巨大ソフトウェア帝国を築いた男 ビル・ゲイツ

    以前、スティーブ・ジョブス氏の伝記を読んだことはあるのですが、ビル・ゲイツ氏のは、まだだった、と気づきこの本を見つけました。「巨大ソフトウェア帝国を築いた男 ビル・ゲイツ」(著者/ジェームズ・ウォレス、ジム・エリクソン)です。

   本書は、ビル・ゲイツの誕生から、Windows 3.0発表、そして、1992年に推定資産で全米一の金持ちになるまでを扱った伝記です。

  父親はシアトルの地元社会で活躍していた有名弁護士、母親は教師からその後、ファーストインターステート銀行、パシフィック・ノースウェスト・ベルなどの取締役なった人物で、この両親のもとに1955年10月28 日に生まれました。     

   読んで面白かったのは、コンピュータ室にいたポール・アレンと出会い、コンピュータをハッキングした高校時代から、ハーバード大学中退、1975年 P・アレンとのマイクロ-ソフト(後にマイクロソフトと社名変更)創業を経て、MITS(マイクロ・インストルメンテーション・アンド・テレメトリ・システムズ社) のコンピュータ、アルテア用にBASICを開発し、IBMから開発依頼されたPC-DOSの開発を成功に導くあたりです。特に、アルバカーキー(ニューメキシコ州)という田舎町でMITS社用にアルテアのBASICを開発していた頃、仕事が終わると、購入したばかりのポルシェでフリーウエイを疾走しまくって、警察に逮捕されたり、深夜、近くの工事現場に置かれていたブルトーザーを運転しまくったり、、と、これまで私が持っていたゲイツ氏のイメージとは相当開きがある破天荒ぶりにはびっくりでした。

  彼は童顔で実際より相当若く見られ、また大きく分厚いメガネをかけていたこともあり、人から  ナード(Nerd、日本でいう”オタク”の意)とバカにされることもありました。(女の子とデートする時も、いきなり「君のSAT(米国の高校生が大学進学用に受ける試験)は何点?」という質問したりとか、、)

  その一種の劣等感が、彼のビジネスに対する姿勢を必要以上に厳しくしていたのかもしれません。 常に、ビジネスにおける相手との取引には、 闘争心むき出しで、(悪く言えば)情け容赦ない一面もあったようです。  仕事に対する姿勢も、かつての日本人並みで、仕事、仕事の毎日で、勤務時間外も残業、週末も出勤、、とにかく馬車馬のように働いたのです。そして当然、社員にもその姿勢を押し付けたのです。

  そんなビル・ゲイツ氏の伝記を読んで勉強になったことは二点です。一つは、「弱い(小さい)ものでも強い(大きな)ものに勝てる。」ということ。欧米では、「弱いものが強いものに勝つ」例えでよく旧約聖書の「ダビデとゴリアテ」の話が登場しますが、まさに、IBMとの取引もこのエピソードの通りです。ビル・ゲイツがIBMパソコンプロジェクト「チェス」の共同作業の最終報告の為に、 マイアミを訪れ天下の巨人IBMと交渉に臨んだのは、弱冠24歳の時です。(そういえば、日本の孫正義さんも、かつて24歳で「ソフトバンク」を創業して、後年、それまで国の独占事業であった電気通信事業という岩盤に風穴をあけましたね。。)

  もう一つは、「幸運の女神はその機会を受ける準備ができた人間へ微笑む。」ということです。 結果的に、成功を収めたIBMとのソフトウエア開発の取引ですが、その取引過程で、実は(その取引が)ライバル会社、デジタル・リサーチ社へ行きかけたことがあったのです。(これは現在ではパーソナルコンピューター業界では伝説になっているエピソードです。)            

  IBMは当時、自社で開発を計画していたパソコン用に、16ビットのオペレーティングシステム(OS)の採用を考えていたのですが、ビル・ゲイツと数回にわたる交渉の末、当時IBMが必要としていた16ビットCP/M(当時最も普及していたOS)の権利を持っていたのは、マイクロソフトではなく、デジタル・リサーチ社だったことがわかりました。そこでビル・ゲイツはやむなく、デジタル・リサーチ社の代表ゲーリー・キンドールへIBMを紹介したのです。(さすがのゲイツ氏もこの頃は、強気だけでIBMとの交渉を自分のものにすることはできなかったのです。)  

  しかしあろうことか、このIBMとキンドールの交渉は破談してしまったのです。本書によるとIBM担当者のジャック・サムズが、デジタル・リサーチ社を訪問した時、待っていたのはキンドールの奥さんで、結局、キンドールは姿を見せなかったのです。一方、当時を回想するキンドールは、「この時自分は、先に予定のあった商談のため時間に遅れたが、後からその交渉に参加した。そして、その時はIBMに自社のオペレーティングシステムを提供する了解が得られた。」と考えていたのです。しかし、ジャック・サムズによれば「その日は、キンドールに会えなかった。」のでした。

  なぜか、二人の証言が食い違っていますが、いずれにせよ、この取引失敗で大損を負ったのはキンドールです。どちらのせいでこの交渉が失敗に終わったのか? は後の祭りですが、天下の巨人IBMが交渉に来るのが事前にわかっていたその当日(それもIBMアポの前に)別の商談を入れていたというのは、やはりキンドールの気持ちの準備が足りなかったのではないかと思います。IBMとの取引は世紀の一大取引になることは、当時の彼にも十分わかっていたはずです。でも、彼の心の片隅に「16ビットのOSを持っているのは自分だけだ。」という慢心に似た気持ちがあったのかも知れません。一説には、「IBMの人々がデジタル・リサーチ社へ来た時、彼は自分の双発機を飛ばして雲の上にいた。」という話もあります。本書を読む限りでは、この時点で、幸運の女神の微笑みを受ける資格があったのはビル・ゲイツだったのだ、と思います。(その後、マイクロソフトとIBMがソフトウェア開発において正式契約に至ったのは周知の通りです。)

  余談ですが、ビル・ゲイツ氏はなんとなく日本にも縁があります。 日本人、西 和彦氏との交流は有名な話ですし、最近では、軽井沢に別荘をつくったとか。。。言う話があります。