孔子
いつか挑戦しようと思っていた「四書五経」。最近WBC前監督の栗山英樹さんの本を読んだことも手伝い、まず「中庸」「大学」を読んでみましたが、これらを書いた人はどんな人か? どういった背景でこのような思想書を編纂したのか。。そういった背景がわからないと高校で習った漢語の日本語訳を暗記するのと同じ無味乾燥での理解に終始してしまう。。ということがわかりました。四書五経の解説本を書いている学者さんは読者をある程度の中国儒教の素養がある人々を想定しているようですが、私のような素人はそもそも四書五経を書いている人がどんな人か、、から懇切丁寧に説明してくれないと分からない。。
ということで、今回「論語」に緒戦する前に、まずは、「論語」の著者、孔子(*正確に言うと著者ではありません。現存する「論語」は孔子の弟子たちが長年にわたって、先生である孔子の発言、言葉を厳選、取捨選択し、孔子の思想として編纂していったものです。)の人生や、思想の形成、どういった背景でこの「論語」の内容が世の中に普及していったのか、、そういったバックグランドから理解しようと思い、出会ったのが本書「孔子」(著者:井上靖)です。
孔子という人は紀元前6世紀に中国の魯国において農民の父の息子として生まれ、成人してからは、塾を興し、後世の指導者を育てながら政治家を目指すも政権争いに敗れます。そして、3人の弟子たちと14年にわたる周辺国の歴編の旅に出て、その後魯国に帰国。帰国後は自らの塾にもどり、後進の教育に熱意を注ぎ一生を終えます。
この小説は大きく二部構成になっていて、前半は、上述した孔子とその弟子たちが魯国を飛び出してからの旅の様子を描き、後半は孔子の教えを学ぶ弟子たちが組織する孔子教団(?)の活動の様子を描いていきます。(この弟子たちの討論が後の「論語」という書物に編纂されていくことがわかります。)そして、この前半と後半を通してこの小説の核となる人物が、著者井上靖さんが創り出した孔子の架空の弟子・蔫薑(えんきょう)です。この蔫薑が読者に語る形でこの小説は進んでいきます。つまりはこのお弟子さんが井上靖さんの分身となり、井上さんが想像する孔子一行の旅の目的や、その様子、さらには、孔子の思想を語っていきます。つまりが著者、井上さんは、蔫薑を語り部として、自身の理解する孔子の思想、言葉を読者に語っているわけです。
まずこの小説の前半、物語は、蔫薑が、魯国を飛び出し、周辺国への遊説旅行を続けている孔子と3人のお弟子さん(子路、子貢、顔回)と出会ったいきさつを語るところから始まります。蔫薑自身は、自分の生まれた少国の治安が不安定なことから祖国を飛び出し流浪の旅を続けていたところ、この孔子一行に出会い、彼らの雑務を担当する臨時雇い人という形でこの一行の旅に加わります。はじめは彼らが何者で、その旅の目的がわからなかった蔫薑ですが、彼らの旅のリーダーが祖国では名の知れた思想家でもあり、また元政治家であったのが、政権争いに敗れて国を脱出。お弟子さんと共に仕官先を見つけるために隣国周辺の旅をしているらしいことが分かっていきます。この遊説旅行を通じて孔子の人物像や各お弟子さんの個性、そして日常の修行の様子や日の終わりの孔子とお弟子さんたちの会話などが語られて行きます。
これに対し後半では、孔子の死後、何年か後に中国各地から蔫薑のもとに集まったお弟子さんたちが、生前の孔子の活動や思想、言葉について語り、それらをどう解釈するのが妥当なのかを討論する様子が丁寧に描かれます。ただし、この後半部分は前半の物語的なお話から一転して、あたかも自分が孔子のお弟子さんが集まる勉強会に参加しているような(ちょっと堅苦しい)感じになります。この前半と後半の構成の違いに違和感を持つ読者もいるかもしれません。しかし、前述したように、この後半の蔫薑とお弟子さんのやりとりする過程はそのまま、本書の作者井上さんの孔子の思想や「論語」に対する解釈・理解の過程をそのまま追っているのだと思いました。
現存する「論語」だけ読むとなんとなく堅苦しく、無味乾燥的な言葉が並んでいるような印象を持つひともいるかもしれません。実は本書の前半の諸国流浪の旅で、孔子と三人の弟子たち一日の終わりに夜空を見ながら旅の疲れを会話で癒すシーンがあります。星々が輝く夜空を見上げながら、孔子がユーモラスにポツッと語る言葉に対し、お弟子さんたちがそれぞれの思いを言い合うのです。なんとなくほほえましい、うらやましし師弟関係だと思います。これはあくまでも作者の井上さんの創造なのですが、でも生前、実際にこのように旅をしながら、孔子先生(とお供のお弟子さんたち)が紡ぎ合っていった言葉が、後世の「論語」に乗せられた言葉になったんだろうとなんとなく実感できるのですが、そういった情景描写にとても説得力があると思いました。また、そう思うと「論語」に載っている言葉がそれまでの堅苦しいものでなくなり、なんとなく生き生きとしてくる印象を持ちました。(というよりも、「論語」にある言葉は、このような自由な精神の中でこそ生まれてきたと考える方が自然なのではないか、、もしかしたら、作者、井上 靖さんがこの小説を書いた目的は実はそこにあったのではないのか、、と思ったりもしました。)
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