マホメッド

  マホメッド(*最近ではアラビア語の発音に従ってムハンマドと呼ばれる。)は、キリスト教、仏教とならぶ世界3大宗教の一つイスラーム教の開祖です。


  イスラーム教の信仰が盛んな中東は、これまで距離の隔たりもあってか、日本とはあまり接点がなく、従って文化的交流もあまり盛んでなかったと思いますが、1970年代のオイルショックなどの中東戦争、エネルギー問題。。また。遠隔地域の出来事が、玉突きのように間接的に連鎖してくるグローバル化した今日では、日本人もイスラーム教(の基礎知識ぐらいは)知っていた方が良いと思い、以前からイスラーム世界について書かれている書籍を物色し、何冊か読みましたが、どうも学者肌の著者が方が多いせいか、どうもあまりしっくりこなかったのですが、本書「マホメッド」は、一言で「なるほど!」という実感を持てるくらいイスラーム世界を身近に(感情的に)理解できました。今から何十年も前に当時若干、26歳だった若者(著者/井筒 俊彦)が書いた本だというのには驚きました。


  彼は、この作品の最初に、アラビア(アラブ)世界をイスラーム教出現の前と後にわけで説明します。イスラーム教が興る以前のアラビア世界は「無道時代」と呼ばれる時代で、砂漠での人々の社会基盤の基礎は「部族」でした。その部族内では、男たちはお人好しで、困った人がいると自分のこともかまわずに、援助を惜しまない情に厚いのですが、それが部族間の抗争になると、その性格は 180度変転。残虐で、無道な、血の凍ったような冷血漢にさえ変身するのです。このような部族を中心にした血縁関係・血の濃さ、それに生々しいまでの先鋭化された感情といったものが砂漠世界に住む人々(べトウィン族)の民族的特色でした。このようなベトウィンの人々の生活様式はとても保守的で、同じ時期の祭りを祝い、部族間で略奪を繰り返し、同じ部族内で同じ喜びや悲しみを共有する生活を何百年、何千年もわたって繰り返してきたのです。


  しかし、西暦も6Cに近づくと、砂漠の人々はそれまでの価値観に疲弊しだします。彼らの間では、そのような価値観や生活様式でおくる人生・現世は切なく苦しいものだという考えを持ち始め、その疲弊した精神を慰めるための享楽主義が人々を支配していきます。


  このような時代に新しく生まれた思想が、ムハンマド(マホメッド)が唱えたイスラーム教でした。彼は、イスラーム教を唱える前から神(アッラー)からの啓示と幾度となく受け、人々がこのまま享楽主義、刹那主義にふけっていると世界は終末する。人々の悔い改めが必要だ、と説きます。(これまで、アラビア砂漠の人々は部族単位でそれぞれの神を信奉していました。そして互いに違う部族同士が宗教を信奉する中心地が当時の商業都市・メッカでした。彼はアッラーこそが絶対唯一の神であること、そして、その神との主従関係の絶対性を人々に説きます。)

  

  このムハンマドの宗教活動に当然ですが、メッカの人々は反発。ムハンマドはいったん近くの商業都市メディアにその宗教活動の場を移します。そして紆余曲折はありますが、ムハンマドは徐々に実力・勢力を蓄え、やがてメッカへ再進出(西暦630年)し、イスラームの教えがメッカを支配するようになります。このメッカの精神的支配により、アラビア全土もイスラーム思想の支配下となっていくのです。


  本書の後半では、イスラーム教とキリスト教、ユダヤ教との関係についても触れています。やはり同じ中東地域で勃興した宗教とあって、ムハンマドは当初は、彼の思想においてユダヤ教を否定はしてなかったようです。実際コーランにも、ユダヤ教のアブラハムを信奉することが述べられています。(一方イスラーム教では、キリスト教については、イエスが神の子である、とか、三位一体という考えを否定している。)


  では、本書の著者の井筒さんですが、どのような経歴の持ち主なのでしょう。。

  巻末に井筒さんのお弟子さんの牧野信也さんが、井筒さんの年少時代に、禅者でもあった彼の父が井筒さんに教えたという一種の精神修行のことを書いています。それによると、お父さんは彼に「心」という一字を書いた紙を彼に渡し、その一字を集中して見続けよ。そしてしばらくするとその紙を破り、井筒さんの心中に刻まれた「心」の文字も消し去って、井筒さんの中の生きた「心」を凝視しなさい。そしてしばらくすると、その心中にある「心」さえも見ず、ただひたすら「無」の境地に帰没せよ、、というものでした。


  このような父から教えられた精神修行で開花した能力が後年、彼の思想勉強・研究に大いに貢献したのでしょうか。。アラビア語、ペルシャ語、サンスクリット語、パーリ語、ロシア語、ギリシャ語。。。等の30以上の言語を流暢に操り、語学の天才と称され、思想研究に関しても日本で最初の『コーラン』の原典訳を刊行。言語学の分野でもギリシア哲学、ギリシャ神秘主義などの研究に取り組み、その他、イスラムスーフィズム、ヒンドゥー教、道教、儒教、ギリシア哲学、ユダヤ教、スコラ哲学などの関する研究を行いました。井筒さんの著作の多くが英文で書かれていることもあり、日本国内でよりも、欧米において高く評価されているそうです。


  書籍を読み続けていると、たまに著者の頭の良さに感心する本に出合うことがありますが、正にこの「マホメッド」がそれです。最初の10ページぐらいで、彼の話術、アラブ(アラビア)世界の知識、そしてその特徴を簡潔にわかりやすく記述する理解力に圧倒され、そのまま当時のイスラーム世界の様子や、ムハンマドがイスラーム教を興すまでの苦労話に引き込まれてしまいました。全体で100ページ足らずの本書ですが、アラブのイスラーム思想の誕生を要領よく、血の通った表現で書き表した井筒さん。まさに思想界における天才だったと思います。