昭和史 1925-1945

      みなさんは「昭和」という言葉から何をイメージしますか? 特に今回ご紹介する「昭和史 1925-1945」(著者、半藤一利さん)における 1925年から1945年の「昭和」というと、どうしても「戦争」という言葉を連想し、重い気分になる人が多いんじゃないでしょうか??( 本書はズバリ、 満州事変前から第二次世界大戦の終戦までの昭和史を解説している本ですが、今回この本を読んでとても良かったです。) 

      あまり歴史は勉強してないんでたいそうなことは言えないのですが、日本における近代の始まりとは、「自国しか知らなかった日本国民が、ある日突如、 外国文明の圧倒的な力を見せつけられ(ペリー来航と開国)、それ以来、必死に諸外国に追いつこう(そうしないと隷属国家に成り下がってしまう、という恐怖もあり)とがんばり(尊王攘夷思想を基軸にした国内戦争)、そして、やっとの江戸城無血開城、明治維新 を経て、そして、明治の「日露戦争」の大勝利まで一気に登り坂の頂点を極めた、」という過程であったと思います。( 実際、日露戦争に勝利したことで、日本は当時の先進国にあたる列強の1つ「五大国」と呼ばれるようになりました。開国からここまで日本人は実にがんばりました。でも、このあたりから日本人は慢心、といいますか、変な自信を持ってしまったんでしょうねえ。。)

  日露戦争は、日本の勝利で終わります。 日本は清国と「満州ニ関スル条約」を結び、諸権益を得ます。満州国の「関東州」(遼東半島のほとんど全部)を清国から借受け、自由に使える権利、南満州鉄道と安奉鉄道の経営権等の利権、そして、それらの鉄道を守るために軍隊を置く権利(鉄道守備の軍隊駐屯権)などです。これにより、(幸か不幸か)それまでまったく関係を持たなかった満州に日本が足を踏み入れ、軍隊を派遣するスタートになったのです。このあたりまでが昭和の初めです。( 半藤氏はこの「満州国」の存在が、後の「昭和」の方向を決定づけるキー・ポイントであった、としています。)

  ところで、日露戦争はどうして起きたのでしょうか?? これは日本史の復習になりますが、当時、帝政ロシアは一年中凍らない不凍港を欲し中国へ南下、旅順、大連という大きな港を手に入れました。帝政ロシアはさらに朝鮮半島へ勢力を広げます。これに対し、日本は大変な脅威を覚えます。その南下を食い止めるための自存自衛の戦争が日露戦争だったのです。要するに昭和というのは、国際情勢的に中国が統一に向かって行き、(当時日本が最大の仮想敵国とみなしていた)ロシアも新しい国づくりをはじめ、日本を取り巻く環境がどんどん悪くなっていく、そういった時にスタートしたのです。つまり、日本には「それらの状況どう対応し、どう処理すべきか?」という問題が最も解決を急ぐ命題としてつきつけられていたのです。

  「そういった時に、日本を強くし、より発展させるにはどうしても朝鮮半島と満州を押えなければならなかった。いわば『満州』は日本防衛の『生命線』であったのです。そのような訳で、昭和史は常に満州問題と絡んで起こります。そして大小の事件の積み重ねの果てに、国の運命を賭した太平洋戦争があったわけです。」

  この頃までは日本は、どちらかといえば、米英国とはうまくやっていたのですが、ヨーロッパあたりの国際情勢がだんだんと緊迫して行くのと歩調を合わせるように日本軍も満州を最前線(橋頭保)として徐々に海外進出を図ります。でも、日本軍はどういうわけか、事前に戦況をあまり分析せず、何とかなるさみたいな思惑(と期待)だけで、事変をおこすようなことをしてしまうのです。(この辺は、読んでいても滑稽なまでにあきれるばかりです。「何とかなるさ的自信」と「結果オーライ的態度」で万事物事を進めていってしまいます。実際、開国以来、国内では国を二分するようなゴタゴタがあったりでしたが、しかし、おおまかには右肩上がりで何とかなっていたわけですから、そんな感じでやっていたのもなんとなくわかりますねえ。) また、当時はマスコミ(当時は主に新聞社)も自らの市場を開拓するために国民にうける記事を載せ、発行部数獲得と売上向上に必死になっていたのです。その読者(国民)が好む記事が「海外における日本軍の活躍(侵略?)」だったのです。   日本国民は日本軍とマスコミと共に「国民的熱狂」をつくっていきます。その「熱狂」は、例えば、日本軍がハワイを急襲して、アメリカと開戦した時にも繰り返しました。当時の(知識人も含めた)大多数の日本人はこの太平洋戦争の開戦を好意的に受け止めたのです。(当時の戦争に至るまでの日本のそういった「国民的熱狂」の形成、指導者の滑稽なまでの思い上がり、愚かさ、無責任さなんかが本書を読んでよくわかりました。当時の状況について、後世の日本人は「当時の指導者は、国民が嫌がる戦争に(国民を)無理やり駆り立ててどんなに冷酷無比のだったのか」と想像し、嫌悪、批判するかもしれませんが、すくなくとも太平洋戦争のはじめはそうでもなかったのです。国民全体がその「戦争開戦」の空気を形成し、(好意的に)受け入れていたのです。)

  「昭和史は、前述の通り、満州を日本の国防の最前線として領土にしようとしたところからスタートしました。最終的にはその満州にソ連軍が攻め込んできて、明治維新から日露戦争まで四十年かかって築いてきた大日本帝国を、日露戦争後の四十年で滅ぼしてしまう(つまり、満州国はあっという間にソ連軍に侵略され、のち元の中国領土となる)かたちで戦争が終わるという、昭和史(-1945年迄)とは、無残で徒労に終わった時代であったのです。きびしく言えば、日露戦争直前の、いや日清戦争前の日本に戻った、つまり五十年間の営々辛苦は無に帰したのです。昭和史とは、その無になるための過程であったといえるようです。日本人はあらゆるところでむなしい死を遂げ、その日本の死者の合計は二百六十万人と言われてきましたが、最近の調査では約三百十万人を数えるとされています。」(P496より)

      本書の最後に半藤さんは1945年までの昭和史から5つの教訓を語っています。「第一に国民的熱狂をつくってはいけない。その国民的熱狂に流されてしまってはいけない。昭和史全体をみてきますと、なんと日本人は熱狂したことか。マスコミに煽られ、いったん燃え上がってしまうと熱狂そのものが権威をもちはじめ、不動のもののように人々を引っ張ってゆきました。昭和天皇が「独白録」のなかで、「私が最後までノーと言ったならばたぶん幽閉されるか、殺されていたかもしれなかった」という意味のことを語っていますが、これもまた、そういう国民的熱狂の中で、天皇自身もそう考えざるをえない雰囲気を感じていたのです。」  二つ目は「最大の危機において日本人は抽象的な観念を非常に好み、具体的な理性的な方法論をまったく検討しない。自分にとって望ましい目標を設定し、実に上手な作文で壮大な空中楼閣を描くのが得意。物事は自分の希望するように動くと考える。ソ連が満州に攻め込んでくる時も客観的に考えればわかるのに、攻めてこられると困るから来ないのだ、と自分の望ましいほうに考える。」

  三つ目は「日本型のタコツボ社会における小集団主義の弊害。陸軍大学校優等卒の集まった参謀本部作戦課が絶対的な権力を持ち、そのほかの部署でどんな貴重な情報を得てこようが、一切認めない。軍令部でも作戦課がそうだった。」 四つ目は、「ポツダム宣言の受諾が意思の表明でしかなく、終戦はきちんと降伏文書調印をしなければ完璧なものにならないという国際的常識を、日本人はまったく理解していなかった。」 五つ目は、「何かことが起こった時に、対症療法的な、すぐに成果を求める短兵急な発想。これが昭和史のなかで次から次へと展開された。その場その場のごまかし的な方策で処理する。時間的空間的な広い意味での大局観がまったくない。複眼的な考え方がほとんど不在であった。」  

  そして、半藤さんは結論として、「政治的指導者も軍事的指導者も、日本をリードしてきた人々は、 根拠なき自己過信に陥っていた。こんなことを言っても仕方ない話なのですが、あらゆることを見れば見るほど、どこにも根拠がないのに『大丈夫、勝てる』だの『大丈夫、アメリカは合意する』だのを繰り返してきました。そして、その結果、物事がまずくなった時は、底知れぬ無責任になる。」そして、「昭和の歴史は多くの教訓を私たちに与えているが、それらの教訓を理解するには、まずしっかりと物事を見なければならない。歴史は(歴史を)学ぶ者にしか(その教訓を)教えてくれない。」と語っています。