世界を変えた10冊の本

   現代社会においても「古典」を読むことは「知力の鍛錬」にとって有益である、ということは、「日本3.0」「リーダーの教科書」の紹介でお伝えしました。

   でも、古典を読むのには正直、「壁」が存在すると思います。最近の個人的体験から言うと、まずは「原文」自体が難解なこと。次に、古典が初めて出版された当時の社会的背景がわからない。(もちろん、歴史関係の本を紐解くのもいいが、それはそれでまた時間がかかります)その上に、本にでてくる単語がよくわからない。例えば「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(Mウェーバー)。 この本には「カルヴァン派」「ルター派」「長老派」から始まって、「聖公会」「ノックス」「フーット」「ユグノー」「キリスト教的禁欲」「世俗内的禁欲」、、などなど、我々(現代の一般的な日本人)が普段使わない、要注釈な単語が並びます。(しかし当然、著者のマックス・ウェーバーは読者がそういった単語を知っているのを前提として書いています。)

   もちろん、そういった「古典」本の巻末等にはそういった単語の注釈がついていますが、自分がその時読み進めているページと、単語の意味がのっている(だいたいは巻末の)ページの行ったり来たりが必要になってきます。また、数十ページ読み進めると、以前調べた単語の意味を忘れてしまっていて、また後ろの注釈欄から当該単語を探したり、、そうやって読んでるうちに古典本自体の内容咀嚼が疎かになったりします。

   さらに、現在「古典」と言われる本は、現代において、たまたま「古典」として残っているのではなく、その「古典」が発表された当時においては、その著者は一流の「学者」や「天才」で、その当時にあって、最先端の内容でしかも、彼らが一番脂ののっている、つまり「自信」を持っていた時期に発表したものなので、その表現自体には当然、著者も「100%の自信」もあるわけで、自然と表現や言い回しも挑戦的であったり、独特であったり、難解だったりします。(また、ある種の「権威」なんかも感じられます。)当然、著者も、ある程度の知識人や教養人を「読者」として想定して書いているので、そのような結果、古典には「独特の難解さ」が存在するのだと思います。それに加え、原文が日本語でない場合は、日本語訳者の「訳」というフィルターがかかります。(訳者さんが高名な学者さんの場合、やはり学派、権威主義の影響を受けている可能性もあります。)

        「古典」を現在「読み」「理解」する場合、上記のような「壁」を乗り越えなければなりません。でも、やはり「古典」は読むべきですよね。だとしたらおそらく古典に近づく一つの方法は、その方面の知識があり、当時の社会に明るい、また、そいった成り立ちをわかりやすく伝える一種の技術(知識)をもっている人の解説本などを読み、読む前に少しでもその「古典」本について、自分なりの知識をつけてから「古典」にあたる、という方法が古典の読書にはベターだと思います。 そうなると、書店に行ってまず思い当たるのは、テレビや新聞、ネットなんかに登場してクイズ番組や社会問題を易しく解説している「知のリーダー」にその「解」を求めることです。ということで、今回は世界の有名古典10冊を分かりやすく解説した池上彰さんの「世界を変えた10冊の本」を紹介します。

   本書では、「アンネの日記」「聖書」「コーラン」「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」「資本論」「イスラーム原理主義の『道しるべ』」「沈黙の春」「種の起源」「雇用、利子および貨幣の一般理論」「資本主義と自由」以上、10冊の古典を紹介しています。

     はじめに、「聖書」ですが、みなさんは,、イエスはどの民族の人か知っていますか? また 歴史的に見て、ユダヤ人が差別されるのは、イエスを殺したのが弟子の「ユダ」(ユダヤ人?)だったからでしょうか? (実は恥ずかしながら私的にはこれらの疑問はなんとなく頭の中にあったのですが、直接的には知らなくても生活していけることなので、ずっと曖昧なままでした。)本書の解説によると、「イエスはユダヤ人として生まれましたが、やがてユダヤ教の改革運動を始めます。これが一部のユダヤ教徒の怒りを買い、十字架にかけられて殺害された。」(P43)のです。また、「アンネの日記」のところでは池上さんは「(歴史的な)ユダヤ人迫害(差別)の起源」について解説してます。「彼(イエス)が十字架にかけられることになると、当時ローマ帝国から派遣されていた総督のピラトが、押しかけたユダヤ人の人々に対して、『イエスを十字架にかける必要があるのか?』と尋ねます。。。すると、人々は口々に、『イエスを十字架につけろ』と叫びます。『その責任は、我々とその子孫にある』と。」(新共同訳による)つまり、イエスがユダヤ教の改革を進めたため、(その改革運動に抵抗する人々により)処刑されたのです。そして改革派の人々は「(イエスを死刑にしたために、)たとえ報いが(自分たちの)子孫に及んでも構わない」と言ったのです。この一説があるため、ヨーロッパのキリスト教徒の中には、イエスを殺害した人々の子孫は、報復を受けて当然だと考える人たちが出てきたのです。

   また、世界三大宗教の一つ「イスラム教」の経典「コーラン」の内容も今回初めて本書を読んで知りました。実はイスラム教の経典って「コーラン」だけではありません。実は「旧約聖書」「新約聖書」もイスラム教の経典に入っているのです。そして、イスラム教では、その二つに「コーラン」を加えて3経典としているのです。ただし、3つの中で一番大切なのは「コーラン」ですが。

   イスラム教では、神は人々を救うために人間たちの中から、預言者を選び神の言葉を伝えました。しかし、人間たちは旧約聖書、新約聖書でも神の言いつけを守らない。そこで神は最後にムハンマド(旧来はマホメット)を預言者として、彼に最後の「神の言葉」を伝えました。これが「コーラン」です。そして、コーランは神が預言者ムハンマドに語りかけた言葉として、彼の死後、当時の指導者(カリフ)、ウスマーンが信者に命じて(書物として)編集させたのです。なぜか、この編集の時、ムハンマドが後半生に聞いた言葉からさかのぼっていく、という形になりました。(どうしてか?は不明です。)

   これを信者は声を出して読むのです。信者は死後、地中で眠ります。そして、やがて来るとされている世界の終わりの時、神の前で一人一人が神の裁きを受けます。そこで、天国へ行くのか?地獄へ行くのかが決められるのです。

          しかし、例外的に死んだらすぐ天国へ行ける人がいます。「ジハード」で死んだ人です。「ジハード」に関してですが、「ジハードで死ぬ」とは「アッラーのために戦って死ぬ」ことです。(コーランには)次の言葉があるからです。「アッラーの御為に殺された人たちを決して死んだものとは思ってはならないぞ。彼らは立派に神様のお傍で生きておる、何でも充分に戴いて。」 尚、「ジハード」という言葉は、日本語では単に「聖戦」と訳されますが、もともとは「努力」という言葉から生まれています。本来、コーランは「汝らに戦いを挑むものがあれば、アッラーの道において(『聖戦』すなわち宗教のための戦いの道において)堂々とこれを迎え撃つがよい。だが、こちらから不義をし掛けてはならぬぞ。アッラーは不義なす者どもをお好きにならぬ。」(2章186節)として、(池上さんは)本来テロがもとで罪のない人が道連れになることは、「不義をし掛けることではないか?」と「聖戦」の名のもとにテロを行うことに疑問を呈しています。

   (例えば、「聖書」についてもそうですが、インバウンドなんかで、イスラム教の人たちが日本へきて「ハラール」食品とか用意するのが当然という現代、やはり地球が狭くなってきていることを実感します。そういった時、我々日本人も「コーラン」の勉強は必要になってきますよね。。外国の人たちと接する時、その人たちの文化を知っているということは相手へのリスペクトを意味すると思います。逆の立場で考えて、私たちが外国へ行くときリスペクトされてないところへは行きたくないですよね。。。)

  このほか、「イスラーム原理主義者の『道しるべ』」や「沈黙の春」なんかもこの欄で紹介したかったんですが、割愛します。(というより皆さんにも実際に興味を持って直接本書をとって頂きたいので。)私的には今回この本を読んで、ミルトン・フリードマンの「資本主義と自由」に挑戦したくなりました。

   ところで、最近書店へ行くと「日経BPクラシックス」というシリーズ本を目にします。そのタイトルには古典の経済学書がずらり(「資本論」(マルクス)、「資本主義、社会主義、民主主義」(シュンペーター)、、、等)。Wikipedia で検索すると「『日経BPクラシックス』は、日経BP社が刊行している古典新訳シリーズで、2008年4月に創刊。巻末の『発刊にあたって』で、『一般教養としての古典ではなく、現実の問題に直面し、その解決を求めるための武器としての古典。それを提供することが本シリーズの目的である。原文に忠実であろうとするあまり、心に迫るものがない無国籍の文体。過去の権威にすがり、何十年にもわたり改めることのなかった翻訳。それをわれわれは一掃しようと考える。』とシリーズ刊行の目的を掲げた。」とあります。「『古典』を『古典』として読むのではなく、現代の問題を解決する一助として読む」、うーん。言えてる趣旨ですね。。「日経BPクラシックス」にも期待しましょう!