昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989 (PART1)
「昭和史 戦後篇 1945-1989」(著者、半藤一利さん)は前作「昭和史 1926-1945」の最後「ポツダム宣言」後の「日本の廃墟からの復興」「講和条約」「高度経済成長」、そして昭和の終わり(バブル経済の直前あたり)までを解説しています。
「それにしても(日本は)何とアホな戦争をしたものか。他の結論はありません。」(「昭和史」P494)と半藤さんが語る太平洋戦争は昭和20年8月15日、日本のポツダム宣言受諾、昭和天皇の「天皇放送」で終戦を迎えます。まず、本書において昭和天皇について一貫して語られているのは、「満州事変から太平洋戦争終戦に至るまで、常に国民の幸せを願い、日本が戦争に巻き込まれることを憂慮し、戦争については反対の立場をとっていた。」ということです。実際、終戦の8月15日の前日(14日)の御前会議でも(天皇陛下は)「国民を助けるには自分の身がどうなってもいい」と発言しました。「(その)御前会議で天皇が身を捨てて、聖断を下し戦争を終結させたことを知ったかなりの人が深い感動を覚えた。このあたりから昭和天皇を機軸に戦後日本の国家再建に力を合わす日本人の「あうん」の呼吸ができあがった。このことは、昭和史を考えていくうえで、つねに基本としてある。」国民の大部分は、天皇陛下が「自分の身はどうなってもいい」と言ったことに「国民はものすごく心を寄せ、非常にありがたいものとして受け止めました。(この昭和天皇にたいする感情は)昭和が終わるまで続いていった気がします。」
同年8月30日、連合国軍最高司令官、マッカーサーが厚木飛行場に来日。数日後、横須賀沖に停泊中の戦艦ミズーリ号で降伏調印式を行います。ここから、GHQの占領政策が始まります。GHQ連合国総司令部は、財閥解体、農地改革、労働改革。。。次々に占領政策を実行していきます。GHQはまた、同年12月、新聞に「太平洋戦争史」を掲載、ラジオで教育番組「真相はかうだ」を放送。どちらも「満州事変以降の戦争は非道な日本の軍国主義者がやった。国民は彼らの横暴によって支配されていた。何も知らない日本国民は哀れであった。」という視点でつくられ、「海外から日本の戦争はどう見られていたのか?」を日本国民は知ります。そして敗戦から1ヵ月もたたない 9月9日、マッカーサーは「日本管理方針」を発表します。(これは日本の根本的な政治改革で、必然的に日本の基本原理・原則である憲法の改正が浮かび上がってくる内容でした。)
同年10月4日、マッカーサーは憲法改正を口にします。「憲法改正、選挙法改正を出来る限り早くやること。さもなければ、GHQが若干の摩擦を覚悟しても乗り出していく」というものでした。この辺から日本国憲法(明治憲法)の改正問題がスタートします。憲法改正論議が始まり、いくつかの草案がでてきます。その後、GHQは、「(GHQとしては)もう指令は出さない。天皇制をどうするかは、日本国民の問題。早く(新憲法を)決めてほしい。」という内容を新聞発表します。これを受けて当時の国務大臣の松本烝治(じょうじ)を中心にした「憲法問題調査委員会」(通称 松本委員会)は憲法草案の議論をスタートします。
GHQは日本の民主化をさらに進めます。昭和21年1月1日発表の「天皇人間宣言」です。これにより「修身」(戦前の教育の基本)と「教育勅語」(人として守るべき道徳と戦争の際は喜んで国の為に戦死せよという教え)は禁止されます。「これにより明治以来、日本の国を作ってきた『国体』は全否定され、天皇陛下を中心とする日本の精神構造は全てなくなりました。その代わり日本人にもたらされたものは『アメリカ民主主義』でした。日本は、アメリカ式民主主義によって再建されることになったのです。」同年1月22日、「極東国際軍事法廷」(東京裁判)がどのように行われるのか発表されました。この時、マッカーサーを一番悩ませたのは戦争責任が天皇へ波及する事でした。しかし、彼の元に、知識人含めた多くの国民から天皇陛下擁護の手紙が届きます。これに感銘を受けたマッカーサーは、「天皇に責任はない。(日本には)天皇をきちんと置いておかねばならない。」と、決意を固め、この決断がそのまま「東京裁判」における天皇の判決につながります。
一方、(憲法問題の)松本委員会は全総会を終了し、憲法案をGHQへ提出。これを受けて、(同年)2月13日、GHQ側と日本側で憲法問題の会議が行われます。(実はここまでの過程で、松本委員会の憲法草案は明治憲法と大差ない保守的なものでGHQ側の希望する内容とは相いれないことをGHQは知っていました。)そこでGHQは、事前に用意した独自の(「国民主権」「象徴天皇」「戦争放棄」を盛り込んだ)憲法草案を日本側へ提出します。「この草案と根本形態が同じ改革案を速やかに提出せよ。さもなければ日本国民へ(GHQ草案の是非を)訴える。」と強い調子で日本側に伝えます。いずれにせよ、日本側は、そのまま受け入れるとも返すとも言わずにとりあえず預かって帰っていったのでした。(この辺のやりとりから後年「(現在の日本国憲法はアメリカ側からの)押しつけだ」という日本側の思いがでてきます。)ここで、半藤さんは「歴史にイフはないが、もし日本がこのGHQ草案を突っぱね、GHQが直接日本国民に問うたとしたらどうなったか? を考えることは、必ずしも無駄ではない。」といいます。「当時の日本国民は、戦争の悲惨さを痛感し、軍部の横暴にこりごりしていたから、平和や民主主義や自由といった、占領軍が示した新しい価値観を貴重と感じる人が多かったと思う。(省略)しかも象徴であれ何であれ、最大の問題であった天皇制が温存されているのです。政府が『国民はショックを受けて反対します』といくら言っても、実際は(国民は)歓迎したと思う。」と話しています。とにかく(同年)11月3日、GHQ草案に多少の修正があったものの「国民主権」「象徴天皇」「戦争放棄」を堅持した日本国憲法が公布されました。(翌年5月3日施行。)日本ではこの頃、「東京裁判」の最中でしたが、世界情勢が激しく動き出しています。
昭和23年あたりから、アメリカはアジアの社会主義化に対する懸念から日本の占領政策を緩め、警察強化(再軍備化)するようマッカーサーに命令します。そうしないと、日本国が社会主義国家を志向するようになるのではないか?という懸念が出てきたからです。その時「沖縄」「横須賀」の基地はそのまま確保し、日本の経済復興、日本独立に向けた講和も視野に入れる、という方向に向かいます。そして同年10月ワシントンの結論として日本をどういう国にすべきかの方針となる「国家安全保障会議文書」が大統領命令として出されます。(これは「GHQの右傾化」と日本人が呼ぶ占領政策の大転換でした。)そして、昭和25年の朝鮮戦争で日本は「特需景気」に沸きかえります。
戦後の昭和史の中で大きな出来事の一つが「講和条約の締結」です。「講和条約の締結=日本の独立」なので、「講和条約締結後の(『平和憲法』を保持する)日本は誰が守るのか?」という問題が起こります。(当時日本には軍隊は存在していなかったのですから)アメリカ占領軍が去った後、ソ連が日本へ進出する懸念も少なからずあったのです。ここらから、日米の特別な合意のもと「日本側はアメリカに日本を守って貰う、アメリカ側も戦略的、地理的に見て重要な日本を守る」という「日米安全保障条約」の原型が生まれます。こうなると、アメリカ軍が日本全土に駐留する可能性がでてきます。これに反発したのが天皇陛下です。昭和天皇はこの時の政府のやり方が非常に不満で、ある記録によれば、「(天皇陛下が)『(アメリカ軍の)日本本土の駐留はもってのほか、主権を日本へ残し、アメリカが沖縄を長期借りるという形で沖縄諸国をこのまま軍事占領してもらう方がいい』と言った。」という話があったようです。(そしてアメリカもこの提案にのったのです。)昭和天皇が亡くなる前に「沖縄へは、私がどうしても行かねばならなかった」と言った時、半藤さんは、「(はじめは)本土決戦の時間稼ぎで米軍と戦い、徹底的にやられた沖縄の人へのお詫びの言葉だと思ったのですが、この話を知ったとき、そうかこっちだと納得しました。」(P312より)
「講和条約締結」にあたったのは、当時(昭和25年)の吉田茂内閣です。具体的には「講和条約をどう結ぶか」「独立日本の安全保障をいかにすべきか」が問題となっていました。吉田さんはもともとソ連や中国が嫌いです。ですので講和条約は西側陣営とだけ結ぶ方向で考えましたが、当時の日本の知識人からは全面講和(世界中の国々との講和)すべきという声明が出されていました。そこで、吉田さんは事前に池田勇人大蔵大臣を密使として渡米させ、講和条約締結の前段階として極秘メッセージをトルーマン大統領に渡します。「全面講和ではなく多数講和。条約締結後、米軍の日本駐留を認める。必要なら憲法違反にならない形で日本からアメリカへ駐留の依頼を申し出る方法を研究する。」(これが結果的には「日米安保条約」の基礎的なものになります。)朝鮮戦争のさなか、独立国日本を味方にしたいアメリカの思惑もあり、昭和26年9月8日、日本はサンフランシスコで「講和条約」を結びます。形としては、「親米的でアメリカの傘下に入った、同時に重装備の軍事力を持たない通商国家」として国際復帰することが決定づけられたのです。連合国 52ヶ国のうち 48ヶ国と講和条約を結びました。(ただし、未締結国には、ソ連、中国が入っていた。)
吉田首相は同時に、「日米安全保障条約」も結びましたが、この拙速な締結に関してはいろいろ問題を残してしまいます。吉田さんは「(日米安保条約は)日本で大層評判がよくないから」と一人だけで署名してしまったのです。「日本のどこに基地を置くか?」を決めていませんでしたし(後で改定された)、「いざという時のための事前協議制度を欠いていた」、さらに、「沖縄統治の主権がどちらのあるのか曖昧模糊としたまま条約が結ばれた」からです。換言すれば、日本側は、アメリカに基地を貸すこと、沖縄および近くの島々をアメリカが管理することについて全面的に譲歩してしまったのです。そして、戦後の独立国日本は、この曖昧な二点をきちっとさせるために多大のエネルギーと時間、あらゆる努力を費やすことになるのです。このような過程を経て、このあと国論は「軍備はアメリカに任せて日本は経済を立て直し貿易国家として生き延びた方がいい。」という吉田首相の主張と、鳩山一郎さんを中心とした「何でもかんでもおんぶに抱っこはいけない。やはり憲法も変えて再軍備して堂々たる国家にすべきだ。」という主張の2つがでてきます。(これって今でもよく聞く論争ですね。)
(このあと、昭和史 〈戦後篇〉 1945-1989 (PART2)へ続きます。)
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