私本太平記(五)~(八)
吉川 英治さんの「私本太平記」(五)~(八)では、後醍醐天皇の主導の元、足利一族が関東で挙兵した新田義貞と共に北条氏の鎌倉幕府を攻め滅ぼします。その後に続く建武の新政を経て、尊氏が後醍醐天皇と和解を探りつつ持明院統の光明天皇を京都に擁立し(北朝)、しかし、一方の後醍醐天皇は吉野で朝廷を開きます(南朝)。この北朝と南朝の争いから足利尊氏とその弟・直義との確執、そして尊氏の晩年が描かれていきます。
この私本太平記の後半の(五)~(八)は、戦さのシーンが多いのですが、吉川さんのどこかの記述に「この夏中、京都では戦の無い日はなかった、」、というような記述がありました。とにかく、京都では、毎日のように大なり小なりの合戦や武力衝突が繰り返され、その度に京都の鴨川の岸部あたりに負けた武将の首が見せしめとして野ざらしにされ、それが日常の風景となっていた、と考えるだけでも恐ろしい時代だったと思います。
思うに、この時代は、天皇家や公卿の人々も己の立場・権威の維持のために権力抗争にあけくれ、足利尊氏や新田義貞らの武家も、自分たちの家の名誉、己の名誉のため、戦に明け暮れ、家臣のたちは、主からの恩賞(土地)獲得のために明け暮れしていた時代であったのだと思います。とくかく天皇家も複雑な関係から二つの派閥に分かれて互いの正統性を主張する権力争いを起こし、その天皇家の権力争いを利用して武家の足利尊氏らの勢力が大義を掲げ、戦いの正統性を免罪符としながら、私利私欲に明け暮れた時代であったのだと感じます。その象徴的な武家勢力の象徴が「婆娑羅(ばさら)大名」として名をはせた佐々木道誉(ささきどうよ)。彼は、足利尊氏側につくかと思えば、尊氏と距離を置いたりして決して己の心の内を同盟相手に明かしません。さらに己の虚栄心を満たすためには、尊氏の妾である藤夜叉を手籠めにします。そして、この太平記の主人公である尊氏も肉親の弟・直義との争いの果てに、最後は弟に毒を飲ませ自害させしまう、というみじめな晩年をおくることになるのです。
このような、私利私欲にまみれたキャラクターばかりのこの物語において、唯一心を打つキャラクターが二人登場します。まずは楠木 正成。南北朝の争いにおいて味方軍の援護のため、敵を引き付けて戦う役に徹し、結局は進軍してくる敵勢いにのまれ、約30名の家臣と共に自害し果てるのですが、この楠木 正成を著者の吉川さんは、朴訥、高潔、欲のない、家族思いの武士として描いています。でも当時はとにかく「生きるか死ぬか」の世界。戦乱の世にあり常に死と隣り合わせに生きていく無情(無常)観を背負いながら、しかし、愚痴はこぼさず己の本分・職責を果たしていく、という現代でも、真面目・愚直なサラリーマンなら深く共感できる人物として描き切っている印象を持ちました。
そしてもう一人は、全盲で琵琶を奏でる覚一。彼は尊氏と近い関係になりながら、しかし盲という不具のため武芸でなく、楽曲に対し己の情熱を注ぎ、音楽により人々の心の調和を紡いでいく人物です。尊氏の死後の最終章は「黒白問答」というタイトルで、尊氏の琵琶法要が営まれる場面で、この琵琶法師・覚一が思う尊氏像、戦国の世の儚さ、未来への希望、を語る、という構成でこの作品を締めくくっています。
あと話がかわりますが、この作品でちょっと気になったのが、尊氏と弟・直義の確執、戦いのあたりから、登場人物たちの描写が減り、その分、説明文がだんだん多くなってなんだか結末を急いでいるような、ある意味手抜きの印象を持ったのですが、解説を読むとこの頃、吉川さんは重い病を患っていた、ということで、おそらくはこの作品の完成のため脱稿を急いでいた、ということがわかりました。でもそいうった事情がわからない読者にとっては、なんとなく終章あたりで説明文だけで最後の締めくくりにあたる数章を圧縮されたような印象があり、ちょっともったいない感じがしました。。
外国の作家が描くような万人が理解できるような平易な表現で、読む人を決して飽きさせない語り口で長編小説を語っていく作術には読者をうならせるものがあります。この時代(室町時代)を知りたい人にとってこの「私本太平記」は良きガイドブックになってくれると思います。(この流れで次は是非、「新・平家物語」にも挑戦したいと思います。)
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