拒絶。独自の通貨政策(リンギットの固定相場制)で国家の危機を乗切ります。彼が語るところでは、強国アメリカの金融資本に牛耳られているWTOにおいては、対小国援助政策は、当事者である小国の復興が最優先ではなく、アメリカ金融資本家の利益を第一に考えた政策になっていて、結果としてWTOからの支援は常にひもつきとなり、WTOからの復興支援金も、つまりは小国の借金の付替えに多少支援が加味された程度の意味合いなのです。たぶん彼の目には、現代のグローバル化は、先進国による小国の経済植民地政策として映っているのかも知れません。そういう思いもあるためか、彼は外交政策においては、日本のような西欧先進国追従という方針は取らず、あくまでも近隣諸国であるアジアの国々・地域との共同成長を主眼としていました。


  実際、本書においても西欧批判とも受け取れる「ヨーロッパ人」という章を加え、次のように語っています。「本書にこの章を加えるか迷った。私が反欧州であると思われ、多くの欧州の友人を傷つけることになるからだ。しかし、人々はアジア人の目を通した欧州人を知る必要がある。また、欧州人が何を考えているのかも知らなければいけない。」

  

  その独自路線のせいか、首相在任中の彼の外交政策に対する、アメリカやヨーロッパ諸国の政治家の評価は、総じてマレーシアを距離を置いて見るものであるか、そうでなければ批判的な目でマレーシア外交を見るようなものでした。このマハティールさんへの外交評価は、隣国シンガポールの先代指導者、リー・クアンユーへの評価とは対照的です。クアンユーが取った外交政策は先進諸国の資本誘致など常にオープンで、また共産主義国・中国とのパイプ役ともなり、そのため彼の外交は先進諸国の政治家から高く評価されたのです。


  実は本書で一番興味深かったのは、このリー・クアンユーについてマハティールさんが語っているところでした(といってもページにするとわずかなのですが)。彼はマレーシア建国当時、マレー人優遇政策について二人が議論を戦わした様子を語っています(この時はまだ、マレーシア国にシンガポールが加わることになっていたため)。 マハティールさんにとっては、クアンユーは隣国の弱小国家の政治家とはいっても、年上で剛腕政治家でもあり扱いにくかったのでしょう。また、当時はマレーシア建国、それに続くシンガポールのマレーシア国からの脱退、その後のシンガポールの独立・発展などが続き、お互い様々な確執があったような感じです(*6)。 しかし隣国シンガポールがマレーシアを上回るアジア一の経済成長を遂げた現在では、さすがのマハティールさんもリー・クアンユーの政策手腕を評価しているように感じました。


  素封家であるマハティールさんにとって今の日本は、経済成長を成遂げ満足しハングリー精神を失った国に見えるためか、日本の茶髪の若者を見て「茶髪なんて許せない」と怒っていたようです(笑)。しかし、西欧強国の外交にはっきりと異を唱え、アジア地域と共に成長しようとするマハティールさんの政治哲学は、愚直に見えるほどまっすぐです。(でもだからこそ)羅針盤を失っている今の日本には彼の姿勢が眩しく映ります。「まっすぐで愚直」だからこそ、彼は信頼に足る指導者のように思えました。


(*1)マレーシア:現在の人口は約3,200万人。GDPは、430,895(百万米ドル)で世界第36位。人口比では、マレー系(約65%)、華人系(約24%)、インド系(印僑)(約8%)の順で多い。(*2)ただし、シンガポールは1965年にマレーシアから脱退し独立。(*3)第4代就任期間: 1981年7月~2003年10月末、第7代就任期間: 2018年5月~2020年2月末。(*4)マレーシアの国王(スルタン)は、地域(州)のスルタンが持ち回りで担当(就任)する。(*5)1993年マハティールによりこの憲法拒否権の修正案は、議会に提出され圧倒的支持を得て可決された。(*6)対照的にリー・クアンユーの本を読むと、シンガポール建国当時のマレーシアは東南アジアの大陸側にあって、何かにつけシンガポールに強面政策をちらつけせていたようです。