イノベーションのジレンマ 増補改訂版

  「イノベーションのジレンマ」とは、「業界で実績ある企業が、顧客の意見に耳を傾け、新技術に投資しても、なお技術や市場構造の破壊的変化に直面した際、市場のリーダーシップを失ってしまう」という現象のことです。

  かつて、米国の小売企業、シアーズ・ロ-バック(Sears, Roebuck and Company) という会社は、世界でも有数の経営手法を持つ企業として有名でした。現代の小売業のイノベーションの先駆者で、その経営は全米の尊敬の対象ともなり、実際、1964年の「フォーチュン」(ビジネス誌)にも記事が掲載されたほどです。「シアーズの成功物語で、最も印象的な点は、新奇な術策がないことだ。派手な仕掛けを展開したわけではない。組織のだれもがごく自然に正しいことをおこなう。その効果が積み重なり、企業の強力な原動力となった。」 しかし、その後、この優良企業(シアーズ)は、小売事業の存続が危ぶまれる経営危機に陥ります。当時(1992年)、「フォーブス」(米国ビジネス誌)は「シアーズは慢心していたために、市場で起きていた基本的な変化を見落とした」、とその経営を批判しています。(注)

  では、「どうして正しい経営をした優良企業が正しい経営をして失敗するのでしょうか?」本書の著者、クレイトン・クリステンセン氏 (ハーバード・ビジネス・スクール(HBS) の教授でもある)は、本書において(シアーズのような)優良企業が失敗するのは、「顧客の声に鋭敏に耳を傾け、顧客の次世代の要望に応えるよう積極的に技術、製品、生産設備に投資するためである。」つまり、逆説的ですが、「その優良企業が成功するのと同じ理由から失敗する」と、自らの論旨を展開しています。

  そして、クリステンセン教授は、技術や市場構造が広範囲にわたり急速に変化し続けた「ディスク・ドライブ業界」を(本書で)最適な例として紹介しています。

  歴史的に見て、ディスク・ドライブ業界における技術革新は2種類あります。1つは、「持続的イノベーション」。もう1つは「破壊的イノベーション」です。「持続的イノベーション」とは、業界において実績のある主力企業が採用することが多い技術革新で、漸進的に性能の向上を維持していく性格のものです。一方「破壊的イノベーション」とは、それまでの性能の軌跡を破壊し、全く新しく塗り替えるような革新的技術です。その性格のため、新規参入企業が開発を得意とするイノベーションで、歴史的に見て、幾度となく業界の主力企業を失敗に導いてきたイノベーションです。

  歴史的にみると、この業界の先端技術開発は、常に確立された性能向上の軌跡を維持する、「持続的イノベーション」の開発に注力し、製品の性能を高め、軌跡グラフの右上がりの利益率の高い領域に達することを目標としてきました。ディスク・ドライブ業界の顧客にとって、「持続的イノベーション」というのは、ある程度予測でき、そして、たいがいはその期待通り開発が進められる技術革新で、その性格上、事業計画を立てながら、従来のペースで性能の向上を維持できる顧客にとっては「都合がいい」イノベーションです。また、メーカー(実績ある企業)側も顧客の要望に応えるため、率先して「持続的イノベーション」を行い商品化を進めていきます。また、このイノベーションの特徴として、持続的な投資(中には巨額投資)が必要なので、最初に成功するのは経営体力のある、実績ある企業になり、新規参入企業は実績ある企業の後に続くようなかたちになります。この繰り返しにより、既存の技術(持続的イノベーション)で優位に立つ企業は、今まで以上に既存顧客の要望に沿うようになり、持続的な技術革新が見つかれば、率先して新しい技術を開発し、採用するようになります。

  その一方、ディスク・ドライブ業界においては、まれにですが、破壊的技術と呼ばれる、異なる種類の技術革新(破壊的イノベーション)が起きることがあります。破壊的技術の特徴としては、まず既存企業で開発されることが多く、その初期の形態は、技術的に単純で既成の部品を使い、アーキテクチャーも従来のものより単純です。そして、その製品は主流(持続的イノベーションにより開発された製品)の市場(上位市場)からかけ離れた、小さな新しい市場(下位市場)でしか評価されません。

  仮に、「破壊的イノベーション」を実績ある企業が開発した場合、通常は、まず既存製品の主要顧客にそのプロトタイプを見せて、彼らの意見を求めます。しかし、ほとんどの場合、顧客はすでに確立した市場において、確立している性能の軌跡をさらに向上させる製品(ドライブ)が必要なので、その破壊的技術には興味を示しません。そのため、実績ある企業は、市場規模が小さく顧客の需要もはっきりしない破壊的技術より、最も有力な顧客の需要に応える「持続的イノベーション」のプロジェクトを優先します。
  結果的に、実績ある企業は(期待する)利益のために、資源配分においてもその資源を持続的イノベーションに投下し、その開発速度を上げていくことになり、結果として、破壊的イノベーションには資源投下を行わなくなります。

  しかし、一方で、新規市場開拓を目指す新規参入企業は、積極的に、その破壊的技術の導入をおこない、開発も進めます。やがて、初めは小さかった市場も、徐々に下位の市場から上位市場へと移行していきます。やがて、市場規模も大きくなり、(実績のある企業の)持続的イノベーションの市場(上位市場)を侵食していきます。この時点になって(遅まきながら)、やっと実績ある企業は、顧客基盤を守るために「破壊的イノベーション」の開発に注力し始めます。

  しかし、新規参入企業は、すでに下位市場において、低粗利益率でも収益を上げるコスト構造を構築してきたので、製造・設計コストで培った経験から、有利な価格設定ができます。一方、守る側の(実績ある)企業は熾烈な価格競争に巻き込まれることになります。そして、この段階では、すでに新規参入企業が圧倒的な優位を築いているため、実績ある企業はその(上位)市場から撤退せざるをえなくなります。                 

  こうした結果、実績ある企業は、自社の旧製品との共食いに終わるか、従来の事業の一部を守るのがせいぜいという状況に追い込まれ、「大手企業は破壊的技術が現れるたびに、新規参入企業に追い落とされる」、という結果になるのです。

  換言すると、実績ある企業がうまく対処できないのは、「破壊的イノベーション」により形成される下位市場への展望と柔軟性に対するアプローチなのです。実績ある企業は、業界に参入したときには新規参入企業として、新製品の新しい用途と市場を見出す能力を示すのですが、実績を重ねていくに従い、その能力を失っていくようになるのです。

  「顧客の意見に耳を傾けよ。」というスローガンは昔からよく使われますが、このアドバイスはいつも正しいとはかぎらないようです。むしろ、顧客は、メーカーを持続的イノベーションに向かわせ、破壊的イノベーションのリーダーシップを失わせ、率直に言えば誤った方向に導くこともあるのです。

  著者、クリステンセン教授は、本書において「破壊的イノベーションの理論を確立させたことで有名になり、企業におけるイノベーションの研究における第一人者」となりました。本書は実例も豊富で、明晰な分析を提示していてとても読みやすいです。(御一読をお勧めします。)

(注):(ちなみに、その後、シアーズはKmart と合併しますが、2018年10月15日、連邦破産法11条(日本の民事再生法にあたる)の適用を申請。破産申請で裁判所の管理下に入り、現在は負債削減やリストラに取り組みながら事業継続の道を探っています。Wikipediaより。)