昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989 (PART2)

    (昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989 (PART1)からの続きです。)

  昭和29年12月10日から始まった鳩山内閣は「憲法改正、再軍備、そして対共産圏外交」を公約としていましたが、鳩山さんの考えとは反対に、同年3月の第五福竜丸事件や日本各地の米軍基地反対闘争が起こり、日本国民は平和に対する強い希望を持ちます。これは憲法を守ろう、という護憲運動につながっていきます。鳩山さんは、しかし、「日ソ国交回復共同宣言」に合意し、後年、北方領土問題への言及も含む平和条約を締結する足掛かりを得ます。(平和条約は結んでいませんが)少なくとも日ソ間の戦争状態を終わらせて国交回復する大きな仕事を残しました。

  そして、昭和32年2月25日岸信介(のぶすけ)内閣が発足します。岸さんは鳩山さん以上の憲法改正・再軍備論者です。岸さんは、吉田さんが一人で結んできた安保条約は「憲法と同様、アメリカに押し切られたものだから日本の立場をもっと強く出すよう変えるべき」と考え、安保条約の改正を主張します。この安保改定に関して一番問題となったのが、「極東における国際平和および安全のために日本は協力する」という表現でした。「極東」とはどこまでを指すのか?そして、端的にいうと、この表現は、それまでの「単なる反共産主義という立場から、(日本が)共産主義に立ち向かうための陣営、有力な国家になる。」つまり、アメリカの日本防衛の義務を明確にするとともに「日本は憲法の範囲内で在日米軍への攻撃に対しては積極的な軍事行動をとることを約束する。」という解釈ができるのです。昭和35年1月19日、全権団を率いてワシントンへ出向いた岸さんはアメリカと安保改定の調印式を行います。この条約改定はこの後、日本の議会での批准(承認)が必要です。しかし、当時の日本の世論は、第五福竜丸の水爆実験反対の平和主義が高まり、しかもアメリカの押し付けといわれていた新憲法の平和主義は国民的なものになりつつありました。そこへ初めから強行突破を狙ったこの安保改正法案に対して、社会党、労働組合、全学連などが猛烈な反対運動をおこします。いわゆる「安保闘争」です。結局、この安保改正法案は5月19日、与党だけの強行採決によりわずか数分で可決してしまいましたが、法案の自然成立する6月19日午前0時まで、国会前をデモ隊が取り巻き、警官隊との大乱闘が起こります。

  半藤さんは、安保闘争について「運動の中心となった当時の学生は私より10年ほど後に生まれた戦後民主主義の申し子たち。学生たちは本当に真面目で、白紙状態でかつての軍国主義、大日本帝国時代への嫌悪や反発を叩き込まれて育っています。あの東条内閣の閣僚で、それもA級戦犯で、本来もう表に出てこなくてもいい岸さんが議会政治を無視して軍事化路線を突き進むような法案の強行採決を見たのです。岸さんその人への嫌悪感、感情的反発は非常に膨らんでいたと思います。それはすなわち、軍事大国日本への決別、平和国家日本への強い祈願であったでしょう。そして(安保闘争の)騒動は、岸さんの退陣の瞬間にサアーッと終わってしまうのです。(岸さんは 6月23日、日米の批准書交換直後退陣を表明)日本において真に戦後的な気分が終わったのはこの時じゃないでしょうか。安保騒動は戦後の憤懣をすべて吹き飛ばした『ガス抜き』とみられなくもないのです。そしてその後、日本人は経済的実力と高い技術水準を備えた経済大国への道を志すのです。ところで、ここまで(の間に)日本がどういう国家をつくっていくか選択はいろいろあったと思います。しかし、『ガス抜き』が済んだらもはや選択は決まったといっていい。政治的闘争、国内の大混乱はたくさん、これからは日本を豊かな国にしよう、そして繁栄に向かおうじゃないかと、デモをやった人たちが、今度はたいへんな働きバチになって一生懸命働き始めるのです。」 「実際この後の池田内閣もこの考えに呼応するかのように『国民の所得倍増』という大ぶろしきを広げます。そして、正にこれは日本の高度経済成長の幕開けとなりました。この後日本は高度成長時代を迎え、東京オリンピック、新幹線、万博へ向けて向かうのです。」

  「高度経済成長時代において特に有効に機能し、国家の経済をうんと大きくする原動力となった運営スタイルがあります。それは『官僚統制システム』です。つまり国の経済的運営を個人の自由にせず、すべて官僚が決める方式です。官僚がグラウンドデザインを描き、アメとムチを駆使して実現するやり方です。実は昭和十四年の軍事大国を目指した国家総動員体制がこれと同じです。国家の経済方針を各企業や個人に任せず ― 本来はそれらが自由な働きをし、その総和が国全体の動きになるのですが ― 官僚がグラウンドデザインと具体的な政策をつくり、それを国会へもっていき、与野党に根回して国会で法案として成立させ、それを再び官僚が取り戻して企業にやらせるシステムです。官僚は上手に必ず自分たちのつくった政策が実現できるよう、予算をつくっておいて誘導するのです。さらにそれをうまくリードしながら、国家資金である税金の補助や優遇税制を用意しておいて企業にやらせるのです。しかも企業がやりたいといってくるのを許可、認可する許認可制もしっかり確立しておく。要するに法的にうまく按配して国家全体の繁栄を官僚たちが考えていくかたちになっていたのです。」

  最後に半藤さんの言葉で締めくくります。「今の日本は、戦後ずっと意思統合をしてきた『軽武装・経済第一』の吉田ドクトリンの分解がはじまっているようです。いい加減に戦後の経済主義を卒業したらどうか、の声が高まっています。いや、平和的発展を路線をさながら欠陥品のようにみなす人も増えています。『このままひたすら世界平和のために献身する国際協調的な非軍事国家でいく』か、『いやいやそれはもう時代遅れも甚だしい、これからは平和主義の不決断と惰弱を清算して、責任ある主体たれ、世界的に名誉ある役割を果たせる《普通の国》にならなければいけない。』 この二つです。その選択はまさに若い皆さんの大仕事というわけです。でもね、今の日本に必要なのは何か? 一つには、無私になれるか。マジメさを取り戻せるか。皆が私を捨てて、もう一度国を新しくつくるために努力と知恵を絞ることができるか。その覚悟を固められるか。二つ目に、小さな箱から出る勇気。自分たちの組織だけを守るとか、組織の論理や習慣に従うとか、小さなところで威張っているのではなく、そこから出ていく勇気があるか。三つ目として、大局的な展望能力。ものごとを世界的に、地球規模で展望する力があるか。そのためにも大いに勉強することが大事でしょう。四つ目に他人様に頼らないで、世界に通用する知識や情報を持てるか。さらに言えば五つ目、『君は功を成せ、われは大事を成す』(吉田松陰)という悠然たる風格を持つことができるか。。現在の日本に足りないのはそういったものであって、決して軍事力ではないと思います。日本よ、いつまでも平和で穏やかな国であれ。」