本田宗一郎 夢を追い続けた知的バーバリアン

  PHP研究所の「日本の企業家シリーズ」の第7巻で著者は以前ご紹介した「史上最大の決断」の野中郁二郎氏です。(尚、「日本の企業家シリーズ」第1巻は以前ご紹介した「渋沢栄一 日本近代の扉を開いた財界リーダー 」です。)

  本田宗一郎氏は1906年11月17日に現在の静岡県浜松市天竜区に生まれました。宗一郎少年は「新しい機械、乗り物好き」で、小学校2年生の時、家から20キロ以上離れた飛行場まで大人用の自転車をこぎ、飛行場のそばの松の木の上から飛行機(アート・スミス号)が空を飛ぶ雄姿を見ます。そして、その二年後、村にはじめてきた来た自動車を夢中で追いかけます。そして、その自動車から道路にこぼれた油があると鼻を地面につけて車独特の油の(いい)匂いを嗅いで悦に浸ったのでした。宗一郎少年はこの頃から自分の手で自動車をつくりたいという夢を持つようになります。高等小学校卒業後は、東京、本郷湯島にある自動車修理工場、「アート商会」で六年間、丁稚(でっち)として働きます。ここで彼は、自動車の構造、修理のイロハ、運転技術などを学びます。年季明け後は、アート商会主人の榊原氏からの多大な信頼を得、弟子の中でただ一人、「のれん分け」を許され、アート商会浜松支店の看板を浜松に掲げます。仕事は順調に行き始め、このあたりから後年有名になる「徹底したお客様第一主義、短気でスパルタ的な社員教育、派手な芸者遊び」が始まります。

  1935年結婚。1936年には東京多摩川で開催された「第1回全日本自動車競争大会」に参加します。(ただし、もう少しで優勝というゴール寸前で、進路に割り込んできた車を避け切れず大事故を起こします。)宗一郎氏は、この頃、自動車修理に自分の夢の限界を感じ、会社を弟子に譲り、1936年「東海精機重工業」という会社を浜松に設立。ピストンリングという部品(エンジンの一部)の製造を開始、トヨタがその実力を認め40%もの資本を入れます。しかし、トヨタから派遣された重役と意見対立し、自分の株式を売却。1945年「本田技術研究所」を設立します。敗戦後の日本で移動手段が徒歩や自転車などに限られている当時、自転車用に既存のエンジンを改良し「自転車用補助エンジン」として販売ところこれが当たり、この後独自のエンジンをつくりだします。この事業が順調に行き、1948年9月「本田技研工業株式会社」を設立。先進性と開放的な性格の宗一郎氏は、1948年の会社設立後東京へ進出したい、という希望を強くします。( 自らの地方という閉塞的な社会に性格がなじまないという理由の他、潤沢な資金が必要な会社にとっても、大きなリスクを取れない地方銀行だけの融資には限界があったのです。)この時の東京進出を助けてくれたのが、のちに副社長となる藤澤武夫氏です。藤澤氏は、「ホンダ」に自ら出資も行い、常務取締役としてホンダの経営に関わります。「現場主義で、直観的」な宗一郎氏と、「無口で内向的、読書が唯一の趣味だった」藤澤氏という対照的な性格のコンビネーションがこのあと会社を「世界のホンダ」へと成長させるのです。

  1954年、ホンダは、世界一のオートバイレースとして有名な英国マン島で行われる「T.Tレース」への出場宣言を社内で行います。宗一郎氏はT.Tレース出場の意味は二つあると考えました。一つは「T.Tレースで優秀な成績を収めることにより、イタリア、ドイツなどのオートバイ市場でホンダを認知してもらう(市場を奪い取る)ことが可能になる。」もう一つは「敗戦直後の日本人にほのぼのとした希望を与えてくれた水泳の古橋広之進選手(1949年8月、ロサンゼルスで行われた全米選手権に招待されて参加し、世界新記録を樹立、当時の日本人に希望を与えた)のように、自分は技術で優勝を勝ち取れば日本人としてのプライドを(日本人に)持たせることができる。」と考えたのです。1959年の初参戦から三年後の1961年、125cc、250cc 両クラスで一位から五位までを占める完全優勝を果たします。現地の新聞は「日本の小さなオートバイメーカーであるホンダは独創的なエンジンを作ってきた。中身は独自の工夫に満ち、時計のように精巧であり、その点ではわれわれのマシンをはるかに凌駕している。」とその偉業を褒め称えました。そして、同年世界グランプリレースの 2クラス初制覇も成し遂げます。

     「レースというのは、技術のバランス、進歩を競うメーカーの戦争の場なんです。その製品の良い面、悪い面がすべてレースの中に出ますからね。強いヤツは必ず勝ち、将来世界のマーケットを獲得するという、いわばお墨付きをもらうところなんだ。とにかく勝たなきゃダメですよ。自動車だって、オートバイだって、世界市場に挑戦しようと思ったら、ただ『うちの車はいい』といったって、埒(らち)はあかない。国際レースに出て優勝しなきゃ、だれも認めてくれませんよ。要するに、レースっていうもんは、技術改善と宣伝の一番手っとり早い手段なんです。」 1962年、宗一郎氏は、四輪自動車の最高峰のレースであるF1参戦を決意します。F1プロジェクトのリーダーとして、夜は寝ずにアイデアを考え、設計室に来てスタッフと意見を交わせエンジン開発を続ける日々が続きます。その後、1964年 1 月 30日、ホンダは記者会見を開き、自動車レースの最高峰、F1世界選手権への参入を公式発表。同年5月のモナコ・グランプリが初戦になるはずでしたが、当時、ホンダの開発したエンジンを搭載してくれるはずのF1チームがその約束をキャンセルしたため、急遽ホンダは独自でボディをつくりモナコから三か月後のドイツ・グランプリでF1デビューを果たします。そして参戦二年目の 1965年 10月メキシコ・グランプリで初勝利を収めるのです。

  「史上最大の決断」のところでも書きましたが、著者、野中郁次郎氏は「フロシネス」(注)という概念の信奉者です。そして野中氏は古今東西の優れた政治家、軍人、企業トップはフロシネスに関する六つの能力を備えていると考えています。( 1、「善い」目的をつくる能力。2、ありのままの現実を直観する能力。3、場をタイムリーにつくる能力。4、直感の本質を物語る能力。5、物語を実現する政治力。6、実践知を組織する能力 です。)(野中氏は)宗一郎氏は上記六つの能力を十分に備えていたが、それだけではホンダという企業の「社長」たり得なかった。それを補完したのが藤澤氏だったとして、本書では宗一郎氏と藤澤氏のフロシネスに関する六つの能力を説明していますが、ここでは宗一郎氏の  1、「善い」目的をつくる能力 と 2、ありのままの現実を直観する能力、 を紹介します。

        まず 1、の「『善い』目的をつくる能力」 ですが、宗一郎氏はホンダのモットーとして「3つの喜び」を掲げていました。「つくって喜び、売って喜び、買って喜ぶ」。また、宗一郎氏の口癖の一つに「時間を酷使しろ」という言葉があります。これは能率の尊重を意味します。「時間の短縮は人間の本能」だと宗一郎氏は考えました。「歩くより車か汽車、汽車なら特急、特急よりもジェット飛行機というのが我々の欲望であり、スピードは必然的に時間的資産を生み出し、スピード化されただけ人生が豊かになる。」そして、社員にはその空いた時間を「大いに遊ぶべきだ。」と語りました。更に、社員には「うちの会社に入った以上、愛社精神なんていうことよりも、まず第一に『自分のために働け』ということを申し上げたい。」と滅私奉公を説くのではなく、自分のためにやったことが、人の喜びにもつながるならそれは結局、自分の気持ちにはね返ってきて、非常にすがすがしくなる、と考えたのです。そして「会社は公器であり、人間完成の場である」と考えました。

   次の 2、「ありのままの現実を直観する能力 」ですが、宗一郎氏は、マシンをテストコースで試すときは、地面にしゃがみこみ、目線をマシンと同じ高さに置き、マシンを目でとらえ、耳でエンジン音を聞き、鼻でエンジンの燃焼状態を確認し、手で振動状態を確かめたのです。このように常に五感を駆使し感情移入し、対象に入り込み理性的な分析も加え、マシン改良の仮説を導くのが宗一郎氏のやり方でした。三代目のホンダ社長、久米是志氏は「本田さんはモノができると三十分ぐらいじっと凝視しながらああでもない、こうでもないとひねり回して最後に『設計を呼べ』となるんです。絵を描いているうちは、実際どういうものになるかを頭の中でつかめていないんですね。モノを見ないとわからない。まさにホンダでいうところの現場、現物、現実の「三現主義」のうちの現物ですね。エンジンが動いているところを見て、触り響きを聞き、自分の体で感じ取っていたんだと思います。」

  そんな、現場、現物、現実を重んじた宗一郎氏(藤澤氏と対象的に、本を読むのが嫌い、つまり知識より三現主義を大切にした)は「右と左で手のひらの大きさや指の形がまったく変わっていました。右手は仕事をする手、左手はそれを支える受け手だった。右手で平面をさすると、ミクロン単位の凹凸まで把握できた。左手の人差し指と中指は誤ってカッターで削ってしまい、指の長さが短くなっていた。薬指は機械にはさまれ、扁平(へんぺい)になっていた。その他、指の表面や手のひらには、ハンマーで傷つけたもの、キリやバイトが深く入ったものなど、無数の傷が至る所にあった。宗一郎にとっては、手も現場を直観する重要な道具だった」のです。

   最後に本書の中から私的に印象に残った宗一郎氏に関する言葉(P132、川本信彦氏、四代目のホンダ社長)を挙げて終わりにします。「あの人の極端なのは『こうやってうまくいきました』と言うと『もっとやったか』と言うんです。普通の人だと『よかったな』と言っておしまい。ところが、本田さんは『それをやったら壊れます』というと、『壊せばいいじゃないか』と。うまくいったのだから壊す必要はないだろうと思うのですが、『もっとやったのか』とさらに追求する。壊してうまくいかなかったら、『そこまでやってうまくいかなかったんだな』と。これが本田宗一郎さんの発想のクリエイティビティを生む一つのポイントになっていると思います。つまり範囲を、駄目だという事実がでるまで広げてしまう (中略) 駄目だったのなら、どれくらい駄目だったのか。どこまでやったら駄目なのか、そして限界の結果が出るまで広げてしまう、上手くいっても、それはどこまでやったのか。『お前、やったのか』という言葉は身にしみましたけれど、あれは発想を広げる一つの手段で、本田さんの一つの特徴ですね。」

(注)「フロシネス」:社会が奉じる「善いこと(共通善)」の実現に向かって物事の複雑な関係性や文脈を配慮しながら、適時かつ適切な判断と行動をとることができる、身体性を伴った実践的な知性」のこと。野中氏は「実践知」と訳しています。