イエスの王朝 一族の秘められた歴史
武力が人々を統治する唯一の手段であった世界に、「あなたがたを呪う者を祝福し、敵のために祈り、あなたがたを迫害する人たちのために断食しなさい。」「だれかが右の頬を殴るなら、もういっぽうの頬もその人に向けてやりなさい。そうすればあなたは完全なものになるだろう。」と利他の精神を説いたイエス・キリスト。この頃のエルサレムやその周辺のユダヤ人の住む地域は、ローマ帝国の属州としての支配を受け、人々の中には、世の中を変革を期待する風潮が広がり、そういった中から「メシア(救世主」待望論」も生まれ、イエスは洗礼者ヨハネと共に旧約聖書に書かれた「神の王国」が地上において実行される、とする思想をもとにメシア運動を広げていきます。
当時のユダヤ社会の状況は詳しくはわかりませんが、彼らの思想の中心であるユダヤ教もいくつかの分派にわかれ、権威主義がはびこり、分派リーダーの説教は神と人々との契約事・約束事に縛られ、閉塞的かつ形式ばったものだったと思われます。そういった中で、前述のような言葉を説き続け、心の寛容を訴え「神の王国」を地上に再現するというメシア思想・運動は、ユダヤの人々に新鮮な空気をもたらします。
本書「イエスの王朝」は、「神の子」としてではなく普通の人間として生まれたイエスがどのような生涯を送り、何を為そうとしのか? に焦点をあてた作品です。著者は、ジェイムズ・D・テイバーさん。シカゴ大学で聖書学の博士号を取得。本書出版当時はノース・カロライナ大学宗教学研究所所長を務めていました。専門は、死海写本とキリスト教の起源研究で、キリスト教徒コメンテーターとしてTV、ラジオなどのメディアへの露出も多数あるようです。「ゲッセマネの園へ行って、その夜に直観的にあるがままのイエスの生涯の探求を始め、その後、40年間にも渡りその情熱を失わなかった」というテイバーさん。本書を読むと分かりますが、彼は前述したようなイエスの言葉に深く共感する信者なのですが、いわゆる一般的な 敬虔な信者ではありません。
テイバーさんは、「新約聖書」上に書かれた神の子・イエスの言動をそのまま受け入れるのではなく、生身の人間として存在したイエスの人となりを探りたい、という強い思いに駆られ教職の傍ら、新約聖書やいくつかの福音書に書かれているイエスや弟子の行動や言葉の違い、更にはそれらの行間に潜む微妙な表現や解釈の違いに着目し、パレスチナへ行き発掘調査・研究を続け彼独自の見解を構築していきます。そして、その研究成果である生身の人間・イエスの人生(イエスがどう生き、何を為そうとしたのか? )が本書の結末において語られます。この「イエスの王朝」を読むと、彼のイエスを尊敬・共感する熱い思いと、歴史研究者として「真実」を探求しようとする著者を通して歴史研究の素晴らしさ・奥深さがストレートで伝わってきます。
本書が実際ベストセラーになったということでもわかりますが、キリスト教徒であるなしを問わず、イエスの言葉の一端でも触れた人にとって、実際のイエスとはどんな人物だったのだろう、、と探求したくなるのはたぶん自然なことなのでしょう。。 私にとっても他者に寛容であるべき精神を説き、メシア運動の途中でローマによって処刑されたイエスという人物の思想や生涯は、心に訴えかてきますし、ことさら格差が広がり社会的な再分配機能が不全化している現代にあっては、この人物が唱えた寛容の精神に感銘・共感する人々は多いはずです。 なんだかんだいっても所詮、人間は一人では生きられない。。「敵があなたの頬を打ったら反対の頬も打たせてあげなさい」というイエスの言葉にはストレートに心に訴えるものがあります。もちろんイエスのように強くなれない、とわかっていながらも時には共感を覚え、でも時には反発しながら、、と共感と反発を繰り返しながら彼の語った言葉に共感・感銘を覚え、その思いはむしろ今の方が深くなってきている感じがします、自分と著者と温度差はあるにしろ、これから自分なりにイエスは実際はどんな人で、何を目的として生涯をまっとうしたのか、、自分でも心の中で己のイエス像をこれからも探し続けるのだと思います。。
「イエスは神の子なのか、生身の人間だったのか。。」 勿論、単なる興味本位や自らの売名行為のためなどに安易にキリスト教教祖の出自に関する言説を軽々しく論じることは不謹慎であることは当然なのは著者自身がわかっていて、「私は歴史上の『実在者としてのイエス』像を取り戻すために、得られた証拠に基づきながらも想像や推測をするほかない、という分野もあり、だれもが過敏にならざるを得ない議論の尽きないテーマについても触れざるを得なかった。」と心情を吐露しています。同時に「こういったテーマは、信仰と史実が接点を見出せない問題である。私は出来事をできるだけ時代に即して考察し、聖書をはじめとする諸文献に記述されている物事が、どこで起こったのか、場所を特定しようとしてきた。どの時点でも、私は神学的理論に縛られず、歴史的文脈に根差したイエスの物語の、人間的な価値を提示しようと心がけてきた。」と、このセンシティブなテーマの研究に関しての自らの真摯な思いを述べています。そしてさらに、生身のイエス像を探求するにあたり、謙虚な姿勢が大切であると、次のように述べています。「歴史に関する限り、自分たちが構築したものを絶対的真実だと思いこまないようにすること。時にイエスを探求する際は、歴史家は自分自身の中にある偏見を強く意識していなければならない」、なぜなら「歴史上のどんな人物と比べても、イエスほど人々の熱い反応を呼び覚ます者はないからだ。」
全くその通りですが、客観的に考えれば、初期キリスト教団が異国へ教義を伝播し、またローマ帝国がキリスト教を国教化し、拡大化していく過程で開祖であるイエスの位置づけが少しずつ神格化されていった可能性があることは、古代の歴史をちょっとでもかじったことがある人ならば否定はしないでしょう。(ちょっと考えただけでも、)先祖や家族を神格化し、その権威でリーダーが国の統治を行う、という例は、古代マケドニア出身の征服者アレクサンドロス三世にも見ることができます。Wikipediaでは、アレクサンドロス三世に関し「彼等の家族の出自は、ヘーラクレースとアキレウスが祖であり、ギリシアにおける最高の家系的栄誉と共に生まれた。」と記載しています。これなどは現代のような科学的検証力をもたず、通信手段がなかった古代であるからこそ利用できた一種の統治術だと思います。ですから、キリスト教においても、その発展・拡大化(キリスト教のローマ帝国における国教化とその後の異国への教義伝播)の過程において、徐々にイエスが神格化されていったとしても、なんら不思議ではないのです。
では、テイバーさんが40年かけて研究してきたイエス像とはどのようなものなのでしょう。。彼は、イエスがダビデの王朝を、再興しようとするメシアの一人とし「神の国がまもなく到来すること。それゆえ、すべての人はを悔い改めなさい、やがては、すべての人類のために、善と義と平和に基づく新しい時代がやって来る。。。」とメシア運動を展開した、、という点を軸に彼のイエス像を語っていきます。(ここではこれ以上は書きませんが、)その著者の説明には説得力があり、しろうとながらも納得させられるものがあります。
イエスの生誕からもう2千年の月日が経ちます。いくら、どうあがいてもイエスが生きた時代へ戻って当時のイエスに会ったり、彼のスピーチを生で聞くことはできない。。彼の真実に迫ろうとするなら当然のことながら現代に現存するイエスに関する書籍を読んだり、彼が生涯を過ごした現地へ行って調査・発掘しなければならない。。テイバーさんのように自分が納得できるイエス像を追い求めた日本の作家に遠藤周作さんがいます。遠藤さんのような優れた作家も追及してやまなかった「イエスの人間像」。やはりイエス・キリストという人物は、宗教の枠を超えて人類史の中でも一際光る強く、ゆるぎない知性の持ち主であったのだと思います。
「歴史」というと日本の教科書では、年号と出来事をセットにして覚えるという公式が成り立っていますが、実際の歴史という学問は、全くそうでありません。歴史を研究する、ということは「自らの感性を拠り所にして仮説を立て、その過程で歴史的文献や遺物にあたり、その仮説に検証を加え、修正し、発展させて一つの事実を導く。」という実に創造的なことなのです。そして、そこに絶対的に不可欠なのは、研究者の真実を追い求めようとする心の熱量なのだ、という著者テイバーさんの熱いメッセージを感じることができました。
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