十字軍騎士団

  11世紀末、イスラム勢力からの聖地エルサレム奪回を目的に、ヨーロッパ・キリスト教諸国から(第1回)十字軍が中東へ遠征します。ヨーロッパ軍から虚を突かれる格好となり、防備に後れを取ったイスラム勢は、また、地域間のリーダー同士の仲たがいなどもあり、一つにまとまりきれません。こういった状況が十字軍に幸いし、聖地エルサレムは、十字軍により解放されます。しかし、その結果、エルサレム、およびその周辺地でキリスト教国家を樹立した十字軍諸侯は現実的な悩みを抱えることになります。十字軍が獲得した地域は、あまりに広大で(現代でいえば、レバノン、シリア、ヨルダン、エジプトにまたがる領域。)、現地の十字軍諸侯の勢力規模で維持・防衛するには相当な困難が伴うものでした。(例えば、1124年に十字軍諸侯がつくったエルサレム国の王が、聖地周辺地域の十字軍騎士総員に集合を命じた時、集まった総数はわずか千百人。(この千百人という数は、内陸側の十字軍諸国家の国境/約 千キロメートルに対し、直線距離にすると1キロメートル毎に、1人が防衛にあたらなければならいことを意味します。)一方、イスラム側からすれば、この十字軍によって占領された地域は、その気になればヨーロッパから十字軍の援軍が来る前にいつでも奪還可能な狭小領土に過ぎませんでした。


  このような状況から「数こそ力」の論理で、ヨーロッパ諸国側は入植者を主体とした増強部隊(約20万人、中心は婦女子をまじえた農民開拓者とわずかな騎士の護衛で編成された)を聖地へ送り込もうとしますが、小アジア(今のトルコ)に入ったとたん、イスラムのゲリラ軍団に襲われ、この増強部隊は武装騎士や非戦闘員ふくめ全壊滅。このような状況かにらヨーロッパでは、植民よりも武力による解決が優先され、その後二世紀に及ぶ無益な十字軍運動に発展しますが、一方の現地十字軍諸国家では、ヨーロッパからの入植や援軍が期待できなくなりました。つまり、聖地を中心に十字軍が獲得した領土国家(以下、十字軍国家と呼びます。↓下図 )は、仮想敵国であるイスラム勢力に囲まれているにも関わらず、都市を維持するための防衛力や都市の機能維持に必要な人員に関し慢性的な不足に陥ったのです。

  また、当時のヨーロッパのキリスト教信者の間には、「天上のエルサレム」と「地上のエルサレム」という二次元的な聖都観が広く普及(前者はもちろん天国であり、後者をエルサレムにある聖墓)し、そのような聖都観を持つ信者の多くは、聖地エルサレムを己の目で見、己の足で踏むことを強く望み、聖地エルサレムへの巡礼の旅へ赴くのですが、その行程には、山賊、強盗などの輩が待ち受け、金品、命を奪われることも多かったのです。


  以上の十字軍国家の防衛や都市機能の維持が困難であるという理由や、聖都エルサレムへの赴く多数の巡礼者の安全を確保するなどの理由により、十字軍国家では、強力な常設軍隊を整備する必要に迫られます。また、ヨーロッパのキリスト教会の実力者からも「涙と祈りしか武器を持たぬ白衣の修道士」と「悪と不正、不信に戦いを挑み、誇り高く勇敢に戦場に臨む世俗騎士」の合体(聖俗両界の理想の一致)、換言すると、異教徒と戦う騎士道精神をもった修道士の誕生を待望する声が広がってきます。


  このような理由を背景(聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援)に、いわゆる「騎士修道会」(十字軍騎士団)が誕生することになります。その騎士修道会のはじまりは、「テンプル騎士修道会」。1120年頃にエルサレム主教に届け出て正式に修道会として結成されます。またイタリアの小国・アマルフィの商人がエルサレムの洗礼者ヨハネ修道院の跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所に期限を発する「聖ヨハネ騎士団」が1113年に当時の教皇から騎士修道会として正式な承認を得ます。この他、ドイツ人の聖マリア病院修道会が騎士修道会へと発展した「ドイツ騎士団」なども創設されます。本書「十字軍騎士団」では、騎士団への入会儀式の様子、生活様式、会則や服装など詳述されていますが、とても興味深いものがあります。このような騎士団における組織風土や文化は、修道士組織の秘匿性ももたらし、そのような組織独自の様式の一部は、部外者にとっては、変わった習慣に映ったようです。

  このように組織化された団体なら、次に必要なものはだいたい同じ。その組織の維持・拡大のために、人とお金を大量に集めることです。ですが、この点に関しては、当時の「騎士団」はとても恵まれた状況にありました。当時のヨーロッパ世界では、騎士団に対する各階層の人々の好意と期待には大変なものがあったからです。そのため、騎士団員の数も一桁から三桁に膨れ上がり、ヨーロッパの諸侯や諸王からの寄進も相次ぎました。これにより、膨大な数の荘園を抱え運営するようになり、その蓄財する富もヨーロッパ諸王のものに匹敵するようになったのです。


  ここからが凄いのですが、修道会騎士団ですから、近東の十字軍国家の戦いには一緒になって戦い、騎士修道士としての使命も果たすのは当然ながら、騎士団(特にテンプル騎士団)は、利殖も活発に行い、その財政基盤を盤石なものとしていったのです。「騎士団の所領取得の方法は無償・無条件。国王から王領の一部を寄進されても臣従関係の誓約を伴わず(つまり、ヒモつきの寄進ではなかった)、いかなる賦課も軍役義務も免除された。同様に領王より土地・城館を贈られても封建的主従関係を生じない建前であった。したがって、これらの各種無数の所領はすべて完全に騎士団の収益を生む財源となり、その合計額は膨大なものであり、いかなる西欧君主よりも強大な経済的基盤をかれらに保証したのである。」と、著者の橋口倫介さんは語ります。(P190)  このような騎士団の経済活動における特色は3つ。「経済力の巨大化」「その富を貨幣の形で蓄積したこと」そして、「蓄財貨幣の商業資本や金融資本への再投資」。この三つの要素が富が富を生むという好循環をもたらしたのです。このような経済活動でもたらさせた富は、ヨーロッパから十字軍国家を防衛する現地の各騎士団の最前線施設に送られ、修道会施設の運営、人件費、軍事運資金として活用されます。


  以前、このブログで紹介した塩野七海さんの「十字軍物語」でもこれら騎士団は登場しましたが、この財政活動についてはあまり記述がなかった記憶があります。ところで古代ギリシアやローマの文献でよく書いてあることの一つは当時の一般市民の「利息・金利」への嫌悪感です。当時の人々は金貸業やその活動によって発生する「利息」や「金利」を忌み嫌い、そういった経済活動を行う人々を軽蔑しました。そういった文脈で、「ユダヤの人々の金融業」の蔑視も語られることがありますが、実はこの十字軍騎士団も利子取の高利貸しを活発に行っていたのです。(これがおそらくは、後年の十字軍騎士団(テンプル騎士団)の取り潰しに影響をもたらしたことは容易に推測できます。) このようにヨーロッパや地中海での経済活動で稼いだお金は、たとえば、第七次十字軍で戦い捕虜になったフランス国王•ルイ九世の保釈金としても使われたのです。本書では、テンプル騎士団を中心に騎士団の金融活動が詳述されていますが、少し挙げるだけでも「両替」「貸付」「供託金庫」「農業信用金庫」など近代銀行業務に匹敵する業務を営んでいたことが分かります。


  でもどうしてこういった騎士団が利殖に励むのをヨーロッパのキリスト教会や、諸王が許していたのか?  本書ではそういったところまでの記述はありません。(当然のことながら、現代のわれわれの経済社会の考え方と当時の経済社会の組織運営を単純に比較することはできませんが) やはり、騎士団からすれば、このような利殖活動にも専心したのは、教皇をはじめとするキリスト教組織やキリスト教国諸王からの「活動の独立性の維持」という意識が多分にあったからでしょう。いくら諸侯や市民からの寄進があったとしても、そういった寄進は、寄進する側の自発・偶発的意思に左右されもの。つまり計画性がない収入なので、会社で言うなら将来の予算に組める性質のものではありません。また、軍事的組織ですから、武器や防衛施設、軍人の生活費用、戦争の費用を賄うため自らで存続する基盤をしっかりつくる必要があったのかもしれません。実際(前述しましたが)、第七次十字軍遠征では、リーダーのフランス国王、ルイ九世が現地でイスラム勢に捕まり一時捕虜となったのですが、その膨大な保釈金をイスラム側へ支払ったのはテンプル騎士団の金庫からでした。しかし、当初は騎士団の利殖活動を許していた諸王、キリスト教会ですが、実際のところ、後年自分達から独立して軍事や利殖活動をする騎士団を彼らは疎ましく感じるようになります。


  ところでテンプル修道会の組織上、組織の長は総長なのですが、この総長に組織の権力が集中し過ぎ、彼の考え方一つで活動運営が決まってしまう、ということがこの修道会にはあったのです。このことで組織内にはパワー・バランス、つまり「抑制と均衡」が機能していなかった、ということがこの組織の短所だったと思います。また、最後の総長ジャック・ド・モレーにしても、軍人気質で、義理人情には厚くのですが、しかし、随時随時の発案や思い付きで組織の行動を決定していた人物のようなので、この修道会は組織上時代の移り変わりによる組織運営の見直し、というような、周りの環境変化への適応が難しい性格があったのかも知れません。


  騎士団を疎ましく思った諸王の一人が、第七次十字軍の指導者、聖ルイ(九世)です。彼は十字軍において、つぶさにテンプルと聖ヨハネの両騎士団を観察。お互いが険悪な対抗意識を持っていることを良く思いません。このようなヨーロッパ諸国王や教皇から快く思われていなかった十字軍騎士団ですが、そうした中、1291年のエルサレム王国のアッコン陥落により十字軍国家はイスラム勢力により遂に壊滅します。この状況を受けテンプル騎士団はキプロス島へ避難します。テンプルはここでもそれまでの金融・商業活動に精力しますが、十字軍運動はすでに壊滅。軍の維持が必要なくなった彼らの活動は無目的な富の蓄積に集中します。この時を待っていたかのように、フランス王とローマ教皇が動き出します。聖ヨハネ・テンプル両騎士団の合併をテンプルの総長ド・モレーに提案したのです。


  実はフランス王のこの提案の真意には、テンプル騎士団をフランスの王権のもとに帰属させ、当時、不足がちになっていたフランス国庫を騎士団の膨大な収入で補充する目的がありました。しかし、いつものように提案にテンプルの騎士団総長は反対を表明。これが後々へ尾を引くことになり、ついに「1307年10月、フランス国王・フィリップ4世はフランス全土においてテンプル騎士団の会員を何の前触れもなく一斉に逮捕。異端的行為など100以上の不当な罪名をかぶせたうえ、拷問。異端審問に立ち会った審問官はすべてフランス王の息のかかった高位聖職者たちで、特権を持ったテンプル騎士団に敵意を持つ人ばかりであった。騎士団は異端の汚名を着せられ、資産は聖ヨハネ騎士団へ移すこと、以後の活動を全面的に禁止することが決定。そして、1312年、教皇クレメンス5世はフィリップ4世の意をうけて開いたヴィエンヌ公会議で正式にテンプル騎士団の禁止を決定し(中略)資産の没収を終えたフィリップ4世は口封じのために1314年、テンプル騎士団総長・ド・モレーら最高指導者たちはシテ島の刑場で生きたまま火あぶりにされた。」(Wikipediaより)(*1)


  しかし、一方の聖ヨハネ騎士団はその後も軍事活動の他、医療活動にも従事し「マルタ騎士団」と名を変えながら活動を続けます。そしてなんと現代においても国際法上認められた主権実体として医療に専心し活動を続けているのです。「EUにも正式に認められパスポート、独自の通貨や切手を発行。医療活動専門の騎士団、約500名の会員が在籍。2022年6月には、日本国籍で約90年ぶりの騎士として武田秀太郎が叙任された。」(Wikipedia) この「テンプル」と「聖ヨハネ」の組織の存亡を考えるとき、やはり、組織の権力が総長一人に集中し、その結果、十字軍国家滅亡後も、組織の理念なしに利殖に活動を集中したテンプル。そして、自らの存続目的を医療活動に集中し現在までも存続するマルタ騎士団(*2)。。このような十字軍騎士団においても「組織の存続」について考えされられました。


(*1)テンプル騎士団については、1907年にドイツの歴史学者ハインリヒ・フィンケが「彼らの罪状は事実無根で、フィリップ4世が資産狙いで壊滅させた、ことを証明。現代のカトリック教会の公式見解でも、テンプル騎士団に対する異端の疑いは完全な冤罪であり、裁判はフランス王の意図を含んだ不公正なものであり、同様にヴィエンヌ公会議で教皇がテンプル騎士団の禁止を決定したことも、当時の社会からの批判に流されたものであったと結論づけている。(*2)今回ネットでは確認できませんでしたが、「ローマ人の物語」の著者/塩野七生さんによるとマルタ騎士団の流れは紆余曲折を経て現代の「赤十字社」にその理念が生きている、と言います。